2012-01-08(Sun)
死から命へ 2012年1月8日の礼拝メッセージ
死から命へ
中山弘隆牧師
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。
申命記7章6~11節
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙2章1~10節
申命記7章6~11節
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
エフェソの信徒への手紙2章1~10節
(1)クリスチャンの活力
わたしたちクリスチャンは世の光、地の塩としての使命を果たすために新しい命が与えられています。嘆きの多いこの世の中に希望と喜びと勇気をもたらすクリスチャンの特徴は何でしょう。
それは神がキリストにあって、「わたしたちの万事を益してくださる」という確信と、神様は「人間の思いをはるかに超えてご自身の意志を実現される方」であるという神へ畏敬の念と信頼と感謝ではないかと思います。
しかし、信仰生活が形式だけに捕らわれていますと、外面的には整った信仰告白と教会生活をしておりましても、どことなく自分には霊的活力や心に湧き出る喜びに不足していると感じます。
その根本的原因はキリストの福音をまだ十分に理解していないところにあります。それでは福音を理解するということはどういうことでしょうか。
第一に、神ご自身がキリストにおいて人間の問題を担い、神と人間との間の正しい関係を樹立してくださったという恵みの豊かさを知ることです。
キリストこそ、人間が神の御前で生きるための与えてくださった「無尽蔵の宝」であることを知ることです。
第二に神の本質は愛でありますので、神は人間と人格的な関係を結ぶことを欲し、人間を交わりの相手として選んでくださいました。この選びはあくまで、神の自由によって与えられたのです。
わたしたちは聖書を通して、「神の選びの歴史」を知ることによって、選びの豊かさを知ることができます。
第三に、神は先ず、アブラハムを選ばれました。神は御言葉を通して、ご自身をアブラハムに啓示し、神がアブラハムの神となり、アブラハムが神の民となると仰せられました。同時に、神はアブラハムが神の国を受け継ぐと約束されました。そして神を信頼し、神に従うことをアブラハムに命じられました。
これが神と民との「信仰による関係」であります。
次に、神はアブラハムの子孫であるイスラエルをエジプトの奴隷の境遇から解放し、神の民とし、神の直接的な支配下に置かれました。
これがエジプトから脱出したイスラエルに対して、シナイ山において与えられた神と民との「契約の関係」です。
最後に、イスラエルの民が自ら契約を破棄しましたので、その関係は失われていましたが、神は御自身の真実を貫き、御子イエスにおいて、人間を罪から贖い、御子イエスにおいて、人間を新しい存在とすることによって、新しい契約を樹立されたのです。
それは破られた契約の回復ではなく、それ以上であり、契約の中で神が意図された目的の実現であり、またアブラハムとの「信仰の関係」の成就なのです。
さらに、新しい契約は「全人類」を対象としています。
このように人類の「歴史を貫いて」働いている神の選びの大きな恵みを知ることが、わたしたちの信仰を強め、生活に活力を与える秘訣です。
それは神がキリストにあって、「わたしたちの万事を益してくださる」という確信と、神様は「人間の思いをはるかに超えてご自身の意志を実現される方」であるという神へ畏敬の念と信頼と感謝ではないかと思います。
しかし、信仰生活が形式だけに捕らわれていますと、外面的には整った信仰告白と教会生活をしておりましても、どことなく自分には霊的活力や心に湧き出る喜びに不足していると感じます。
その根本的原因はキリストの福音をまだ十分に理解していないところにあります。それでは福音を理解するということはどういうことでしょうか。
第一に、神ご自身がキリストにおいて人間の問題を担い、神と人間との間の正しい関係を樹立してくださったという恵みの豊かさを知ることです。
キリストこそ、人間が神の御前で生きるための与えてくださった「無尽蔵の宝」であることを知ることです。
第二に神の本質は愛でありますので、神は人間と人格的な関係を結ぶことを欲し、人間を交わりの相手として選んでくださいました。この選びはあくまで、神の自由によって与えられたのです。
わたしたちは聖書を通して、「神の選びの歴史」を知ることによって、選びの豊かさを知ることができます。
第三に、神は先ず、アブラハムを選ばれました。神は御言葉を通して、ご自身をアブラハムに啓示し、神がアブラハムの神となり、アブラハムが神の民となると仰せられました。同時に、神はアブラハムが神の国を受け継ぐと約束されました。そして神を信頼し、神に従うことをアブラハムに命じられました。
これが神と民との「信仰による関係」であります。
次に、神はアブラハムの子孫であるイスラエルをエジプトの奴隷の境遇から解放し、神の民とし、神の直接的な支配下に置かれました。
これがエジプトから脱出したイスラエルに対して、シナイ山において与えられた神と民との「契約の関係」です。
最後に、イスラエルの民が自ら契約を破棄しましたので、その関係は失われていましたが、神は御自身の真実を貫き、御子イエスにおいて、人間を罪から贖い、御子イエスにおいて、人間を新しい存在とすることによって、新しい契約を樹立されたのです。
それは破られた契約の回復ではなく、それ以上であり、契約の中で神が意図された目的の実現であり、またアブラハムとの「信仰の関係」の成就なのです。
さらに、新しい契約は「全人類」を対象としています。
このように人類の「歴史を貫いて」働いている神の選びの大きな恵みを知ることが、わたしたちの信仰を強め、生活に活力を与える秘訣です。
(2)旧約聖書の時代の民
次に、申命記はイスラエルを選ばれた神の恵みとその意図について語っています。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、「御自分の宝」の民とされた。主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:6~7)
神がイスラエルを選ばれたのは、決してイスラエルの価値のためではなく、専ら神の自由なる恵みのためであると言っています。
さらにモーセは次のように諭しています。
「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。」
(申命記9:6)
明らかに、神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルが信仰深い民であったからではありません。正にその反対であり、神に対して心の頑なな民でありました。
それにも拘らず神は無償の愛によってイスラエルを選ばれたのです。
このように選ばれ、神様と契約を締結したとき、その後七年ごとに、契約を更新したときに、イスラエルの民は神の前で「厳かな誓約」をしました。すなわち、民は自分たちを選び、契約を与えられた神を民の側でも、「自分たちの神として選び」、神に対して「信頼と従順を果たす」ことを誓ったのです。
その契約制定の際に、神は民に対する命令として、モーセの十戒を中心とした様々な律法を与えられ、民はすべての律法を忠実に実行することを神に誓約したのです。これがイスラエルに与えられた神との契約の関係です。
しかし、ここに重大な問題が潜んでいました。神が与えられた律法は確かに神の意志を表しています。あくまでも律法は聖なる律法です。それに対して民が律法を実行する場合、民の動機と態度が問題なのです。
先ず律法を与えられた神の意図は、神の無償の愛に、全身全霊をもって応答し、神に対する感謝の念と従順の態度から律法を守るということです。
神の無償の愛に応答する神への愛と畏敬の念をもって、神に従順であり、神に祈り求め、自ら進んで、喜んで神の命令を実行することです。そうすることによって、神の愛と霊的力が民の心の中に働き、民が律法を実行することを神は欲せられました。
ところが、神の意志に反して、民は与えられた律法を自分たちが知っていることを誇り、自分の力でそれを実行しようとしました。律法の実行が自分の功績となり、自分は神の前に正しい人間となれると考えたのです。そして自分の功績に対する報酬として救いが得られると思ったのです。
これは大いなる誤解です。このことが直ちに神への反抗であり、この積み重ねとして民は後に契約を破棄するに至ったのです。
しかし、イスラエルの長い歴史を通して、律法に対する理解が次第に深まっていきました。
申命記の段階では、モーセの最後の勧告として、次にように教えています。
「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:14)
この勧告に従ったイスラエルの信仰深い人たちは、律法を日々学び、律法を暗記するほどによく知っていました。それゆえに、「自分たちは律法を実行できる」と考え、また自分たちは律法を実行していると主張しました。しかし、「律法を文字」として知っているだけでは、頭の中で分かっているつもりでも、それは律法を実行することは別問題なのです。
申命記の考えは、神の無償の愛に民が心から「応答する」ならば、そして神を正しく「礼拝する」ならば、律法を本当の意味で実行できると教えています。
従いまして、預言者エレミヤの時代に起こった申命記を基礎とする改革運動にエレミヤは一時、期待を寄せました。しかしその運動が神の意志に適う改革ではなかったことを知るに至り、エレミヤは新しい契約を預言しています。
「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ記31:33)
これは律法が文字に書かれたままでは律法を実行することができないが、「聖霊が人の心を照らす」とき、律法の意味が具体的に分かり、それを実行する霊的力が神から与えられるというのです。
そういう意味で、神が「新しい契約」を与えられるという「神の啓示」をエレミヤは受けたのです。
このような長い歴史を通して、神があるときは民を裁き、ある時は救出し、ある時は民に対して怒り、ある時は民を赦して民を導き、キリストの到来と神の救いを約束してこられました。
神の意志と行為との「客観的な現れ」である歴史を通して、神の恵みの偉大さと人間の罪深さを知るとき、主イエスを通して、主イエスにおいて、神が実現してくださった人類の罪の贖いとそれに基づく新しい契約の「無限の宝」を知ることができるのです。
そのときわたしたちは、確信と霊的力に満たされ、神を感謝し神への従順を通して、神を賛美するのです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、「御自分の宝」の民とされた。主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:6~7)
神がイスラエルを選ばれたのは、決してイスラエルの価値のためではなく、専ら神の自由なる恵みのためであると言っています。
さらにモーセは次のように諭しています。
「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。」
(申命記9:6)
明らかに、神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルが信仰深い民であったからではありません。正にその反対であり、神に対して心の頑なな民でありました。
それにも拘らず神は無償の愛によってイスラエルを選ばれたのです。
このように選ばれ、神様と契約を締結したとき、その後七年ごとに、契約を更新したときに、イスラエルの民は神の前で「厳かな誓約」をしました。すなわち、民は自分たちを選び、契約を与えられた神を民の側でも、「自分たちの神として選び」、神に対して「信頼と従順を果たす」ことを誓ったのです。
その契約制定の際に、神は民に対する命令として、モーセの十戒を中心とした様々な律法を与えられ、民はすべての律法を忠実に実行することを神に誓約したのです。これがイスラエルに与えられた神との契約の関係です。
しかし、ここに重大な問題が潜んでいました。神が与えられた律法は確かに神の意志を表しています。あくまでも律法は聖なる律法です。それに対して民が律法を実行する場合、民の動機と態度が問題なのです。
先ず律法を与えられた神の意図は、神の無償の愛に、全身全霊をもって応答し、神に対する感謝の念と従順の態度から律法を守るということです。
神の無償の愛に応答する神への愛と畏敬の念をもって、神に従順であり、神に祈り求め、自ら進んで、喜んで神の命令を実行することです。そうすることによって、神の愛と霊的力が民の心の中に働き、民が律法を実行することを神は欲せられました。
ところが、神の意志に反して、民は与えられた律法を自分たちが知っていることを誇り、自分の力でそれを実行しようとしました。律法の実行が自分の功績となり、自分は神の前に正しい人間となれると考えたのです。そして自分の功績に対する報酬として救いが得られると思ったのです。
これは大いなる誤解です。このことが直ちに神への反抗であり、この積み重ねとして民は後に契約を破棄するに至ったのです。
しかし、イスラエルの長い歴史を通して、律法に対する理解が次第に深まっていきました。
申命記の段階では、モーセの最後の勧告として、次にように教えています。
「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」(申命記30:14)
この勧告に従ったイスラエルの信仰深い人たちは、律法を日々学び、律法を暗記するほどによく知っていました。それゆえに、「自分たちは律法を実行できる」と考え、また自分たちは律法を実行していると主張しました。しかし、「律法を文字」として知っているだけでは、頭の中で分かっているつもりでも、それは律法を実行することは別問題なのです。
申命記の考えは、神の無償の愛に民が心から「応答する」ならば、そして神を正しく「礼拝する」ならば、律法を本当の意味で実行できると教えています。
従いまして、預言者エレミヤの時代に起こった申命記を基礎とする改革運動にエレミヤは一時、期待を寄せました。しかしその運動が神の意志に適う改革ではなかったことを知るに至り、エレミヤは新しい契約を預言しています。
「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ記31:33)
これは律法が文字に書かれたままでは律法を実行することができないが、「聖霊が人の心を照らす」とき、律法の意味が具体的に分かり、それを実行する霊的力が神から与えられるというのです。
そういう意味で、神が「新しい契約」を与えられるという「神の啓示」をエレミヤは受けたのです。
このような長い歴史を通して、神があるときは民を裁き、ある時は救出し、ある時は民に対して怒り、ある時は民を赦して民を導き、キリストの到来と神の救いを約束してこられました。
神の意志と行為との「客観的な現れ」である歴史を通して、神の恵みの偉大さと人間の罪深さを知るとき、主イエスを通して、主イエスにおいて、神が実現してくださった人類の罪の贖いとそれに基づく新しい契約の「無限の宝」を知ることができるのです。
そのときわたしたちは、確信と霊的力に満たされ、神を感謝し神への従順を通して、神を賛美するのです。
(3)神の救いとしての主イエス
旧約聖書の預言を実現させるために、神は御子・主イスにおいて、人間の存在を神ご自身が担い、主イエスにおいて、罪人であるわたしたちを神の前に正しい人間として創造し、「新しい存在」としてくださいました。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソ2:10)
このことが、エフェソの信徒への手紙がいう神の「満ち満ちた恵み」の内容なのです。1:3~14の箇所を読みますと、神の恵みの豊かさを強調する言葉が繰り返されています。
「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」(3節)
ここでは霊的な祝福をもって、神はわたしたちをキリストにおいて、すでに満たしてくださっている、というのですが、その内容は具体的には、10節を意味しています。
従いまして、エフェソの信徒への手紙2:10の御言葉こそ、神が人類の救いの歴史の中で約束し、ついに実現してくださった「神の恵みの内容」です。
実に、この御言葉を理解し、この御言葉に立脚した人生を歩むことが、わたしたちの存在、「生活全体」が感謝と喜びと力に満ち溢れる秘訣です。
年の初めに当たりまして、わたしはこのことを特に強調したいと思います。わたしたちは共にこの御言葉に基づいて、この一年を日々前進して行きましょう。
最後に、わたしたちがそのように生きることができる基礎は、二つあります。一つは、地上における神の御子・主イエスの生涯の中で、御子イエスが父なる神の御心を知り、完全に実行してくださったことです。一つは、十字架の死と復活において、主イエスの中でわたしたちが新しい存在として創造されたことです。
次に、文字としての律法は、神の霊的生命から離れて解釈されるとき、生まれながらの人間の力によって実行可能な「抽象的律法」となる危険性を孕んでいるのです。
言い換えれば、神の律法は主イエスが実行してくださったことの中でのみ明らかとなり、神が主イエスに命じられた言葉が律法なのです。主イエスと言う「この制限」を離れるならば、律法は「神の律法」とはなりえないのです。
それゆえ、主イエスは弟子たちに対して、次のことを教えられました。
「弟子は師に優るものではなく、僕は主人に優るものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」(マタイ10:24)
クリスチャンは主イエスのようになれば十分なのです。主イエスが地上の人生で、右に行くか、左に行くかを決断し、実行されたその「足跡」に続き、「主イエスにあって」、クリスチャンも決断し、実行することが、主イエスの行為を自分の立場で繰り返し、再確認し、体験することなのです。
この意味で、エフェソの信徒への手紙は、主イエスにおいて新しく創造されたわたしたちの存在のために、神はわたしたちの実行すべき善き業を主イエスにおいて用意されているというのです。
しかし、それはクリスチャンが既に用意されている善き業を自動的に機械的に実行するという意味ではなく、祈りによって神の御心を聞きつつ、自主的に判断し、実行すると言う意味です。
つまり、主イエスが最初に体験されたことをクリスチャンは後から「追体験」するのです。
従いまして、「復活の主イエス」が「御言葉」を通してクリスチャンと出会い、直面されるとき、主イエスは聖霊によってクリスチャンの存在の中にご自身の命を働かせられることにより、クリスチャンは「主イエスの命令」を実行するのです。
そのことを通して、クリスチャンは「古い死せる存在」から、「新しい命の存在」へと移行するのです。このことを繰り返すことによって、死から命へと前進していくのです。
この歩みの中に、神への感謝と喜びと確信と賛美があります。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソ2:10)
このことが、エフェソの信徒への手紙がいう神の「満ち満ちた恵み」の内容なのです。1:3~14の箇所を読みますと、神の恵みの豊かさを強調する言葉が繰り返されています。
「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」(3節)
ここでは霊的な祝福をもって、神はわたしたちをキリストにおいて、すでに満たしてくださっている、というのですが、その内容は具体的には、10節を意味しています。
従いまして、エフェソの信徒への手紙2:10の御言葉こそ、神が人類の救いの歴史の中で約束し、ついに実現してくださった「神の恵みの内容」です。
実に、この御言葉を理解し、この御言葉に立脚した人生を歩むことが、わたしたちの存在、「生活全体」が感謝と喜びと力に満ち溢れる秘訣です。
年の初めに当たりまして、わたしはこのことを特に強調したいと思います。わたしたちは共にこの御言葉に基づいて、この一年を日々前進して行きましょう。
最後に、わたしたちがそのように生きることができる基礎は、二つあります。一つは、地上における神の御子・主イエスの生涯の中で、御子イエスが父なる神の御心を知り、完全に実行してくださったことです。一つは、十字架の死と復活において、主イエスの中でわたしたちが新しい存在として創造されたことです。
次に、文字としての律法は、神の霊的生命から離れて解釈されるとき、生まれながらの人間の力によって実行可能な「抽象的律法」となる危険性を孕んでいるのです。
言い換えれば、神の律法は主イエスが実行してくださったことの中でのみ明らかとなり、神が主イエスに命じられた言葉が律法なのです。主イエスと言う「この制限」を離れるならば、律法は「神の律法」とはなりえないのです。
それゆえ、主イエスは弟子たちに対して、次のことを教えられました。
「弟子は師に優るものではなく、僕は主人に優るものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」(マタイ10:24)
クリスチャンは主イエスのようになれば十分なのです。主イエスが地上の人生で、右に行くか、左に行くかを決断し、実行されたその「足跡」に続き、「主イエスにあって」、クリスチャンも決断し、実行することが、主イエスの行為を自分の立場で繰り返し、再確認し、体験することなのです。
この意味で、エフェソの信徒への手紙は、主イエスにおいて新しく創造されたわたしたちの存在のために、神はわたしたちの実行すべき善き業を主イエスにおいて用意されているというのです。
しかし、それはクリスチャンが既に用意されている善き業を自動的に機械的に実行するという意味ではなく、祈りによって神の御心を聞きつつ、自主的に判断し、実行すると言う意味です。
つまり、主イエスが最初に体験されたことをクリスチャンは後から「追体験」するのです。
従いまして、「復活の主イエス」が「御言葉」を通してクリスチャンと出会い、直面されるとき、主イエスは聖霊によってクリスチャンの存在の中にご自身の命を働かせられることにより、クリスチャンは「主イエスの命令」を実行するのです。
そのことを通して、クリスチャンは「古い死せる存在」から、「新しい命の存在」へと移行するのです。このことを繰り返すことによって、死から命へと前進していくのです。
この歩みの中に、神への感謝と喜びと確信と賛美があります。
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