2011-10-30(Sun)

信仰によって義とされる 2011年10月30日 宗教改革記念日礼拝メッセージ

信仰によって義とされる
中山弘隆牧師

 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記15章1~6節


 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節



(1)宗教改革とは
 日本基督教団の諸教会では本日の礼拝を、宗教改革を記念して行っています。1517年10月31日にマルティン・ルターがドイツのヴィテンベルグの城教会の扉に神学上の95箇条の議題を、貼り出したことが宗教改革の発端となりましたので、プロテスタントの教会ではこの日を宗教改革の記念日としております。
宗教改革の運動はヨーロッパ全体に及び、約100年余りにわたって継続し、ヨーロッパの人々はプロテスタントの信仰とローマ・カトリックの信仰のどちらを選ぶかの選択を迫られました。霊的な面から見れば、キリスト教会の全歴史を通して、初代教会の時代に次いで、宗教改革の時代に聖霊の働きが最も活発であったと言われています。
キリスト教の歴史の大家であるアメリカの歴史学者ラトゥーレットは次のように言っています。キリスト教会の長い歴史を考察すると、キリスト教は浮き沈みを繰り返しているが、キリスト教に反対する思想や勢力の挑戦を受けて逆境に立たされた時こそ、キリスト教は力を発揮し、福音を世界に広めてきたと言っています。
そして、18~19世紀はキリスト教が世界的に拡大した記念すべき世紀であったと述べています。

宗教改革運動は、ヨーロッパ封建制社会が行き詰まり、他方ルネッサンスの文明復興により、人々の意識が変わりつつあり、また新しい産業を興す階級が出現し、社会全体の変革が必要となっていた時代に起こりました。従いまして宗教改革の影響は多方面に及んでいます。
しかし、宗教改革の目的の中心はあくまでも信仰問題であり、人間の救いの問題でありました。それは聖書に示されている福音の再発見であります。
イエス・キリストを信じることにより、神から義と認められ、神との人格的関係を与えられるという霊的体験です。言い換えれば古い自分が新しい自分に生まれ変わるという魂の救いの体験です。実にこの体験が宗教改革の原動力となりました。
従いまして、わたしたちプロテスタントの教会は、宗教改革によって明確にされた福音的信仰に堅く立つ時に、神がキリストにおいて実現された神の恵みの中で、霊的生命を受け、喜んで神の御心に従う人生を歩むのです。そしてわたしたちの信仰生活の終局はキリストの恵みによる救いの完成であることを確信するのです。

(2)恵みを受領する手段としての信仰
福音的信仰は極めて、聖書的であり、極めて単純明快であります。
その内容は、人間の救いは恵みによってのみ、信仰によってのみ与えられるということです。エフェソの信徒への手紙2:8は福音の中心点を強調しています。

 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)
 ここで、「救われました」と聖書が言っているのは、わたしたちの救いが今完成しているという意味ではありません。そうではなく、神が与えられる救いが今わたしたちの中で開始しているという意味です。
そしてこの信仰生活の終着点は、天にある救いの完成でありますが、それは確実なものとして神によって約束され、保証されているのです。

 次に、神の恵みがわたしたちの中に働くのは、主イエス・キリストを信じる信仰を通してであります。信仰こそ、恵みを人間が受け取る唯一の手段なのです。これは「神が定められた手段」です。このことを聖書は明らかにしています。
そして宗教改革の特質は、さらに強調して、人間は「恵みによってのみ」そして「信仰によってのみ」救われるという点です。
なぜなら、恵みは信仰によってのみ受領されるときに、恵みが純粋に恵みとなるからです。
「恵みによってのみ」は必然的に「信仰によってのみ」と結びついており、両者は表裏一体となっています。

エフェソの信徒への手紙が明確にしていますように、救いは人間が自分の力で達成する善い行いによって、報酬として神から与えられるのではありません。そうではなく救いは神の賜物なのです。人間にとって一番必要なそして一番大切なものは、神が無償で与えてくださるのです。わたしたちはこの点を自分の心に銘記するならば、神に対する「無限の感謝」と神の命令に自ら進んで従い、実行するという「自発性と従順」とがわたしたちの心に芽生えるのです。

しかし、恵みによってのみ、信仰によってのみは決して善い行いと無関係ではありません。むしろその反対で、信仰は善き業を生み出すのです。このことを聖書は重要視しています。信仰によって、恵みによって生きる者は、善き行いをすると聖書は教えています。

「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(エフェソ2:10)

わたしたちはイエス・キリストの贖いによって、新しく造られた者であり、わたしたちの新しい存在は、イエス・キリストの中で造られ、保存されていると聖書は言っています。
さらに、新しく造られた目的を明らかにし、わたしたちが善い業を行ってこの地上での信仰生活をするためであるといっています。
従いまして、わたしたちが実行することのできる良い業は「神が前もって準備された」のであり、それはイエス・キリストの中に保存されているのです。
従いまして、イエス・キリストの中に造られた新しい人間は、善い業をするために造られたのでありますから、恵みによって生きる信仰者は善い業をすることができるし、またしなければならないのです。なぜならば善い業をして信仰の生涯を歩むことが神の目的であるからです。
さらに、恵みによって新しく造られたわたしたちの存在、言い換えれば生まれ変わったわたしたちの「心と性質」は、自ら進んで自発的に善い業を行うのです。なぜならば、わたしたちの新しい心と性質は、神の命令に従順であり、自ら進んでそれを実行するからです。

宗教改革者ルターはだれでも主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、神から正し者として認められると言いました。それが宗教改革の旗印の一つである「信仰義認」であります。
これに反対したローマ・カトリック教会は、善い業を行わないで、信仰だけで義と認められるというプロテスタントの教理は、どれだけ努力しても肉欲に捕らわれているため善い業を行うことができない人間の詭弁であると、非難しました。
それに対してルターは、信仰は働き者である。信仰は決して怠け者ではない、信仰は良い業を行うと証言しました。

そして、主イエスが良い木と悪い木の譬え話をされ、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実をむすぶ。」(マタイ7:17)と仰せられた言葉を引用し、ルターは良い木とは信仰義認によって神から良い人間とされている者であると言いました。悪い木とは律法の業を自分の力で行い、それを自分の功績とし、それを誇っている人間であると言いました。そのようにして、ローマ・カトリックの隠された深刻な問題を暴露したのです。

ローマ・カトリックの教理でも、救いの根拠は神の恵みであります。しかし、人間が神に義と認められるということは、信仰だけによるのではなく、律法に従って、善い業を行い、信仰者が実質的に正し者となることによってであるというのが、ローマ・カトリックの「義認」の教理なのです。
しかし、ここには信仰者が善い業を行ってその功績によって救われるという律法主義が潜んでいます。
その結果、聖人として教会から公認された者以外の一般的なローマ・カトリック信徒は自分が救われるかどうかはわからないので、滅びの恐怖にたえず捉えられています。そこには、神の命令に自発的に従い、善い業をするという新しい人間の自由がないのです。

(3)神の恵みとは何か
次に、プロテスタントとローマ・カトリックとの違いの原因は、そもそも恵みに関する理解が異なっていることです。
プロテスタントの場合は、恵みとは神が主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、人間に与えられるものすべてを含んでいます。
第一に信仰。第二に善き業をすることによる聖化。第三に終わりの日に与えられる救いの完成。この三つです。

第一の信仰はわたしたち人間が神と主イエス・キリストを信じることですが、それは聖霊の働きであり、それゆえ神の恵みによるのです。 
第二の聖化も恵みの働きです。聖化とはわたしたちが善い業を行うことであり、一層善い業をするように絶えず努力することです。
従いましてわたしたちが善い業を行うためには、自分で努力し、全精力を注がなければなりません。しかしそれを実行することが可能な人間とは、生まれながらの人間ではなく、善い行いをするためにキリストの中で造られた新しい人間です。
それゆえ、新しい人間の働きがますます活発になり、明瞭に現れるのは、実に恵みの働きです。それゆえ、聖化もまた信仰を通して可能です。
第三に救いの完成は、神が主イエス・キリストの中に与えられている新しい人間が、キリストの再臨と共に出現することであり、これは恵みの総括です。

それに対して、ローマ・カトリック教会の言う恵みとは、人間が善い業を行う場合の補助であり、善い業は人間の意志と努力によるというのです。
それは人間がアダムの原罪によって失ったものは、超自然的な正しさであり、人間としての理性と意志、すなわち道徳的な能力は少しも傷つけられないで残っているという理解です。失った超自然的な正しさは洗礼の秘跡によって与えられると言います。
従って、人間は自分の努力と精進によって、善き業を行い、功績を持つことができるというのがローマ・カトリックの教理です。これは正に福音的信仰に反する律法主義的信仰です。

しかし他方、現代のプロテスタント教会にも、律法主義的な傾向は宗教改革以後も様々な形で現れています。
人間の理性や意志による道徳的な能力を主張する人たちがいます。聖書を読んでも、理性の判断で理解することだけを聖書から読み取り、理性の力で道徳的に正しい人間になることを、信仰生活の唯一の目的としている人たちです。主イエスを信じていると言っていますが、人間イエスを理想的な模範として見ており、イエスを教師として、イエスに見習うことを信仰の唯一の目的としている人たちです。
そのような人たちは罪により、神から離反した人間は、神との交わりから切り離され、罪の束縛のもとにあり、神の意志に従うことができないという深刻な現実を直視しない人たちです。

(4)信仰義認とは何か
イエス・キリストの十字架と復活による贖いは、神の御前に死んでいる人間を、神の御前に生きる者とさせる神の行為と判決です。正にそれが神の恵みなのです。
信仰とは、その恵みである神の行為と判決を承認し、服従し、受領することです。それゆえに、神は信仰者を正し者とされ、信仰者をご自身との人格的な交わりに入れられるのです。同時に、聖霊により、復活の主イエス・キリストが信仰者の中に働かれるのです。

しかし、クリスチャンも生まれながらの人間である限り、古い人間であり常に罪を犯す弱い人間です。それにも拘らず、信仰義認によりキリストの中にある新しい人間として生きているのです。
その具体的な行き方とは、絶えず古い人間に背を向け、決然と顔を新しい人間に向けて、歩むのです。それは聖霊によりキリストとつながり、キリストの思いと命を受け、新しい人間として歩むのです。そして次にように告白しつつ前進するのです。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)
要するに、信仰義認とは聖霊により復活のキリストがわたしたちの中に臨在しておられ、わたしたちの心にキリストの思いと命に注いでくださることです。そしてわたしたちもキリストの思いと行動を自分の思いと行動に移して、全存在をもって、神の意志に従い、善い業をすることです。



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