2012-03-18(Sun)

香油を注がれた主 2012年3月18日の礼拝メッセージ

香油を注がれた主
中山弘隆牧師

 モーセは共同体全員に向かって、これは主の命じられたことであると言った。モーセはアロンとその子らを進み出させて、彼らを水で清めた。そしてアロンに長い服を着せ、飾り帯を付け、上着を着せ、更にその上にエフォドを掛け、その付け帯で締めた。次に胸当てを付けさせ、それにウリムとトンミムを入れた。また頭にターバンを巻き、その正面に聖別の印の黄金の花を付けた。主がモーセに命じられたとおりである。続いてモーセは聖別の油を幕屋とその中のすべてのものに注いで清め、その油の一部を祭壇に七度振りまき、祭壇とすべての祭具、洗盤およびその台に注ぎかけて聖別した。次に、聖別の油の一部をアロンの頭に注ぎ、彼を聖別し、続いて主の命じられたとおり、モーセはアロンの子らを進み出させ、彼らに長い服を着せ、飾り帯を締め、頭にターバンを巻いた。
レビ記8章5~13節


 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
ヨハネによる福音書12章1~8節



(1)愛による共感
 本日は主イエスに香油を注いだ或る女性の信仰を聖書から学びたいと思います。この女性が誰であったかという点では、聖書の資料によって異なっていますので、不明です。しかし、女性の性格や心境につきましてはそれぞれの福音書が語っている点は共通しています。それは主イエスの苦難に対する深い共感です。言い換えれば愛による共感であると言えます。
 人生の一番大切な事柄を認識する上では、知性による論理的な分析よりも、心の直観、或いは共感が非常に大きな役割をしています。また、そこに貴重な体験と深い思いの裏付けがある場合に、言葉では上手に表現できなくても、人は互いに共感し合うことができます。
しかし、そのためにはそれぞれが自分の人生を歩む中で、困難に遭遇し、辛い思いをし、孤独に悩みながらも、素直な心を失わず、人を恨んだり、非難したりしないで、前向きに生き、挫折を乗り越えるときに、人の思いに共感できるようになります。
或いはそのような共感は見えない導きの糸に対する心の反応であるともいえるかもしれません。あたかも鉄の小さい破片が磁石から出る目に見えない磁力に引かれるように、人を生かす目に見えない神様の導きを感じる心であるともいえます。
それに致しましても、このとき主イエスに香油を注いだ婦人の行為は、主イエスにとって大きな意義を持っていました。マルコによる福音書14:9で、次にように記されています。
「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」
この言葉は少し誇張されているのではないかと思われるほど、婦人の行為をイエスが評価されたことを表しています。主イエスの福音が宣教されるところでは、婦人がイエスに対して行ったことも共に語られると言うのです。あたかもこの女性の行為は福音の内容の一部分であるかのように聞こえます。このように一人の女性の行為が主イエスから認められていますのは、主イエスとの心の深い繋がりのためです。そしてその繋がりは、愛による共感、あるいは信仰による共感であったと言えます。

(2)感謝の香油
「過越祭の六日前に、イエスがベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中から甦らせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食卓の席に着いた人々の中にいた。」(12:1~2)
ラザロのことにつきましては、ヨハネによる福音書は11章で、急病で死んだラザロがイエスによって、死者の中から甦らされた事の次第を説明しています。「わたしは復活であり、命である」と仰せられた主イエスによって、彼は甦らされ、墓の中から出てきました。
ヨハネ福音書は、ラザロの復活を主イエスが成された最大の「しるし」と見ています。しかし、このために多くのユダヤ人がイエスを信じるようになりましたので、ユダヤ教の指導者たちはイエスを救い主として告白する者をユダヤ教の会堂から追放し、またイエスとラザロとを殺害しようと決意するに至りました。
このように緊迫した状況の中で、この三人の兄弟姉妹はイエスのために感謝の夕食会を開催したと思われます。そして、その場所に村人たちが大勢居合わせて、夕食会の様子を目撃していたものと推測されます。
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(12:3)
当時の習慣では、来客が家に到着したときとか、あるいは食事の席に着くときに、数滴の香油を注ぎかけることが行われていました。香油の中でも、ナルドの香油はインドから輸入された舶来の高級品でありました。「ナルド」あるいは「甘松」と呼ばれる植物から抽出された素晴らしい香りのする香油です。
ところがそのような高価な香油を婦人は惜しげもなく全部使い果たしたのです。これには人々も驚き、あまりにも無謀な浪費であると言って非難しました。その値段は三百デナリオンもするというのですから、今日の金に換算しますと、約三百万円に相当します。なぜならば、三百デナリオンは労働者のおおよそ一年分の賃金に相当したからです。 
多分この香油はマリアの持っている唯一の財産であったのではないでしょうか。もしそうだとしますと、そのような高価な香油をイエスの足に塗るために、惜しげもなく全部使ったのですから、その場に居合わせた人々が驚き、かつあきれたのも当然です。

(3)時を知る愛の浪費
「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか』」(12:4~5)
ユダは極めて常識的な判断をして、香油をもっと有効に使用すべきであると主張し、この婦人を激しく非難しました。ヨハネによる福音書はユダがこう言った本音は、彼が貧しい人たちのことを心にかけているのではなく、自分でその金が欲しかったからである、と説明しています。それでも、一般の人々もマリアの行為が理解できなかったと思われます。
そこで、常識的に物事を考える場合、人の気づかない盲点があります。それは非常に重要なことです。つまり、共感する心です。ここで実に大いなる浪費と思われる行為をマリアにあえてさせたものは、マリアの共感する心でありました。
迫りくる十字架の犠牲によって、主イエスの心は深い悲しみと精神的苦痛に満たされていたのですが、マリアはそれを察知したのです。そして、深い感謝の念に満たされて、自分のすべてを主イエスに献げたのです。
おそらく、彼女は以前主イエスに出会い、心の深い悩みを癒された者であったのでしょう。それまで誰一人として自分の苦しみを分かってくれる人は居なかったのですが、自分が何も話さなくても主イエスはその苦しみのすべてを分かってくださったのです。実に主イエスこそ完全な意味で、共感できる心の持ち主です。
彼女は主イエスの心の鏡に、自分のすべての苦しみが映し出されていると感じました。同時に、主イエスは自分とは全く異質で、罪が全くなく、完全に正しい人であると感じました。
その完全に正しく、聖なる主イエスが、自分を完全に受け入れてくださっているのが分かり、彼女の心は到底言葉では言い表せない平安で満たされたのです。そして新しく生きる力が与えられたのです。
そのとき、主イエスが自分の罪と苦しみを担ってくださっているからだ、と思ったのです。そこで深い感謝の気持ちから、主イエスの苦しみに対する共感が芽生えたのでありましょう。

「この人のするままにさせて置きなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしは一緒にいるわけではない。」(12:7~8)
この御言葉から分かりますように、マリアの行為と思いは主イエスの苦しみに参加するものであったのです。
主イスが十字架の道を歩んで行かれた時に、マリアは主イエスに従い、その苦しみを分かち合ったのです。
それは主イエスの犠牲の死に対する深い感謝の思いから、それに対して信仰的に応答したと言えます。
イエスはマリアの行為を、あらかじめイエスの葬り日のために、イエスの体に油を塗ったのだ、と仰せになりました。
マルコによる福音書14:6では、主イエスがマリアの行為を「わたしに良いことをしてくれたのだ」と仰っています。「良い」と訳されている元の言葉は「カロス」というギリシャ語ですが、それは「美しい」または「貴重な」と言う意味も含んでいます。それは「時に適って」、「美しく」、「貴重」なのです。
主イエスは「無償の愛の行為」を教えるために、強盗に襲われ道に放置されていた旅人を助けた良きサマリア人の譬話をされました。その話の眼目は、サマリア人の自発性にあります。実に、息も絶え絶えの状態で道の真ん中に放置されていた一人の旅人に遭遇して、自分も同じ旅人として抱いた「共感による自発性」こそ、愛の働きなのです。
またそれは時に適っています。そのような愛の行為は時を知って、大胆に行動するのです。概念だけで愛を知っていても、その愛は時に順応することはできません。
主イエスがここで仰せになっているように、貧し人々はいつでもいるのですから、彼らに対して良いことはいつでもできるのです。それに対して、地上におられた主イエスに仕えることができるのは、その時点だけでありました。
自然の営みは四季の移り変わりと循環があります。それに対して、人間が生きている時間は循環ではなく、直線的に過去から未来に前進して行きます。過ぎ去った時間はもう二度と戻っては来ません。さらにその時間の中でも、人生全体に対して決定的な影響を与える重大な時があります。
主イエスのこの地上における人生はそのように貴重な時でありましたが、殊にその最後の時こそ、わたしたちの存在を根底から変える力を秘めた重大な時でありました。
主イエスがわたしたちを愛し、わたしたちを罪から解放するために、わたしたちの罪をわたしたちに代わって担い、わたしたちの罪がもたらす神との断絶、そしてその結果である悲しみ、恐れ、死の中に、今まさに主イエスが入って行かれる時が差し迫っていたのです。

イエスの悲しみ、恐れ、死はわたしたちの罪のためであります。主イエスの心の中を思うならば、わたしたちはどれほど感謝してもなお足りないのです。このことをマリアは心の共感によって、直観的に察知したのでありましょう。地上における主イエスを見るときは、もう再び来ないのだと思ったのです。今こそ、主イエスにすべてを献げて、主イエスに仕える時であると考えて、マリアは行動しました。
しかし、十字架の死においてこそ、主イエスはわたしたちとご自身とを連帯化され、死においても最早分離することのない深くて強い結びつきを与えられたのです。

ここで、もう一つ大切なことがあります。ヨハネによる福音書では、主イエスが十字架の苦難を受けられる時こそ、救い主としての栄光が限りなく現れる時であると、見ています。
これは主イエスの十字架の死と復活を一つの不可分離の神の出来事として見るヨハネ福音書の信仰的理解です。
ともかく、そのような決定的意義を持つ時を知って、マリアは行動したのです。そこで、マリアが注いだ香油は、神がイエスを王として油注がれたことを意味しています。そこで、主イエスは神から油を注がれた王として、十字架に向かって行かれたのです。

(4)主に対する感謝の献身
それでは、主イエスの十字架の悲しみ、苦しみ、死がわたしたちを罪から救い、わたしたちが新しく生きるためになされた神の愛の行為、恵みであることを心の共感をもって察知する者は、どうすべきなのでしょうか。
アイザック・ウオッツの有名な讃美歌298番の4~5節で、このように歌っています。
「十字架のみもとに心迫り、涙にむせびてただひれ伏す。
涙も恵みに報い難し、この身を献ぐるほかはあらじ。」

ここで、涙もそれだけでは、神の愛、主イエスの犠牲に対する応答としては不十分である、自分の存在全体を主イエスに献げること以外にいかなる応答もあり得ないと言うのです。
心の共感は、主イエスの思いと主イエスがわたしたちのためにしてくださった事柄の実態を直視し、思いめぐらすならば、そこから認識の光を受けます。
そう致しますと、自分の罪を悲しむだけでなく、主イエスの十字架において、わたしたち自身が主イエスと一緒に十字架に付けられて死に、主イエスの命と義に生きる新しい自分が、主イエスの復活において、与えられていることを知るのです。これが信仰による認識です。
しかしそうは言いましても、古い自分は一度に死んでしまうのではありません。わたしたちが地上の生涯を送っている限り、古い自分は自分の中に生き残っています。古い自分とは自分の背中にアダムが付着している人間です。
それゆえ、わたしたちがこの地上で新しい人間として生きることが可能なのは、主イエスが日々わたしたちとわたしたちの罪を担っておられるからです。それゆえ、わたしたちは罪と共に過ごしている古い自分に絶えず背を向け、主イエスの中に与えられている新しい自分に向かって絶えず出発することが必要です。
言い換えれば、主イエスの義と命を受け、主イエスの思いに共感するとき、主イエスが父なる神の御心に従い、喜んで、自発的に実行されたように、わたしたちも主イエスの命令を喜んで、自発的に実行するのです。
その場合、わたしたちは必然的に様々な困難や苦しみ、恥、恐れと遭遇しますが、そこから逃避せず、それを担い、それに打ち勝って、隣人や自分に役に立つ良い業をするのです。
そのことが主イエスに従い、主イエスがすでに実現された主イエスの行動をわたしたちも、主イエスと結びついて、追体験するのです。
要するに、主イエスに担われ、主イエスに従い、主イエスの御心と命令を実行する生き方こそ、主イエスの恵みに対する、神の愛に対するわたしたちの共感と感謝の応答なのです。



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