2012-02-19(Sun)

主の山に備えあり 2012年2月19日の礼拝メッセージ

主の山に備えあり
中山弘隆牧師

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。
創世記22章1~19節


 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
ヘブライ人への手紙11章17~19節



(1)信仰の父アブラハムの生涯
 今朝も信仰の父アブラハムの生涯から聖書の信仰について学びたいと思います。アブラハムの生涯は信仰から信仰への歩みであり、同時に恵みから恵みへとの歩みでありました。しかし、それは決して平坦な道を行くのではなく、幾つもの峠を越えて行かなければなりませんでした。本日の聖書の箇所は、アブラハムが越えていった幾つかの峠の中で、一番高い所を通るそしてもっとも険しい峠でありました。
このことを思いますと、恵みと試練とは決して矛盾するものでないことが分かります。試練もまた信仰が純粋になるための恵みなのです。
 「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が『はい』と答えると、神は命じられた。」(22:1)
 このように、神はアブラハムを呼ばれました。神の呼ぶ声に、アブラハムは「はい」と応答しています。これは何を表しているのでしょうか。
信仰者はだれでも普段神を忘れて過ごしているわけではありませんが、仕事やこの世のことで忙しくしている間は、自分が神の前にあることを意識していません。仕事を終え、しばらくの間、一人で祈るならば、隠れたところにおられる神が自分と出会っておられると思うのです。そして、心のすべての思いを神に集中するならば、それが正に神の呼びかけに応じて、人が「はい」と答えることです。

(2)信仰と従順
 このとき、神はアブラハムに仰せになりました。
 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに上り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(22:2)
 神はここでアブラハムの信仰が本物であるか、どうかを試そうとされたのです。焼き尽くす献げ物とは、当時行われていた礼拝の仕方であり、犠牲の動物を殺して、その肉を完全に焼き尽くすのです。
なぜ焼き尽くすかと申しますと、そうすることによって肉は煙となって天に上りますので、神の御前に届くと考えられていました。その際、焼き尽くす動物を神に献げる前に、礼拝者は動物の頭に自分の手を置くのです。そうすることによって、動物と礼拝者は一体となります。礼拝者は自分と一体となった動物の肉を焼き尽くし、煙を天に届かせるのです。このような仕方で礼拝をするとき、礼拝者にとって、自分の体を神に献げるという意味が込められていました。
 しかし、アブラハムの場合に、神は犠牲の動物ではなく、アブラハムの独り子であるイサクを焼き尽くす献げ物として、献げよと仰せになったのです。
このとき、アブラハムはどれほど驚いたことでしょうか。最初は自分の耳を疑いました。これは聞き間違いではないだろうかと思ったのです。しかし、時間が経つにつれて、神はそれを要求しておられるということが益々はっきりしてきたのです。正にこれはアブラハムの最大の危機でした。彼の信仰と人生が根本から揺り動かされたのです。
 アブラハムにとりまして、人生のすべては神の祝福から始まっており、それ以後は恵み深い神にどこまでも聴き従ったのです。その結果、多くの困難を乗り越えることができ、今やアブラハムの地位は揺るぎないものとなっていました。
しかしながら、アブラハムに与えられている神の約束と祝福を相続することになっている一人息子のイサクが、この時期になって、もしも死ななければならないとすれば、神の目的と矛盾することになるのではないか、という大きな疑問が湧いてきたのです。
 また一人息子に先立たれる親の悲しみは到底言葉では表すことはでません。できることなら自分が息子の代わりに死んで、息子を助けたいというのが親の気持ちです。
彼の心は悲しみと苦悶に苛まれて、その晩は一睡もできませんでした。それにも拘らず次の日には、朝早くから神のみ声に従って、出かけて行ったのです。
3節にはこのように記されています。
  「次の朝早く、アブラハムはロバに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」(22:3)
これは彼が最初に神の召しを受けたとき、行く先を知らずに出て行ったのとまったく同じ態度です。
彼は確かに神の言葉を聞いたと確信すると、直ちに実行しました。これが聖書の信仰です。
主イエスも、弟子たちを連れて、神の国の福音を宣教しながら、町や村を巡回されました。ある所で、「主よ、あなたに従います。」という人がいました。しかし、彼は「まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。そのとき、主イエスは「鋤に手を掛けてから、後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(ルカによる福音書9:62)と仰せになりました。

わたしたちは聖書を読むとき、神がアブラハムにこの試練を与えられた目的が、何であったか分かります。自分の子供に対する愛が、自己主義から清められ、神に対する愛へと変えられるためでした。
信仰者にとって常に問題なのは、自分の信仰が自己中心的な信仰から解放されているかどうかです。
ここでアブラハムが直面していることは、イサクを自分の所有物として愛するのではなく、イサクが神から預かっているものであり、神のものとして愛することを学ぶためでした。
しかし、それだけではなく、神の命令には人間の考えを遥かに越えた深い愛があることを学ぶためです。その神の愛に自分のすべてを委ねるという心を持つためです。
アブラハムは神への信頼を徹底させ、神の愛に絶対的な信頼を置くとき、神がイサクを死人の中から復活させられることができると思ったのです。このことについて、ヘブライ人の手紙は、11:17~19で、次のように説明しています。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったのも同然です。」

(3)信仰と愛
三日目に神が示される場所が遙かに見えるところに来ましたので、アブラハムは連れだった若者たちに言いました。
「お前たちは、ロバと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って礼拝をし、また戻ってくる。」(22:5)
いよいよ、神の命令に従うために、アブラハムはイサクと二人きりで、進んで行きました。ここで、二人一緒に行ったとだけ極めて簡潔に記されていますが、この試練の中で二人が共に黙って行くということが、どれほど重い意味を持っていることでありましょうか。
二人が互いに信頼しきっているからこそ共に行くことが出来るのです。そして、二人が同じ思いを持っているからこそ、共に進んで行けるのです。遂にイサクがその思いを口に出しました。
イサクは父アブラハムに向かって、「わたしのお父さん」と呼びかけました。アブラハムは「はい」と答える変わりに、「ここにいる。わたしの子よ」と答えました。この呼びかけは二人が互いに人格をもった「存在」であることを表しています。
目に見える姿ではなく、人間として生きている「存在」を互いに確かめ合っているように思える意味深い言葉です。
そのとき、イサクは「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」(22:7後半)と尋ねました。
これは自分のたちの心を捕らえて放さない重大問題、どうすればよいのかと言う問いです。それに対して、アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くす献げものの小羊はきっと神が備えて下さる。」と答えました。
これがアブラハムの信仰でした。……焼き尽くす献げ物として、愛する子イサクを神に献げることは、不可能なことでありますが、実に断腸の思いを乗り越える力を神が与えてくださるという信頼の表明です。……イサクもまたこの事態を信仰的に考えており、父アブラハムを愛していましたので、父の気持ちが手に取るようによく分かったのです。
ここで、聖書は「二人は一緒に歩いて行った」と説明しています。しかし、この非常に短い説明は、神に対する信仰を二人が、今や口に出して言うことにより、一層明確に共有するようになったことを示しています。
このことにより、心と心の繋がりが一層強められて、二人は共に進んで行くことが出来たのです。ここに二人の間に、人格的な深い結びつきがあるのです。連帯があるのです。
遂に、彼らが神の示された場所に到着しました。
「アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」(22:9)
この場面に関する聖書の描写を読んで、わたしたちはイサクの信仰に胸を打たれます。イサクは神と父への絶対的な信頼ゆえに、何ら抵抗することなく、黙って自分を縛らせ、自分が殺されるに任せたのです。本当に息が詰まるような緊張の瞬間です。そのとき、神は仰せになりました。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに献げることを惜しまなかった。」(22:12)
アブラハムは神の御声を聞いて振り返ると、藪に角を引っかけた一頭の雄羊を見つけました。それを捕らえて、焼き尽くす献げものとしたのです。
神はアブラハムが神を畏れる者として、今知ったと仰せになりました。そのときアブラハムの信仰の生涯が越えるべき大きな峠を越えたのです。
キャアサリン・マーシャル女史が「自己放棄の祈り」の中に潜む霊的な法則について語っています。
それは神と神の力が人間を取り巻く最高の現実であることを確信しつつ、自分が最も恐れている事態に向かって歩み出すと、その恐れが蒸発するように取り除かれる、と言うのです。

(4)神の愛と自己犠牲
この体験を通して、アブラハムは「主は備えてくださる」、「ヤーゥエ・イルエ」と告白しました。その場所を人々は今日に至るまで「主の山に、備えあり」と呼んでいると聖書は言っています。
最後に、アブラハムは最愛の独り息子を、断腸の思いをしながら、なお神の愛を信じて、神に献げようと致しました。
それに比べて、神は独り子である御子イエスを、人類の罪の贖いのために、実際に犠牲として献げて下さったのです。
ここに神がそれほどまで深く人類を愛して下さったことが示されているのです。アブラハムの体験は、神が御子・主イエスを犠牲として献げられた神の愛が、いかに深くて大きいかを証しています。
さらにイサクはアブラハムの気持ちをよく理解し、それを受け入れ、自分をアブラハムの手に委ねました。
本当の犠牲とは命を献げる本人の人格的な自発性が必要なのです。正にこれこそ神の御子イエスの犠牲によって、実現した自発性のです。
実に、アブラハムとその息子イサクに関する物語は、わたしたちに主イエスを通して与えられている神の愛が無限に大きいことを、証していると言えます。 
それは一言で表せば、神が人間を救い、人間が神の御前で生きるために、神は御子において、ご自身を人間に与えられたのです。
わたしたちが神の御前で生き、神に従い、隣人に対して、また教会において、互いに愛し、仕え合うためには、神の御子・主イエスの命がわたしたちの中に働くことが必要であったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
神の御前に人間が生きるということは、人間が神の御心を実行することに他なりません。しかし、罪ある人間はだれ一人として神の命令に従い、それを実行することは不可能なのです。このことは神が一番よくご存じであります。
従いまして、人間が神の命令を実行するためには、主イエスの命が人間の中に働くことが不可欠なのです。それゆえ、神は主イエスの命を人間にお与えになりました。
「主の山に備えあり」という本当の意味は、エルサレムのゴルゴダの丘の上で、神の御子イエスの命が人類に既に与えられているという神の恵みです。
この神の愛を信じる者に、主イエスの命が与えられ、信じる者の中に主イエスの命が働くのです。



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