2012-03-04(Sun)

わたしは羊のために命を捨てる 2012年3月4日の礼拝メッセージ

わたしは羊のために命を捨てる
中山弘隆牧師

 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。
エゼキエル書34章9~13節


 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―― 狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
ヨハネによる福音書10章7~18節



(1)羊飼い
 主イエスはここで、わたしはよい羊飼いである、と言われていますが、パレスチナ地方では古くから羊と羊飼いの密接な関係は良く知られていました。
 創世記の4章に、アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった、と書いてありますので、羊の飼育はパレスチナ地方では最も古くから行われていたことを暗示しています。羊は遊牧民にとって、生計を維持する上で、非常に大切な財産でした。また羊は愛らしい動物で、決して人間を攻撃することのないおとなしい動物です。そして自分を守ることができませんので、常に人間が世話をして、狼やライオンに襲われないように監視する必要があります。
 旧約聖書では、神様とイスラエルの民の関係を比喩的に表すものとして、羊飼いと羊がしばしば描かれています。
 例えば、詩編23編では、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」と歌われています。
また、神の終局的な救いを預言したイザヤ書40:10、11節で、「見よ。主なる神。彼は力を帯びて来られる。----主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
次に、新約聖書では、主イエスを羊飼いと呼んでいます。その最も有名な個所は、ヘブライ人への手紙13:20です。そこでは、主イエスを「永遠の契約の血による羊の大牧者」と呼んでいます。

(2)羊を愛する羊飼い
さらに、本日わたしたちが読んでいます聖書の箇所は、まさにこのことが中心テーマです。10章の10節の後半から11節で、主イエスは仰せられました。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである、良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10:10~11)
これは、先ず羊飼いが羊を愛して、羊を養うために、何処までも羊のもとに留まり、羊と自己を連帯させて、行動することを意味しています。羊飼いは羊と苦楽を共にすることによって、羊を養うのです。
この内容は、神の御子である主イエスが、羊のように弱いわたしたち人間を生かすために、自らわたしたちの立場に立って、わたしたちとご自分を結びつけ、連帯化されたことを表しています。
このことが人間に対する神の愛です。しかも罪のために神から迷い出た罪人を神の御もとに連れ帰る神の愛であります。
使徒パウロはこの神の愛をコリントの信徒への第二の手紙、8:9で、次にように言っています。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
神の永遠の御子は父・子・聖霊の交わりの中で無限の豊かさの中におられる方でありますが、人間を愛し、人間と一緒に住むために、御子が人間となり、わたしたちの主イエスとして、わたしたちのもとに来られました。その結果、主イエスはわたしたち人間の貧しさと苦しみを担っておられますが、そうすることによって、ご自身の内にある豊かさをわたしたちに与えられるのです。
さらに、この人間に対する神の愛は、人間を罪の束縛から解放し、神の子たちの自由に入れるための贖罪愛であります。すなわち十字架の贖罪愛です。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」との御言葉は、この事実をストレートに表現しています。
罪のために神との交わりから離れ、罪による闇と束縛の中でさ迷っている人間を神のもとに連れ帰るために、罪を取り去り、罪を克服するご自身の義を与えるために、主イエスはご自身の命を犠牲にされたのです。これこそ、人間に対する神の愛であり、十字架の贖罪愛であります。

(3)羊飼いに従う羊
次に、10:14~15で、主はこのように仰せになりました。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」(10:14~15)
パレスチナ地方では、羊飼いたちが羊を夜の間、入れておく共同の囲いがありました。それは石でできた堅固な囲いでした。夜は囲いの門のところに一人の見張りが立って、羊を監視していたのです。朝になると羊飼いたちが来て、それぞれ自分の羊たちの名前を呼びますと、呼ばれた羊が集まって来て、羊飼いは羊たちの先頭に立って羊を導き出します。そのように羊は自分の羊飼いの声を知っており、その声に聞き従うのです。

ここで主イエスとクリスチャンの関係が、羊飼いと羊の関係として表されています。
第一に、主イエスは、「わたしは自分の羊を知っている」と仰せになっていますが、わたしたちのとって何よりも頼りになるのは、主イエスがわたしたちを完全に知っていてくださることです。
このような方は、主イエスの他には誰もいません。親も先生も友人も、先輩も同僚もその他の親しい人が、たとえわたしたちをよく知っているとしても、主イエスのように完全には知っていないし、また知ることはできません。
主イエスは神の御子でありますから、父なる神との間に、愛による一致と完全な交わりを持っておられ、父は子を完全に知り、子は父を完全に知っているという関係の中に生きておられます。その主イエスが父はわたしを知っておられるように、わたしは自分の羊を完全に知っている、と仰せになるのです。
従いまして、主イエスはわたしたちの現在のすべてのことを知っておられます。わたしたちの生活のすべてを、そしてわたしたちの心の中のすべてを知っておられます。さらに、わたしたちの過去も、将来もすべて知っておられる方です。その主イエスがわたしたちを導いてくださるので、わたしたちの人生は主イエスが知っておられるように展開していくのです。
第二に、主イエスは次のように仰せになりました。
「わたしには、この囲いの中に入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。」(16節)
ここでは、異邦人で主イエスを信じてクリスチャンになった人たちのことが語られています。
彼らは主イエスの在世の間は、まだ主イエスを知らなかった人たちです。しかし、主イエスが十字架の死から復活された暁に、世界の主権者となられた結果、名実ともに全人類の救い主となられました。それ以後この御言葉は世界のすべての民族から、主イエスがクリスチャンを召し出して導かれるという事実を表しています。
第三に、主イエスは「羊もわたしを知っている。」と仰せられました。これはわたしたちが主イエスを信じることです。
「十字架について死なれた方こそ、神の御子であり、その死において、ご自身を人類に与え、その死において、人類の罪を贖い、その贖罪の恵みによって、人類を神の御前に生きるようにしてくださった。」と信じることです。
このことが主イエスを人格的に知ることなのです。
当然この信仰は、父なる神が、主イエスを十字架の死から復活させられたことにより、与えられたのです。弟子たちの場合もすべて同じです。
弟子たちは主イエスが地上の生涯において、神の国を宣教された時、「あなたはメシア、生ける神の子です。」(マタイ16:16)と告白しましたが、その告白はまだ完全な告白ではありませんでした。
それに対して、復活の主イエスが疑い深いトマスと出会われた時に、彼は次にように告白しました。
「わたしの主、わたしの神よ。」(ヨハネ20:28)
この告白がキリスト教会の告白となったのです。
従いまして、主イエスは復活者として、今や聖書の御言葉を通して、わたしたちと出会われる方です。聖書の御言葉を通して、神としてわたしたちのところに臨在し、わたしたちの心の中に住み、ご自身とわたしたちを結びつけ、わたしたちをご自身の命によって生かされる方です。
言い換えれば、わたしたちが主イエスを信じるとき、主イエスはわたしたちに「ご自身との存在的なつながり」を与えられ、わたしたちを「主イエスの義と聖と贖い」によって生かされるのです。

今や、復活の主イエスは神として、わたしたちと出会い、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と仰せになっています。
「わたしは----である」という言い方は神の自己啓示であり、「エゴー----エイミ」という聖書特有の表現なのです。これは主イエスが地上でおられた時の宣言です。その時はまだベールに覆われた形の宣言でしたが、既に神の自己啓示の言葉が語られました。
しかし、現在は復活の主イエスが神としてわたしたちと対面し、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いとして、羊のために既に命を捨てた者である。」と仰せになるのです。
それゆえ、わたしたちは現在わたしたちと出会っておられる主イエスから、「あなたはわたしを信じるか、あなたはわたしに従うか」と主に対するわたしたちの「信仰と従順」とが問われているのです。

最後に、主イエスを救い主として信じることは三つの面があります。
第一は、自分の義と自分の力に頼る生き方を捨てることです。自分の力によって、神の命令を行うとするのを止めることです。これまで持っていた自分の誇を捨て去ることです。
42年間、関西方面で伝道牧会された森脇喜平牧師がある本の中でこのように語っておられます。
「世の中では、自分はこれでよいと確信している人が多い、自分は正しいことをする能力があるから、正しことが何であるかを知りさえすれば、実行することができると信じている。
しかもこういう人はある程度真面目に生きている人であるから、正しく生きられない人を軽蔑する。ほとんどの人々は、このような考えで自己本位の正しさ、実はこれが罪なのだが、自分の正しさに生きている。自分で正しいと思いながら、人を苦しめている。----キリストこそ、正しいと思っている人々が、本当は正しいのではなく、罪人の頭であることを知らせ、その人を支配している罪の実態を示し、罪から解放し、神の御心に従う人生を歩ませてくださるのである。
----こういう意味で、救いを与えてくださると言うのは、キリストがわたしの内に住んでくださることである。それによって今までとは違った価値判断をもって生きるようになるのだ。」
第二は、主イエスを信じることにより、主イエスの義を与えられて、その結果、神との人格的な交わりに入れられることです。
これは決してわたしたちの義、わたしたちの功績によるのではなく、全く主イエスにおける神の恵みによるのです。無償の恵みにより、わたしたちは神と人格的な交わりを与えられているのです。
第三は、神との交わりの中で受ける主イエスの命と力とによって、神の御心を行い、隣人を愛し、善き業を実行するのです。
信仰者たちが神の子たちの自由をもって、行動する具体的な姿は、自ら進んで、喜んで神の命令に従うことです。しかしそれは自分の力で命令を実行するのでなく、主イエスの力によって、実行するのです。
わたしたちは主イエスが十字架の上で創設されたご自身と人類との連帯によって、既にその連帯の中にありますので、主イエスは常に御言葉をもってわたしたちと出会い、命令をされると同時に、その命令を実行する力をわたしたちの内に供給しておられるのです。
このことを確信し、感謝し、喜んで、自ら進んで、神の命令を実行するのです。
それゆえ、自己の功績を求めず、また自己の功績を求めたいという下心から完全に解放され、純粋に喜んで、自ら進んで、自主的に神の御心である良い業を実行するのです。
そのような極めて活動的な愛の業を通して、クリスチャンは聖化の過程を歩むのです。それが主に従うことです。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞きわける。こうして、羊はひとりの羊飼いに導かれ、一つの群れとなる。」(10:16)と仰せられた主イエスに導かれる神の子たちとして、わたしたちは主イエスの御声を聞きわけ、何処までも主イエスに従っていく者たちです。



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR