2010-07-04(Sun)

恵みに応答する 2010年7月4日の礼拝メッセージ

恵みに応答する
中山弘隆牧師

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
申命記6章4~15節

 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙2章1~10節

(1)申命記の性格
 本日の聖書の箇所であります申命記とは、「再び教える」という意味です。「申」とは「再び」とか「繰り返す」という意味で、「命」とは「命じる」とか「教える」という意味です。それでは、何を再び教えるのかと言いますと、神がイスラエルの歴史を通して為し遂げて下さった恵み深い行為と、そしてそこに現された神の愛に応答して、イスラエルが守るべき神の命令とを教えているのです。
 申命記では、出エジプトの指導者でありましたモーセが、ヨルダン川の東側にあるモアブの地方で、イスラエルの民にこれまでの教えをまとめて再び語ったと言う形式を取っています。しかし実際にはそれ以後の時代に、神殿において礼拝のとき祭司たちにより、繰り返して教えられ、世代から世代へと受け継がれてきた教えである、と今日では見られています。

(2)聞け、イスラエル
 申命記6章4節は、「聞け、イスラエル」、ヘブル語では「シェマ イスラエル」という言葉で始まる有名な聖句です。
 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
 これは聖書において非常に重要な神の戒めであります。旧約聖書の古い契約のもとで生きた神の民、イスラエルにとっても、そして新約聖書の新しい契約のもとで生きている神の民、キリスト教会にとっても、最も中心的な神の戒めであります。主イエス・キリストは次にように教えられました。
 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分自身のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:36) 
心とは、ヘブル的な考え方によれば、感情も含めて、考えと意志との座であります。また魂とは生命力の源であります。従って、心と魂とを尽くしてとは、全存在をもってと言う意味です。さらに力を尽くしてとは全精力を上げてと言うことであり、この第一の掟はわたしたち人間が、全存在と全精力を上げて、わたしたちの主である神を愛しなさい、という命令であります。真に、これが神の最も重要な御心です。
 わたしたちは主イエス・キリストの贖いという神の決定的な救いの行為を思いますときに、そこに無限に尊い神の愛が現されていることを知ります。そうするならば、わたしたちは神の愛に対して、応答し、わたしたちも自分の全存在を挙げて、神を愛します。なぜならそれ以外には有り得ないからです。
 一方、旧約聖書の時代においては、神がアブラハム、ヤコブの子孫をエジプトの奴隷の状態から救い出し、神の民とされたこと、そして約束の土地であるカナンに住むようにして下さったという、神の行為を信仰的に受け取り、理解して、旧約の民はそこに現されている神の愛を知ったのです。
 彼らはカナンの土地に住むようになったとき、主を礼拝する場所に集まり、主に感謝の供え物を献げ、次にように信仰を告白しました。申命記26:5~10に次にように記されています。
 「わたしたちの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた労苦と虐げをご覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、このところに導き入れて、乳と密の流れるこの土地を与えられました。わたしたちは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」
 従いまして、「主、われらの神は唯一の主である」といことは、このようにイスラエルを滅びから救い、エジプトの圧政から解放し、約束の土地を与え、神の民としてくださった主がわたしたちの神である、という信仰告白です。主とは、救いを通して、イスラエルの民を形成された恵み深い主権者という意味です。このような唯一の主権者が、イスラエルの神である、という信仰と認識です。

 聖書的な意味において、神を知るということは、哲学的な思弁により神概念を持つことではありません。そうではなく歴史の中で実現した神の行為を、これは神の主権による恵みの業であると信仰をもって受け取ることです。
 預言者エレミヤは神を知ることについて次にように語っています。
 「主はこういわれる。知恵ある者はその知恵を誇るな。力ある者はその力を誇るな。富める者はその富を誇るな。むしろ誇る者は、このことを誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行うことをわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ9:22~23)
 これは、主が慈しみと正義と恵みの業を行っている神であることを知る者が、主を知る者である、と言う意味です。
 この主を知る民は、神の愛と恵みに応答し、神に対する信頼と従順を表明し、神に自らを献げ、神に従うのです。言い換えれば、神を愛することです。神を愛することが神を知ることに他なりません。神を知る者は、当然神を愛するのであり、それゆえ神を愛すべきである。これが申命記の命令です。すなわち、単なる命令ではなく、神の愛に基づいた命令なのです。

 さらにイエスラエルは、その神の目的によって、選ばれ、神の民とされ、神との契約に入れられたことを知りました。
 「契約」とは恵み深い主権者である神に、イスラエルが感謝と信頼をもって、神に従うことを自らの意志で表明するときに成立する「神と民と人格関係」です。その人格関係を表す聖書の専門用語です。そこで神は民の守るべき律法を示されました。

(3)神への従順
 それでは神を愛するとは、一体どういうことなのでしょうか。
 一つは民として、個人として、一切の事柄において、神を信頼し、神に全く依存することです。
 イスラエルの民はエジプトから救出されて、その後四十年間荒れ野で放浪の旅を余儀なくされましたが、食糧が乏しく、彼らは憔悴し、その上飲み水が一滴も無くなり、死に直面しました。そのとき民は神を信ぜず、指導者モーセに反抗しました。
 「なぜ、われわれをエジプトから導き上ったのか、わたしたちも子供たちも、家畜まで殺すためなのか。」(出エジプト17:1~7)
 このとき、神はモーセに命じて、ホレブの岩を杖で打つように命じられ、その岩から水を湧き出されました。このことは16節で、言及されています。「あなたがたはマサにいたときのように、あなたたちの神、主を試してはならない。」と、あります。実にこのような信仰の試練の時期を通して、イスラエルはいかなる時にも神を信頼し、依存するならば、神は必ず困難を乗り越える力と方法を与えて下さることを学んだのです。
 また、約束の土地でイスラエルが出会った誘惑とは、自己充足のために、神への信頼と依存とを忘却することでした。
 11節では、「自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満腹するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないように注意しなさい。」と警告しています。これは豊かさの中でも、万事を神に依存していることを感謝し、謙遜な思いをもって神を信頼し続けるようにとの勧めです。
もう一つ、全身全霊を挙げて神を愛するということは、神の命令に、自ら進んで、喜んで、従い、それを実行することです。本当の愛は、神の戒めを実行するものなのです。神を愛していると口で告白しても、神の戒めを喜んで実行する者でなければ、神を愛しているとは決して言ません。それは偽りなのです。偽りの愛には神の厳しい裁きが下されます。

 このように神への心からの愛をもって実践すべき様々な戒めが、申命記では12章から26章で、教えられています。そこには様々な命令が記されていますが、歴史の中で、神の愛に応答する信仰共同体を形成するために必要な具体的な生き方が記されている、と言えます。
 大別しますと、一つは古代の中近東の世界で用いられていた一般的な法律を、イエスラエル社会でもそれを修正した形で採用しています。その理由は、イスラエルの神は創造者であり、万民の支配者でありますから、世界において公平と正義として認められている法律は、イエスラエルにとりましてもそれを神の意志として受け取る必要があったからです。
 もう一つは、非常に人間性の豊かでヒューマニズムの精神に基づいたイスラエル特有の律法です。それはイスラエル社会のすべての構成員が、神の愛に応えて、互いに兄弟として愛し合い、尊重し、助けるという精神に基づいた様々な律法です。また、イスラエルに寄留する外国人を隣人として愛する具体的な行為を定めた律法があります。これらはイスラエルの律法の特色です。実にそれらの律法は、「隣人を自分のように愛しなさい」と言う第二の掟を実行するための具体的な指示です。
以上が申命記の内容です。それを守りながら、古代世界の歴史の中で、信仰共同体を形成し、万国の民のために光を輝かすようにと、申命記は熱心に勧めています。

(4)新しい契約
 しかしながら、最も注目すべき点は、それでは信仰共同体形成の推進力である「心から神を愛する」ということは、どのようにして可能となるか、ということであります。
 この神への愛は、律法によっては引き起こすことはできません。むしろ神への愛は律法に先行する性質のものであり、神への愛が律法の実践を可能とするのです。
 申命記の考えでは、神が民を選び、契約を与え、住むべき土地を与えて下さったことを通して、神はイスラエルの神となり、イスラエルの民を愛してくださっている、という神の恵み深い事実が、イスラエルの民に心からの神への愛を喚起する、というのです。
 そのために、申命記は契約を想起し、改めて契約を確認するために行われた契約更新の儀式を定めています。26:16~19はその儀式で使用された用語を保存しています。また、31:9~13によれば契約更新の儀式は多分7年ごとに行われたと思われます。
 このような機会を通して、神の恵みを信仰的に受け取り、このことを心に留めて、熟慮するならば、当然、民は神の愛に全存在を挙げて応答すると、申命記は考えています。さらに申命記は日頃の正しい礼拝によって神への愛が喚起されると言っています。
 しかし、申命記に定められた方法に限界があります。預言者たちの時代になりますと、エルサレム神殿における礼拝は、真の礼拝とは言えませんでした。神への愛と従順は口実だけであり、その礼拝は形骸化していたのです。預言者エレミヤはエレミヤ書17章1節でイスラエルの罪を厳しく告発しています。
 「ユダの罪は心の板に、祭壇の角に、鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、子孫に銘記させるものとなる。」
 実に心の中心に、そして礼拝の中心的な位置を占めている祭壇の角に、イスラエルの罪が刻み込まれている、と言うのです。彼らは形式的に礼拝を守っていても、自らの罪のために神の愛へ応答しなかったのです。
 そのため神は、このような罪を御子イエス・キリストにより贖って下さり、新しい契約を与えられました。この新しい契約こそ、古い契約の成就であります。
 正に、イエス・キリストにおいて神が成し遂げてくださった救いこそ、人間を束縛している罪からの解放です。罪の贖いこそ神の究極的な恵みであります。それゆえ、わたしたちの心を刷新して、全存在をもって神を愛する愛を心の中に喚起するのです。 
 それから旧約聖書の限界は外にもあります。申命記が定めている預言者、祭司、王の務めは神の民を形成するために神が用いられる神の手段でありました。しかし、彼らは神にしばしば背きました。そのため彼らを通しては神の主権的な恵みは機能しませんでした。遂に神は御子イエス・キリストをこの地上に遣わされ、御子が完全な預言者、祭司、王の務めを全うされたことにより、御子において申命記の目的は成就しているのです。
 従いまして、わたしたちは救い主、主イエスを信じて新しい契約に入れられるときに、聖霊がわたしたちに与えられ、聖霊を通して神の愛がわたしたちの心に注がれるのです。真に、新しい契約によって神がわたしたちに与えて下さったものは、実に神ご自身なのです。ご自身を与えて下さる神の愛に応答し、主イエスの命に生かされる信仰共同体をこの歴史の中に形成することにより、申命記の教えが達成されるのです。
 申命記の目標は、主イエス・キリストの贖いによって実現したのです。そう言う意味で、聖書の中ではキリスト教会こそ「霊的なイスラエル」であります。




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