2012-01-15(Sun)

信仰の戦い 2012年1月15日の礼拝メッセージ

信仰の戦い
中山弘隆牧師

 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」
ヨシュア記1章1~9節


 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
エフェソの信徒への手紙6章10~20節



(1)戦いの必要
 信仰の戦いと言いますと、それがどうして平和の福音と両立するのかと疑問を持つ人々がいるかもしれません。キリスト教は互いに争っている人類に和解をもたらす宗教ではないか、それなのにどうして信仰の戦いが必要なのかと思う人々がいます。それはイスラム教が片手にコーランを持ち、片手に剣を持って布教したように、キリスト教も布教のために戦うのかと疑う人もいるかもしれません。しかし、キリスト教は布教するために武器や国家の力が必要なのでは決してありません。あくまでも、福音を語ることと、福音による愛と正義を実行する生活によって、キリスト教の信仰を広めているのです。
 それでは、わたしたちはどうして信仰の戦いをする必要があるのでしょうか。それはキリストを通して働く神の愛に生かされる人間として、神様の求められる聖なる生活をするためです。それは罪の誘惑と罪から出る諸々の悪に打ち勝って、神の御心に従う生活をするため、キリストの思いと霊的生命によって努力することです。
 使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙で、あなたがた一同のために、神に感謝していると言っていますが、それは彼らが信仰の戦いをなしているからです。そして信仰の戦いとは何であるかを示しています。
 「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、またわたしたちの主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で感謝しています。」
(テサロニケ一、1:3)
 信仰による働き、愛の労苦、希望の忍耐が聖書の言う信仰の戦いなのです。信仰は不信仰との戦いを必要とし、愛は怠惰との戦いを必要とし、希望は諦めや絶望との戦いを必要とするからです。
これと同じことをパウロはローマの信徒への手紙で次のように言っています。
 「そればかりではなく、苦難をも誇りとしています。わたしたちは知っています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3~5)
 苦難、忍耐、練達、希望は聖霊によって神の愛がクリスチャンの中に注がれているからなのです。言い換えれば、クリスチャンが神の愛によって、良い業を実践するために努力している姿が、苦難、忍耐、練達、希望なのです。

(2)クリスチャンの武具
 聖書は11節で、「悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい。」と命じています。このことは13節でも繰り返しています。「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい。」といっています。
 14節から18節までで、神の武具を身に着けることと、それによってどのように戦うかを説明しています。
 ここでは武具を身に着ける場合の兵士を描いています。ひと揃いの武具が地面におかれている場所に、クリスチャンの戦士は立ちます。それから、地面におかれている武具を一つ一つ取り上げて身に着けるのです。
14節では、「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着ける」と言っています。
真理の帯と正義の胸当てを身に着けると言っています。真理と正義とは神の真理と正義です。人間は神に造られた被造物でありますから、人間を真に人間らしく生かすものは、神から出る真理と正義なのです。しかも、それは抽象的な律法ではなく、神の御子である主イエス・キリストが実行された真理であり、正義なのです。さらに神が現在も主イエスを通してわたしたちに実行させられる真理と正義なのです。
従いまして、ヨハネ福音書は「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理とはイエス・キリストを通して現れたからである。」
(ヨハネ1:17)と言っています。

次の武具は、平和の福音です。15節はこのように言っています
「平和の福音を告げる準備を履き物としなさい。」
戦うクリスチャンが「平和の福音」を告げるということは非常に逆説的でありますが、神がキリストによって、人間と神との関係において、ご自身の正しさを究極的に貫徹されたことにおいて、世界をご自身と和解されられたのです。この和解の福音を世界の人々が、そして身近な隣人や友人が受け入れるように、クリスチャンは日頃から福音を自分で語る用意をしておくことです。それが戦いの武器なのです。

 次の武具は、16節で説明されています。
 「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者が放つ火の矢をことごとく消すことが出来るのです。」
 信仰の盾は、戦うクリスチャンに必要不可欠な武器です。ここで、悪魔の最も激しい誘惑から、信仰がクリスチャンを守るのです。
なぜならば、信仰は神が主イエスにおいて、人間のために実現してくださり、既に主イエスにおいて与えて下さっている神の救いを信じ、受け入れ、認識するからです。それが信仰の働きなのです。人は誰でも、信仰によって、神の恵みを与えられ、恵みによって生かされ、救われるのです。
信仰によって、罪を赦され、神との人格的な交わりに入れられるのです。信仰による神との関係を「信仰義認」と言いますが、信仰義認によって、人は常に神の御心を知り、それを実行する霊的な力を受けるのです。

 最後の武器として17、18節に次にように書いてあります。
 「また、救いを兜として被り、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」
 ここで「取る」というように訳されているギリシャ語は、「受け取る」という意味です。これまで、兵士は自分で地面から武具を取り上げて自分の体に装着しました。それらの用意がすべてできると、最後に傍に仕えている従者から、最も大切な武器が手渡されるのです。それが兜と剣です。ここでクリスチャンの兜とは、救いの兜です。剣とは聖霊の剣であり、つまりそれは神の御言葉です。

 「救いの兜」とは、神が主イエス・キリストを通して与えられる救いです。救いとは神が主イエスの十字架の犠牲の死と復活によって、既に「すべての者」の救いが主イエスの中で実現しているのです。この主イエスによる神の無償の救いの中にあってこそ、信仰の戦いが可能となり、勝利が約束されているのです。
従いまして、クリスチャンが救いの兜をかぶって、信仰の戦いに出陣することは、自分の人生の全コースを包み、支えている神の恵みの中で、自分に与えられた任務を果たすことなのです。
それゆえ、信仰の戦いの中で、神に感謝し、神に信頼し、神に求め、神に従うことによって、神を賛美するのです。
 さらに、聖化の戦いにおける本来の意味での武具は、神の御言葉です。言い換えれば主イエスの命令です。御言葉こそ信仰の戦いの剣です。ここでは、御言葉を「霊の剣」と言っています。
 「聖霊の剣」とは、聖霊を通して、復活の主イエスがわたしたちの中に臨在され、主イエスがわたしたちの中に働かれるからです。主イエスによって、クリスチャンが真理と正義の業を行い、神の愛を隣人に対して実行するのです。このようにしてクリスチャンは次第に聖化されていきます。
 その場合に、クリスチャンは、自分に課せられた務めとして、信仰の戦いをしなければならないのです。主イエスを信じ、主イエスに自分のすべてを委ねているというのは、一見信仰深い敬虔な態度のように見えますが、それと同時に、自分の任務を自覚しないならば、それは大いなる誤解です。
主イエスにすべてを任せて、自分は何もしないで聖なる者になっていくと言うのは、自分の務めの放棄です。
しかし、信仰の戦いは自分の力でするのではありません。主イエスの力と命によってするのです。それゆえ戦いは自分の功績ではありません。自分の功績を主張する余地を残すために、聖化は神の恵みと自分の努力との共同の業であると考える見方がありますが、これも間違いで、クリスチャンが遂行すべき善い行いは徹頭徹尾、神の恵みの業なのです。
 
 18節で、著者は祈りにおける忍耐と、聖徒たちのための執り成しの祈りをクリスチャンに強く要求しています。なぜならば、戦いは個々のクリスチャンの戦いではなく、共同の戦なのです。それゆえ戦いに参加している聖徒たちのため祈るように強く要請しています。
そして、最後に、「絶えず目を覚まして、根気よく祈り続けなさい。」と言っています。これは共に勝利するために、最も必要な点です。「根気よく続ける」というギリシャ語は、「プロスカルテレイシス」といいます。これは「堅忍不抜」という意味で、困難に動揺しないで、信仰の戦いを堅持する態度を表している重要な言葉です。 

(3)主イエスに従うクリスチャン
 最後に、主イエスは弟子たちに次のように仰せられました。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34~35)
 自分の十字架を背負うということは常に「自分自身の思いと力を否定し、それを捨て去るということです。そして自分の中から何の良いものも期待しない」ということです。
自分が神の御前に生きる義と命とは、自分の罪を贖うために十字の死を全うし、三日目に死の中から復活された主イエスの中にあると、認識することなのです。
そして自分が生きるために、「主イエスの思いと霊的生命が自分の心と行動の中に働くことを求める」のです。
これは「死すべき古い自分」の中で、「主イエスの中に存在する新しい自分」が生きることであります。このことがすなわち「聖化の過程」なのです。

それゆえ、ルターは次のように言いました。クリスチャンは「義人であると同時に罪人である」と言いました。
古い自分は最後まで罪に支配されている「生まれながらの自分」です。しかし、今や古い自分の中に新しい自分が働くようにされています。新しい自分とは、キリストの義と命によって、善き業を行う「自由なる人間」です。さらに「神の子たちの主体性」が与えられています。
主イエスは神の子とされた者たちに向かって命令を与えられました。それは主イエスがクリスチャンに与えられた二つの律法の第一の律法です。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:30)
自ら進んで、自発的に、喜んで、全存在と生活と行為をもって神を愛する「主体性」が、神の子たちの「人間としての主体」なのです。すなわち、これが「新しい自分」です。
そこで、聖化の過程にあるクリスチャンが行う善い業の動機を調査した心理学者の研究によりますと、驚くべき結果が出ました。
クリスチャンはいかに熱心で、敬虔な人でも、その動機は利己的な幾つかの動機が、純粋な愛の動機の中に混在しているというのです。従って、クリスチャンが聖化されていくのはクリスチャンの動機の中で純粋な愛の動機が多くなり、利己的な動機が次第に少なくなって行く過程であるといえます。
 それゆえ、新しい人間は古い人間の中で始まり、古い人間の中で次第に優勢になり、最後に新しい人間が完全な姿で現れるのです。そのために、クリスチャンは信仰義認、聖化、復活と完成の過程を通っていくように神は定められたのです。

 救いが完成する新しい世界では、古い自分は最早存在しません。しかし、そこで主イエスと共に永遠に生きる新しい自分は、地上では罪に支配された古い自分の中で、誕生し、成長し、結実した神の子たちとしての人間なのです。



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