2012-02-26(Sun)

わたしが命のパンである 2012年2月26日の礼拝メッセージ

わたしが命のパンである
中山弘隆牧師

 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
出エジプト記16章13~16節


 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
ヨハネによる福音書6章41~51節



(1)人間にとって最も必要なもの
 わたしたち人間が生きるために、最も必要なものは何でしょうか。
健康でしょうか。能力でしょうか。金でしょうか。社会的地位でしょうか。様々な商品を製造している会社、或いはそれを販売している多くの会社はこれまでの利益を確保することは困難な時代になりました。競争の激しい時代に以前通用したことを守っているだけでは、会社の経営状態も悪化し、倒産することにもなりかねません。従いまして、就職しても、それで将来が保証されているから安心できるとは言えなくなっています。
 このように社会の在り方が大きく変わる時代にこそ、人間とは何であるかをしっかりと認識して、自分の人生を逞しく生きることが最も必要です。そのために、人々は人間としての幸福とは何かを考え、それぞれの人生観を持つことが必要であると思うでありましょう。
 しかし、そこでは人生を見る視点が何よりも重要です。具体的に人間は縦と横との関係の中で存在しています。
 税金のことで主イエスを罠にかけようとしたファリサイ派やヘロデ派の人たちに主イエスは仰せになりました。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)。この言葉は人間が神との縦の関係と、他の人々との横の関係の交差点に立っているということを示しています。
人は誰であっても先ず縦の関係を第一とすることによって、横の関係も正常に保たれるという意味です。

 今日の科学技術の発展した時代に人間は何でもできるという安易な考え方が世界に蔓延しています。近い将来には、人間は宇宙に進出し、宇宙に住めるようになると考えている人が多くいます。しかし、太陽系の惑星の中で人間の住める環境は地球以外にどこにもありません。太陽系の外にその環境を探すとしても、光の速度で何百年もかかるところに人間は移住することはできません。結局、神様が人間の住む場所をして与えられたこの地球で、環境と資源とを守りつつ、人間は生きなければならないのです。
 神は万物の創造者であり、その支配者でありますから、神だけが全知全能なのです。この神の偉大な力と知恵を知りますとき、人間は神との関係を第一とすべきなのです。ただそれだけではありません。神との関係は人間が創り出したのではなく、神が人間を選び、主イエスを通して、神ご自身が人間との関係を創設されたのです。
 このような方として、神は神の御子・主イエスを人間の歴史の中に派遣し、主イエスを通して、人間を神と和解させ、人間を神との人格的関係に入れてくださいました。地上における主イエスの生涯は、ただ一回限りの生涯ですが、それによって創設された神と人間との関係は復活の主イエスを通して、永遠に存続するのです。
それゆえに、人間は神との関係を第一とすることによって、人間同士の横の関係を確立することができるようにされています。

(2)ユダヤ人のイエスに対する誤解
 本日の聖書の箇所でありますヨハネ6章26~27で、主イエスはこのように仰せになりました。
 「はっきり言っておく。あなたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
 群衆は主イエスが五千人の大衆に食べ物を与えられたとき、非常に感動し、主イエスを来るべき大預言者であるとして、主イエスを自分たちの王にしようとしました。生活に一番必要なパンを与える者を自分たちのメシアにしようとしたのです。
 しかし、イエスは彼らの期待に応えてメシアになることを拒否されました。なぜならばイエスは本当の意味でメシアであったからです。
 民衆が期待したメシアとは、超自然的な力を働かせ、人間の生活を守り、豊かにする神的なカリスマを持った指導者でありました。
 このような民衆の考え方からすれば、「いつまでもなくならないで、永遠の生命に至る食べ物のために働きなさい」というイエスの言葉を誤解し、イエスが与えてくれる食べ物は、どれだけ食べても尽きることのない不思議な食べ物であると思い込み、そのような食べ物を与えられるように願ったのです。
 しかし、イエスが与えられる食べ物は、そういう食べ物ではなく、「永遠の命」を与える食べ物であると仰せになりました。
そこで、民衆はイエスの話されることの意味が幾分か分かりましたので、イエスが神から遣わされた者であることを信じるに足りるだけのしるしを見せてくれるように要求しました。
そこで、彼らはわたしたちの祖先は、荒れ野でマンナを食べたと言っています。彼らの根拠は出エジプト記16:4、13~15です。しかし、イエスは「しるし」を拒否されました。
なぜならば、主イエスを信じることは、しるしによるのでなく、主イエスの人格と言葉と業を見て、信じることに他ならないからです。

(3)永遠の命を与えるパンと永遠の命に生きる律法
 ここで、主イエスは次のように仰せになりました。
 「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」(6:32)
 ここには二つのことが言われています。
第一点は天からのパンを与えた方は、モーセではなく、主イエスの父なる神であったということです。
第二点はモーセが与えた天からのパンは、天からのまことのパンではなかった。しかし、天からのまことのパンがある。それはイエスを通して与えられる神の賜物であると、仰せられたのです。

 次に、ユダヤ人との論争は、ユダヤ人の先祖が荒野でマナを食べたという話から、マナはあくまでもモーセの律法が民に命を与えることを象徴するものと見なされ、論争はモーセの律法が本当にイスラエルの民に命を与えたかという点に移行しています。
 従いまして、32節の主イエスの言葉は次の意味を持っています。モーセを通して与えられたパンは真のパンではなかったということ、そしてモーセを通して与えられた律法は本当の命を与えることはではなかったという意味です。
つまり、マナも律法も共に真のパンと真の律法の比喩として与えられたというのです。それに対して、「真のパンと真の律法」は、言い換えれば「永遠の命」とは、神が与えられる「人の子」であるという極めて積極的な主張がされたのです。

(4)仲保者である主イエス
「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(6:27)
「人の子」とは主イエスがご自身を呼ぶときに、用いられた名称です。真の神であり、真の人間である主イエスが「人の子」として、神と人間との「仲保者」の役目を果たしているという意味です。
「永遠の生命」は父なる神の本質的な所有物です。この永遠の生命を父なる神は御子に与えられました。そこで、御子の生命は完全に父なる神に依存しています。このことについて、57節で説明されています。
「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(6:57)
ここで、御子が父なる神によって生きる仕方は御子が父なる神の内にとどまっていることによってです。このことについは、他の箇所で説明しておられます。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる。」(14:10)
それゆえ、信仰者が「人の子」の中に働いている永遠の命を受けるためには、父と御子との存在的な関係と同じような関係が「人の子」と「信仰者」との間に設立されることが必要なのです。

それゆえ主イエスは問題の核心をズバリとこのように仰せられました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)
 この御言葉の要点は、二つあります。
一つは主イエスがその人の内におられ、その人が主イエスの内にいるという主イエスと信仰者との相互内住の関係です。
一つは相互内住の関係を通して与えられる永遠の命とは、人の子の「肉」と「血」なのです。言い換えれば主イエスの「人間性」です。
 ここで注意する必要があります。このイエスの発言は、地上でなされましたが、すでに復活した主イエスの立場からなされているという点です。主イエスは十字架の犠牲の死から復活し、昇天し、聖霊を通して信仰者の中に内在されることを言っておられるのです。

従って「人の子」とは死人の中から復活された主イエスの「人間性」を言い表す名称です。これは次の御言葉が明らかにしています。
 「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば、--。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(6:62、63)
 ここに至って、主イエスを信じる信仰者が食べなければならない肉とは、地上におられた主イエスの肉ではなく、「人の子の肉」であり、「天的な人間」であります。つまり、「復活の主イエスの人間性」です。
 さらに「わたしがあなたがたに話した言葉が霊であり、命である。」と仰せられました。
これはここでなされたイエスの講話の実質は、「霊」であり、「命」であるという意味です。しかし一体どういう事態なのでしょうか。
それは死人の中から復活された主イエスが、地上におられたときの御言葉を通して、信仰者と出会い、聖霊を通して信仰者の中に内住され、聖霊を通してご自身の命を信仰者に与えられるという現実です。
つまり、復活の主イエスの臨在が御言葉と結びついていることが第一点で、第二点は、聖霊が主イエスの中にある永遠の命を信仰者の中に運ぶ手段であるということです。
 さらに、主イエスご自身が、「聖霊を担う者」として、言い表されています。
それゆえに、主イエスは聖霊に満たされてどこまでも父なる神に対して従順な神の御子として、この地上の生涯を送り、父なる神からこの地上に遣わされた使命を果たされたのです。
 さらに、主イエスご自身が、聖霊を人間に授与される「聖霊の媒介者」であることも同時に言い表されています。
 従って、「わたしがあなたがたに話した言葉が霊であり、命である。」とは今や復活し、天地の支配者となられた主イエスが、地上の生涯で語られたすべての言葉が霊であり、命なのです。

 ここに至って、今や命を与える「言葉」と、命を与える主イエスの「肉」とは決して対立し、矛盾するものではありません。
肉は何の役にも立たないと仰せられたのは、地上での主イエスの姿を見て、主イエスを勝手に判断したユダヤ人の見方は何の役にも立たないと言う意味です。
主イエスの肉こそ、神の創造された真の人間であり、真の人間性なのです。御言葉は主イエスの肉が達成したことの意味を現わしているのです。
それゆえ、「主イエスの肉」と「主イエスの言葉」は共に「永遠の命」なのです。
 神は主イエスにおいて、人類にご自身を啓示し、人類を罪から贖い、ご自身と和解させられました。このことを信じる者は、「永遠の命」を受けるのです。
そして主イエスの歴史的な行為と十字架の死と復活を信じる者は、神との交わりに生きる「新しい人間」となるのです。
このことをヨハネ福音書は1:11~13で説明しています。神の永遠の御子が受肉して真の人間となられた主イエスの名を信じる者は、「神の子」となる資格が与えられて、「神によって生まれたのである」と言っています。
従いまして、クリスチャンとは主イエスの人間性を根拠とし、源泉とし、そこから神によって創造された新しい人間なのです。
それゆえ、神に対して従順な人間であり、聖霊の内住する土の器であり、神との人格的な交わりに入れられている人間なのです。

 要するに、クリスチャンは主イエスの肉と血を受けることによって、自分の存在を主イエスによって養われるのです。
これは御言葉を通して主イエスと対面するとき、クリスチャンが日々体験することです。しかし、特別の場合として、聖餐式を挙げることができます。それゆえ、わたしたちは聖餐式に列して、聖霊を通して、主イエスの肉と血とを受けて、主イエスの人間性に与り、神に従順な人間として、常に新しく成長するのです。

このようにして、復活の主イエスが現代のクリスチャンの中に内住し、働いておられるので、クリスチャンは現代の様々な状況に適応しながら、主イエスの性質と思いを、自分たちの存在と行動、振る舞いの中で反映させるのです。



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