2011-12-11(Sun)

起き上がりなさい 2011年12月11日の礼拝メッセージ

起き上がりなさい
中山弘隆牧師

 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。
イザヤ書35章4~6節


 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
ヨハネによる福音書5章1~9節



(1)心の病める人
 本日はアドベントの第三週にあたりまして、主イエスと旧約聖書の深い関係について学びたいと思います。ヨハネの福音書5章はそのことを明らかに語っています。
5:1~9では38年間も病気に苦しんでいた人のことが記されています。彼の病気は何であったかは説明されていませんが、ベトザタの池の周りの廊下に目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人たちが大勢横たわっていました。彼はその中の一人でした。
 しかし彼は38年間も病気であったのですから、これはもう人生の半分以上を病気で過ごしたことになります。彼の悩みはいかに大きかったことでありましょうか。
なお、ここで考えさせられることは、彼の心を一層悲惨にしていた原因は、病気それ自体から来る不自由さというよりも、むしろ彼がまったく孤独の中に放置されていたということではないでしょうか。その結果、彼はもう「治りたい」という意欲を失っていました。
 主イエスが彼の苦しみを察知して、「良くなりたいか」と尋ねられましたときの彼の返事は、弱い言い訳でしかありませんでした。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです。」と言っています。
 
このベトザタの池は間欠泉で、時々池の底から熱い湯が湧き出て、その時真っ先に入った人だけが癒されると考えられていたようです。彼は最初、自分がそこに入る番が回ってくるものと期待しながら、池の周りの廊下に横たわっていたのですが、間欠泉から新しい湯が湧き出したとき、病人たちは我先にと競い合って池に降りていくので、体の不自由な彼はいつも取り残されてしまいました。そのように彼が池に入れるチャンスはなかなか回って来ませんでした。
病気の人たちの間でも、お互いに病気で人の痛みが分かり、同情し合う気持ちもあるのですが、それでも自分が人より先に治りたいという思いが働き、いざという場合に利己的な態度を取るのです。こういう状況の中で、彼はすっかり諦めざるを得なかったのです。
病気自体よりも、孤独の中ですべてのことを諦めたとき、人の心の状態は一層悲惨になるのです。
ベトザタの池には多くの人々が集まっていましても、一人一人が孤独であったと言うのは、ちょうど現代社会の縮図ではないでしょうか。

(2)主イエスと出会う
しかし、主イエスは孤独に陥っている人と出会ってくださるのです。孤独から抜け出す方法が自分では全く見つけられないで悩んでいる人のもとに、主イエスは訪ねて来てくださるのです。
世間から忘れられ、深い闇の中に陥ってしまった者を主イエスは訪ね、探し出してくださるのです。なぜならば、人々から忘れられても、主イエスからは忘れられていないからです。自分が人々から見捨てられていても、主イエスは自分を見捨てられないのです。
迷い出た羊を羊飼いが探し出すように、高慢と利己主義の罪のために神から離れ、孤独と暗闇の中にある者を、主イエスは探し出し、彼のところに来てくださるのです。
これは何という有難いことでありましょうか。この事実こそ人智をはるかに超えた神の行為です。これこそ神の愛です。神の御心に反する様々な悪を行って神から離れて行った罪人を神は愛して、探し求められるのです。愛されるに全く値しない悪人を神は愛して、彼のところに来てくださるのです。神に敵対している者を神は愛して、彼と出会ってくださるのです。

ここではそのような者に対して、主イエスは次のように行動されました。その様子を聖書は伝えています。
「その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」(5:6)
ここで「良くなりたいか」と言うイエスの呼びかけ、御言葉はイエスがこの病人と決定的に出会っておられることを示しています。
主イエスは彼と出会い、彼がもう長い間病気であるのを知られたということは、彼の苦しみを知ってくださったことなのです。
今やこの病人は自分に出会ってくださっている方が、自分の苦しみのすべてを知っておられると感じました。それだけでなく自分を完全に理解してくださっているという気がしました。
この方は自分の心の暗闇の根本原因が、無知、偽り、高慢、諸々の不正、不信仰、神に対する敵対の罪であることを知りつつ、その根本原因を自分に代わって背負ってくださることによって、罪人である自分を赦し、自分と出会ってくださっているのだと思いました。
同時に、この方は御自分の中にある正しさ、純潔さ、神聖さ、溢れでる命と力をもって、今自分と向き合っていてくださる、と直感しました。

その時、主イエスは彼に対して、「あなたは良くなりたいのか」と尋ねられたのです。この人は思いました。自分はすでに「良くなりたい」と言う意志を失っている。諦めと絶望こそ、死に至る心の病であり、自分はもう死んだのも同然である。
しかし、自分の前に立っておられる方は、全く自分とは異なる方である。この方は本当に生きておられる。全く正しく、健全で、良い方である。その方が、罪のために、すでに死んでいる自分と親密な関係を与えて下さっている。
この関係を通して、この方の心の中に脈打っている思いとその言葉の響きが、自分の心に伝わってくるようでした。そこで彼は心の中で主イエスに向かって、「はい、良くなりたいです。」と答えたのです。

その時、主イエスは仰せられました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(5:8)
彼はこの言葉を聞いた瞬間、それが自分の耳から、心の中に、そして自分の存在の中に、入って来るように感じました。自分には弱さ以外の何ものもない、自分は罪のゆえに、神の御前に失われ、すでに死んでいる人間である。
しかし、この御言葉は罪人を赦し、神の御前に死んでいる者を新しい人間として生かす御言葉である。この言葉は神から出る御言葉であるゆえに、それを実行する神の力を持っていると信じたのです。
死んだのも同然である自分を新しく生かすものは、この御言葉しかない、と思ったのです。そして御言葉に聞き従い、立ち上がろうとしました。
すると彼は自分の足で立ち上がることができました。この場合、結果は実にはっきりとした形で現れました。
聖書は、「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」と言っています。すぐに良くなったと言うだけで、どうして、どのように良くなったかについては、何も説明していません。ただ結果だけを告げています。
これはわたしたちもしばしば経験することです。但し、わたしたちの場合には、はっきりとした結果が出るまでに時間がかかります。主イエスに出会い、御言葉を聞き、それに従い、自分の足で立ち上がり、新しい生活が確実な軌道に乗るには、かなりの期間が必要です。
長年病気であった人が健康を回復し、新しい生活に入るようになるには、これから先の生活のことを考えなければなりません。社会に出て、どんなことが自分にできるだろうか。社会的責任を果たす生活よりは、このまま病気でいた方が気持ちは楽であるようにも思えるのです。しかし、前向きに考えて、自分の足で歩いて行こうとするならば、試行錯誤を繰り返しながらも、不思議にその道は開かれていきます。それこそ、主イエスがそのようにしてくださるからです。主イエスの御言葉はそれに従う者に実行する力を与えるからです。

(3)命を与える神の働き
ヨハネによる福音書では、主イエスによる癒しを、神の救いの「しるし」であると見ています。そして神の救いの本領は、永遠の命が主イエスを通して与えられることである、と言っています。
病人が癒された日が安息日でありましたので、ユダヤ教徒は激しくイエスに抗議したと他の福音書には書いてあります。
旧約聖書では、安息日に労働をしてはならないと厳しく命じられています。そしてユダヤ教の律法学者たちはその戒めを拡大解釈して、医療行為も一種の労働であるから、安息日に病人を癒してはならない、と教えました。イエスはこの教えを破る者で、神に反する重大な罪人であると非難しました。
ここで、イエスはなぜ安息日に病気を癒すのかについて、その理由を次のように宣言されました。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(5:17)

当時の律法学者たちの意見では、人間は安息日に仕事を止めて休息しなければならないが、神様は安息日でも休まず働いておられる。そして神の働きは二通りあるというのです。一つは創造者としての良き業であり、一つは王としての裁きであるとしていました。
それに対して、主イエスは次のように仰せられたのです。
「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。」(5:21~22)
神の裁きは命を与えることに伴う行為であり、神の働きの中心はあくまでも命を与えることであります。従いまして、安息日に神が行われる行為は、命を与える救いである、と仰せられたのです。

しかも、驚くべきことは神にのみ属する権限を主イエスは自ら実行しておられる、と言うのです。今、38年間病気に悩んでいた人を癒されたのは、命を与える神の行為であると言われたのです。
そのため、ユダヤ教徒は一層激しくイエスを非難し、イエスは人間でありながら自分を神と等しい者として、神を冒涜したと見做して、イエスを十字架の刑に処しました。
このようにユダヤ教徒はイエスの発言と行為を信じませんでしたが、実は旧約聖書はユダヤ教徒も含めて、人類の罪を神が裁かれることを通して、ユダヤ教徒も含めて、全人類に対する神の救いが実現することを証しているのです。言い換えれば、神の救いとは罪ある古い人間が滅ぼされ、正しい新しい人間が創造されることなのです。
具体的に言えば、主イエスが人類の罪を背負って、罪の裁きを受けて死に、しかも死に至るまで神の御心に従われたことにより、人類のための義を達成されました。
このことにより、神は主イエスを死人の中から復活させたれたのです。そして、主イエスを通して人類を正しい新しい人間として創造されたのです。つまり、人類のための主イエスの死と復活において、人間はだれであっても主イエスと共に死に、主イエスと共に復活させられたのです。このことが人類に下された神の審判を通して与えられた神の救いなのです。
それゆえ、主イエスと出会い、主イエスの御言葉を信じる時、人はだれでも古い自分に死に、新しい人間に生きるのです。今や罪と死に勝利した永遠の命が主イエスを信じる者に与えられるのです。

このことを旧約聖書は証しています。古典的な記述預言者と呼ばれています旧約聖書の偉大な預言者たちはイスラエルの歴史の危機と転換期に約180年にわたって、巨星のごとく次々と現れて神の言葉を語りました。彼らの語った神の言葉は神の審判を通しての神の救いであります。そして審判と救いの範囲は全人類に及ぶという内容でした。
預言者たちは皆、神と人格的に出会い、御言葉によって語られる神と直面しました。そして御言葉にはそれを実現する霊的な力が伴っていることを認識し、御言葉をイスラエルに向かって語ったのです。

(4)神と対面する者たち
このような古典的預言者たちが出会い、直面し、その御言葉を聞いた活ける神は、今や主イエスにあって、御言葉を語られたのです。
その内容は神が預言者たちに語られたものと同じですが、より具体的に語られました。何よりも全く新しいことは、神ご自身が主イエスにおいて人間となり、人間として人類の罪を背負うことによって、救いが実現すると語られたのです。これは預言者たちの想像をはるかに越えた神の恵みであり、人類に対する神の愛の啓示です。
しかし、御言葉を聞いて、活ける神と直面した昔の預言者たちが、もしもヨハネ福音書が伝えている主イエスが行動された現場にいたとすれば、彼らは主イエスこそ自分たちが知っている神と全く同じ方であり、しかも神が今や人間となって、御言葉を明瞭に語り、神の救いを与えられたと信じ、人智を超えた神の恵みを認識し、賛美するでありましょう。このようにして、旧約聖書の預言は主イエスを証しているのです。
それゆえ神は永遠に主イエスの人格と行為を通して、すなわち主イエスの十字架の死と復活の事実の言葉を通して究極的な御言葉を語っておられるのです。今や、主イエスの御言葉を聞くことによって、人はだれでも聖なる生ける神と出会うのです。



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