2012-03-11(Sun)

死に勝利する神の栄光 2012年3月11日の礼拝メッセージ

死に勝利する神の栄光
中山弘隆牧師

 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
エゼキエル書34章9~13節


 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
ヨハネによる福音書11章17~27節



(1)神の栄光の現れるため 
 本日の聖書の箇所にラザロと彼の二人の姉妹が登場しますが、彼らはイエスの弟子であったと思われます。
 「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」(11:1~3)
 ここではラザロは主が特に愛しておられる者であることが強調されています。またラザロの姉妹たちは他の福音書でも良く知られています。イエスが彼らの家に泊まられたほどに、彼らはイエスとの親しい交わりを与えられていました。
 ラザロが病気になり、容態が急変しましたので、自分たちにとって一番大切なイエスにこの事情を知らせたのは当然であります。ちょうどそのときイエスは10:40に記されているように、ヨルダン川の向こうの地方に行って神の国の伝道をしておられました。
 姉妹たちはイエスが急いで来てくださるようにとは懇願しませんでしたが、イエスは愛するラザロのためにそうしてくださると信頼しきっていました。ヨハネによる福音書は11章3、5、36節で、イエスがラザロを特に愛しておられたことを強調しています。
 しかし、それほど愛しておられたラザロなのですが、イエスはラザロの家に直行せられませんでした。それはどうしてなのかと、意外な感じがします。わたしたちはこのイエスの態度を見ていかにも冷たいではないかと疑問を抱きます。
 実は、イエスはわたしたちが憶測する以上にラザロのことを心配しておられました。そのため神に祈り、神の御心を求めておられたのです。なぜならば、イエスの癒しの力はすべて父なる神からでる霊的力であるからです。
さらに、イエスのすべての行動を決定するものは父なる神の意志です。地上の生涯におけるイエスの唯一の目的は父なる神の御心が実現し、神の目的が成就することでありました。従いまして、イエスは父なる神に徹底的に従順であり、ラザロの急病を自分の身に起こったように受け止め、この危機においてどのように行動すべきかを神に祈り求められました。そこで、ラザロに対する父なる神の意志を知らされ、どのように対処すべきかを理解されたのです。
 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(11:4)

 このイエスの発言は、弟子たちにとりまして、非常に不可解でありましたが、そこに人智を超えた神の計画があると予感させられたのです。
 イエスはラザロが病気であると聞いてからなお二日ヨルダンの向こうの地方に滞在されました。ベタニアからそこに行くのに、丸一日を要する距離でしたから、イエスがベタニアに到着されたのは、ラザロが死んでから4日経過していました。
 ラザロの姉妹たちは一刻も早くイエスが来てくだされなければ、ラザロは死んでしまうので、イエスの到来を待ちわびていました。彼らの気持ちをイエスは誰よりも良くわかっておられました。
しかし弟子たちのことも考慮する必要がありました。10:31に記されているように、少し前に、ユダヤ人たちはイエスが神を冒涜する大罪を犯していると断定し、イエスをユダヤ教の最高の刑罰である石打の刑に処そうとしたばかりです。それゆえ、今またエルサレムに向かって行くことは、イエスを殺そうと狙っている者たちの手の中に飛び込むに等しい暴挙でした。
イエスが「もう一度、ユダヤに行こう。」と言われた時、「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間あなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と猛反対をしています。
 正に、ラザロを助けに行くことはイエスにとりましても自己の生命を投げ出すことでありました。そのような緊迫した状況の中で、行動の選択をイエスは強いられたのです。
このことにつきまして、イエスは仰せられました。
 「昼間は十二時間あるではないか。昼の内に歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」(11:9~10)
 イエスはここで昼間は12時間しかないことを弟子たちに想起させておられます。わたしたちは自分が少しでも長生きすれば、それが一番良いことだと思っています。しかし、大切なことは神がわたしたちに認められた時間の中で、神から与えられた使命を果たすことです。イエスは神が自分に認められた時間がいつまでも続くのではなく、限定されていることを強く自覚しておられましたので、どのような危険が横たわっているとしても、自分の使命をそれぞれの段階で果たさなければならない、と決意されたのです。
 これらのことを熟慮したうえで、イエスはラザロの病気は神の栄光が現れる機会であると悟られたのです。 
 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」とは、実に深い意味があります。病気で死ぬという身体的な死だけでなく、それと共にラザロの全人格が滅びる永遠の死をイエスはここで問題とされたのです。
 ラザロは病気で肉体的に死ぬだけでなく、霊的な意味でも死ぬことになる。しかし、それでラザロのすべてが終わるのではない。
なぜならば、これはまことに人智を超えた神の業でありますが、神がラザロの霊的な死に対して、イエスを通して、対処されるとき、神の栄光が現れると仰せになったのです。
 今やすでに死んだラザロのもとにイエスを通して、神の臨在と力が現されるとき、死に打ち勝つ神の力と命が働いて、ラザロは生きると確信されたのです。

(2)わたしは復活である
 他方、死によって、愛する兄弟との離別を悲しんでいるマルタに対して、イエスは次にように仰せになりました。
 「あなたの兄弟は復活する。」(11:23)
 すると、マルタはこのように答えています。
 「終わりの日の時に復活することは存じています。」(11:24)
 旧約聖書の預言者エゼキエルは、終わりの時に、死せるイスラエルは、神の言葉と霊とによって、復活させられ、新たなる神の民とされると預言しました。それがエゼキエル書37:1~14の有名な預言です。
 この預言に対する信仰により、ユダヤ教ではすでに死んだ人たちも、神の国が実現する終末には、死人の中から復活すると信じるようになりました。マルタがここで、「終わりの日の復活の時に、復活することは存じています。」と言った返答はこの意味であります。   

それに対して、マルタの信仰を一応それはそれとして認められた上で、イエスが仰せになった「神の栄光が現れる」ことは、それ以上の意味をもつ力強い霊的現実であると言われたのです。マルタにイエスは仰せになりました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:25)
ラザロが復活すると言うことは、ラザロが死なないでいることよりも、マルタとマリアとの人格的な強い交わりの継続であり、もっと深い慰めなのだ、とイエスは仰せられたのです。
なぜならば、ラザロの復活においては、イエスが姉妹たちとラザロの間に介在されるからなのです。
さらに、イエスにおいては、復活は遠い将来のことではなく、現在の正にこの時であるからです。

これが福音の中心です。確かに終わりの日はまだ来ていません。しかし、神の国は主イエスを通して、今や開始しているのです。
「わたしは復活であり、命である」と言うイエスの自己宣言は、すべての人間の主である「主イエス」の宣言です。この宣言の中にヨハネ福音書の内容のすべてが含まれています。
主イエスご自身が復活なのです。主イエスは死に勝利した永遠の命なのです。
「わたしは復活である。命である。」と宣言された主イエスを信じることにより、人は主イエスと結びつくとき、だれでも主イエスの命によって生きる「新しい人間」になるのです。

正にこれこそ、マルタに「あなたの兄弟であるラザロは復活する」と言われた霊的現実です。ラザロは確かに主イエスを通して、神の御前に生きるのです。それだけでなく、主イエスを通して、マルタやマリアと結びつき、皆共に生きるのです。そのような結びつきは、肉体的な死によっても破壊されない永遠の命なのです。
主イエスはわたしを信じて、わたしと結びついている者は、わたしと共に神の御前に生き、わたしの命である永遠の命によって生きる。そしてわたしを媒介として、すべての人間が共に、永遠に生きる、と宣言されたのです。
そのような方として、主イエスは兄弟との離別を悲しんでいるマルタに対して、「わたしを信じるか」と問われたのです。そこで、マルタは信仰の告白をしました。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています。」(11:27)

(3)主イエスにある連帯
最後に、地上における主イエスの啓示は、あくまでも、イエスが十字架の死による人類の贖いを全うし、死人の中からイエスを父なる神が復活させられた結果、イエスがすべての人間の主となられたという究極の啓示に由来しているのです。すなわちその先取りなのです。
主イエスは、人類の罪を御自分の上に背負い、罪のもたらす悲惨さと虚無を体験し、その中で神への従順を全うされたことにより、神の御前に生きる人間の義を達成されました。その時、神は主イエスを復活させて、主イエスを全人類と世界の主権者とし、主イエスを通して、神の恵み深い支配を確立されました。
その結果、主イエスを通して、神と人間とが結びつき、主イエスを通して、すべての人間が互いに結びつくものとされたのです。
従って主イエスはわたしたち人間の一人一人と出会い、「わたしは復活であり、わたしは命である。わたしを信じる者は永遠に生きる。」と仰せになるのです。

このことのしるしとして、主イエスはラザロの墓に赴かれました。
彼に同情し、涙を流し、心を突き動かされ、その苦しみを、その恐れを自らの上に担われたのです。その主イエスの有様は、主イエスがラザロをいかに深く愛されていたかを示しています。

 その極みは、イエスが十字架の犠牲の死によって、ラザロのみならず、すべての人間の罪と悲惨と孤独と虚無の悲しみと恐れとを担われたことです。
 その苦しみの中で、それにも拘らず、主イエスは神の栄光の現れることを確信し、十字架の死を全うすることにより、死に勝利されました。その神の力を持って、イエスは墓の中に横たわるラザロに向かって、渾身の力を込めて、大声で叫ばれました。
 「ラザロ、出てきなさい。」(11:43)
 この御声を聞いて、ラザロは墓の中から出てきたのです。これは主イエスご自身がラザロだけでなく、すべての人間とご自身を連帯化され、十字架の上で死に、墓に葬られたことを表しています。主イエスがすべての人間と共に葬られたことにより、父なる神が主イエスを墓から呼び出し、復活させられたことにより、決定的な意味において、ラザロは復活したのです。ラザロだけでなく、すべての人間が復活したのです。
 ただし、そのことは復活の主イエスが一人一人のところに臨在し、出会い、声をかけられることにより、一人一人が死の影から、「わたしは復活である。わたしは命である。」と仰せられる方の光の中に立たされるとき、体験できるのです。
主イエスはわたしたち一人一人のために、ご自身を結び合わせ、わたしたちの弱さ、苦しみ、悲しみ、病、恥、不安、恐れをご自身の心の鏡に映しだして、同情し、その苦しみをご自身の上に担いつつ、それに打ち勝つご自身の命と正しさとを常にわたしたちの中に供給し、わたしたちに本当の喜びと希望と感謝を与え、主に従う人生を歩ませてくださるのです。
今は亡き三浦綾子女史は、水野源蔵さんの生涯はキリストの復活の命に生かされた尊い生涯であった、と言っています。本当に水野さんは絶望して死にたいと思うような孤独と行き詰まりの中でも、キリストが近くにおられ、すべてを知り、「わたしは復活、命である。」と仰せられ、その感謝と喜びに生かされた方でした。生涯の終わりが近づいた時の短歌が「幾度もありがとうと声出して言いたしと思い今日も日暮れぬ」が別れの言葉でした。
東日本大震災と大津波、そして福島原発の放射能汚染によって一年たった今も、依然としてその苦しみは続いています。先の見えない不安の中で、立ち上がり、明日を目指して、生きなければならないこの困難と悩みを主イエスは担ってくださっています。そして、それに打ち勝つご自身の命を与えて下さっています。
主イエスがご自身をすべての人と結び合わされていることにより、人と人との連帯があるのです。そして主は苦しみの中にある貧しい人とご自身を結び合わせて、その貧しい兄弟にしてくれることは、わたしにしてくれることであると喜ばれるのです。
また、貧しき人を助ける善きサマリア人の中に主イエスは働いて、その業を強められるのです。喜んで、進んで善き業をするようにしてくださるのです。このように主イエスは苦しんでいる人々を担い、また人々を喜んで助ける人々を担い、人と人との連帯の中心にいてくださるのです。



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