2012-01-22(Sun)

神に求める 2012年1月22日の礼拝メッセージ

神に求める
中山弘隆牧師

 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
創世記18章22~33節


 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
ルカによる福音書11章5~13節



(1)神の子イエスの祈り
 旧約聖書のコヘレトの言葉に、有名な聖句があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレト3:11)
 このように神に造られた人間は誰であっても、永遠なる者を思い、永遠なる者に対して祈ることが、人間として最もふさわしいことです。しかし、人類の歴史の中で、過去においても、現在においても、将来においても、本当の祈りをされた方はただ一人、神の御子・主イエス・キリストだけであります。

 主イエスは毎日朝早く起きて祈っておられました。マルコによる福音書1:35では次にように書いてあります。
 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)
 この箇所では、イエスはガリラヤ地方を巡回して神の国の福音を宣教するため、その日に行く予定にしておられた村のために祈られたものと推測できます。しかし、朝早く起きて祈ることはこの日だけでなく、イエスの生活の原則であったと思われます。イエスは一日の行動を起こす前に、必ず祈りによって始められたのではないでしょうか。
但し、必要な時には、朝だけでなく、昼も夜も祈られたことが分かります。弟子たちの中から十二人を使徒として選ばれたときには、ルカによる福音書によりますと、次にように書いてあります。
「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名づけられた。」(ルカ6:12、13)

特に、ルカによる福音書はイエスの生涯で神の啓示が起こった特別の場面では、必ずイエスが祈っておられたと記しています。例えば、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、祈っておられた時、天からの声が聞こえてきたのです。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(ルカ3:21~22)
洗礼者ヨハネは預言者であり、救い主の到来の道備えをするために、悔い改めの洗礼を施しました。イスラエルの民衆は次々と洗礼者ヨハネのもとに来て、洗礼を受けました。
このときマタイによる福音書3:13~15では、ヨハネとイエスとの会話が伝えられています。ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言って、イエスの受洗を止めさせようとしました。
しかし、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことはすべて行うのは、我々に相応しいことです。」と言って洗礼を受けられました。

「罪のない」神の子である主イエスが、「罪の悔い改め」である洗礼を受けられたということは、主イエスが人類の罪をご自身の上に担い、人類のために、人類に代わって神の前で「真実の悔い改め」をすることが、救い主の使命であると認識しておられたことを表しています。
従いまして、これらのことを考慮しますと、祈っておられるイエスの上に、聖霊が降り、父なる神が天から御声をかけられたことは、救い主の活動に対する父なる神の開始命令であったことが分かります。
このように、主イエスは祈りによって、父なる神と交わり、父なる神の意志を知り、命令を受け、同時にそれを果たす霊的な力を受けられたのです。
さらに、ペテロが主イエスに対する信仰を言い表したときも、ルカによる福音書は、イエスが弟子たちのために祈っておられたと記しています。従いまして、マタイによる福音書では、ペトロの告白は神の啓示によるのだと仰せられました。
「すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」(マタイ16:17)

(2)クリスチャンの祈り
次に、本日の聖書の箇所でありますルカによる福音書11章で、弟子たちは祈ることを主イエスから教えられたと書いてあります。
この時も、「イエスはあるところで祈っておられた。祈りが終わると、弟子たちの一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい』」(11:1~2)
以前から、弟子たちは祈っておられるイエスの姿を見て、非常に強い感銘を受けていました。このときも、祈り終えられたイエスの顔は輝き、父なる神との交わりの中で与えられた霊的力と平安が心の中に充満し、喜びがあふれ出ていたからでありましょう。

そこで教えられた祈りが、教会では「主の祈り」と呼ばれている祈りです。これは主イエスから伝授されたもので、特に重要な祈りです。しかし教会で唱えている主の祈りは、マタイ福音書によるものです。マタイの記事と比べますとルカの記事は簡単ですが、主イエスが弟子たちに教えられた祈りは、むしろルカの記事に近かったのではないかと思われます。

祈りの開始の部分では、神に関する事柄を祈っています。
「父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。」
何よりも先ず、祈りは神の御名を呼ぶことです。神様と呼ぶことです。しかし、神の「御名」とは単なる名称ではなく、生ける神の存在そのものを表しています。そのような神の御名が、「父」なのです。
勿論、父とは主イエスにとって、「本来的な父」であります。主イエスの「固有の父」です。しかしわたしたち人間にとって、神は本来的な父ではありません。主イエスを通して、聖なる神がわたしたち人間の「父」となってくださったのです。
この神に向かって「父よ」と呼びかけるのは、「神と出会う」ことを求めることです。神ご自身を発見することを求めるのです。言い換えれば、「神ご自身」を求めることなのです。

自分の罪のために、神から離れ去った人間が、心の不安と暗闇と無力さのなかに閉じ込められ、そこにもはや何の光も射さない、絶望のどん底で、神への帰還を求めて、神の御名を呼ぶのです。
果たして神はそのような人間の祈りに応えてくださるでありましょうか。しかし、神は主イエスを通して、答えてくださるのです。そのために主イエスは「見失われた羊」の譬をされました。
一匹の羊が羊飼いのもとから迷い出た結果、ついに遠くの場所で命の危険にさらされているとき、そのことに気付いた羊飼いは九十九匹の羊を野原に残して置いて、遠くまで探しに行きます。見つけたら、喜んで羊を担いで、家に連れ帰ります。そのとき家には大いなる喜びがあると仰せられました。この譬話は罪人を探し求めておられる神様の思いと行動について語られたものです。

 さらにルカによる福音書15:11以下の「放蕩息子」の譬では、放蕩息子が自分の罪と邪悪さのために、人生の破綻に遭遇したとき、本心に立ち帰り、父の家への帰還を願い、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:18~19)と言おうと決心しました。落ちぶれてみすぼらしい姿で、父の家に帰ってきたのですが、父親は自分の息子が死んでいたのに、生き返ったと言って大いに喜び、改めて本当の息子として取扱いました。
この父親は放蕩息子が家に帰る前から、息子の帰還を待ち望んでいたのです。この譬のように、人間が神への帰還を願って、祈るときに、神はその祈りを聞きあげられるのです。
悲惨の最中で、放蕩息子は「わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子の資格はありません。雇人の一人にしてください。」と本心の願いを持ちました。これは祈りを意味しており、彼の帰還はこの祈りの中で始まっているのです。 
それに対して、その前から父親が放蕩息子の帰るのを待っていて、帰還した息子を直ちに迎え入れたように、父の名を呼ぶ祈りを神は聞きあげて、祈る者に出会ってくださるのです。そして自分が父なる神と出会ったとき、実は神は既にその前から自分を探し求めていてくださったことを発見するのです。

 この神の側の事実は、主イエスにおける神の人間に対する思いと行動によって既に実現しているのです。今やこの事実は、主イエスの十字架と復活の視点から見て言える神的現実です。
それは神が主イエスによって、すべての罪人の罪を贖われた結果、すべての人間は主イエスを通して、すでに悔い改め、神のもとに帰還しているという主イエスの中における事実なのです。
それゆえ、神は主イエスにおいて、新しい人間を創造され、しかも「新しい人間」をわたしたちの固有のもの、言い換えれば「わたしたち自分自身」としてくださっているのです。これこそ神が罪人に与えられた神の恵みの内容です。
この神的現実は今やわたしたちを取り囲み、わたしたちがどこに行き、どのような状態にあろうとも、わたしたちを包み込んでいます。言い換えれば、主イエスにおいて啓示された神の愛がわたしたちを取り囲み、包み込んでいるのです。
それゆえ、神を父よと呼び求める祈りに神は答えて、ご自身を現わしてくださり、わたしたちの父となってくださいます。

この事態は罪人である人間が、主イエスを信じることによって、人間のものとで生起し、人間はそれを体験します。なぜならば、祈りが答えられるところに、主イエスに対する信仰が聖霊を通して与えられるからです。

しかしこれは初めて神を知るようになる人の体験だけではありません。既に主イエスを信じ、神を知っているクリスチャンでも、日常生活の中で多忙な業務のために、神を忘れているならば、自分の信仰が不明になります。自分が立っている所の確信が揺らぎ、力が枯渇し、思い煩い、心が飢え渇く状態にしばしば陥ります。
このような状況における祈りこそ、神を求める祈りであり、神と再び出会うことを求める祈りです。
そのようなクリスチャンに対して、主イエスが「隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)と仰せになるのです。隠れた所におられる神は、主イエスにおいて既にわたしたちを包み込んでいてくださいます。
それゆえ、わたしたちが祈るならば、必ず出会ってくださいます。人格的にわたしたちと直面されるのです。すなわち、神は主イエスを通して、ご自身の性格を現し、主イエスを通してわたしたちに直接、御言葉を語られるのです。
しかし、このように神がわたしたちに直面されるとき、同時にわたしたちの心の中に、わたしたちの人間存在の中に父なる神ご自身が臨在されるのです。
本日の聖書の箇所で、最後の言葉は祈りに関するイエスの教えの中心であります。----「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)
この「聖霊を与えてくださる」という御言葉こそ、神の御名を呼ぶ者に神が出会ってくださることを説明しています。
なぜならば、神は祈り求める者の心と存在の中に、聖霊によりご自身が臨在されることは、同時に祈る者と一対一で神ご自身が直面されることなのです。逆に言えば、祈る者が神と対面することは、神が聖霊により、祈る者の中に臨在されることの形態なのです。さらに、それこそ神ご自身との交わりへ招き入れられることに他なりません。
そこは既にわたしたちを取り囲み、包み込んでいる復活の主イエスがおられる場所、神子たちの自由のある場所、生命と自由の充満している場所です。
そこに入り、霊的空気を胸いっぱいに吸い込み、わたしたちは神の子としての新しい人間の生活、行動に目覚めるのです。そこで愛の業を実行し、神の子として生きるのです。


従いまして、主の祈りは、主イエスを信じることによって、神の子とされた者たちの祈りです。
祈りの第一は「御名が崇められますように」とう心からの願いです。これが神の御子である主イエスの最大の願いなのです。それゆえ、わたしたちクリスチャンの最大の願いであります。
 このように神と交わることの中で、神の御心を実行し、神に仕えること、これが新しい人間の生き方です。



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