2011-10-16(Sun)

赦す神の愛 2011年10月16日の礼拝メッセージ

赦す神の愛
中山弘隆牧師

 ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
ホセア書11章8~9節


 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
ルカによる福音書7章40~50節



(1)なぜ愛するか
 ここには福音書の中でも、最も強くアッピールする物語があります。
主イエスはガリラヤ地方を巡回して、今やご自身の宣教活動を通して、神の国が人類の歴史の中で開始しつつあると宣言されました。同時に自分の罪に束縛されている人たちに神の赦しを告げ、病に苦しんでいる人々を癒し、差別や抑圧を受けている人々に交わりの手を差し伸べられました。

 イエスの教えには、律法学者たちとは本質的に異なり、神の権威と力を伴っていましたので、人々は強い感銘を受け、イエスに従った弟子たちだけでなく、ファリサイ派の中でも、イエスに対して大預言者が現れたのではないかと期待する人々がいました。ここに登場するシモンもその一人です。
 36節で次のように記されています。
 「さて、あるファイサイ派の人が、一緒に食事をして欲しいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」
 このようにシモンは食事の場を設けてイエスを招き、イエスに対する敬意を表しました。しかし、それ以上にイエスに感謝と愛を示す一人の女性がいました。37節でそのことが紹介されています。
 「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきた。」
 この女性は町の娼婦で、罪深い女として人々の軽蔑の的であったと思われます。娼婦は聖書の教えに反する不道徳な行為をしておりましたので、人の目を避けていたのでしょうが、この時は殊更ファリサイ派で敬虔な人物として自他ともに認めていたシモンの家に入ってきました。自分の恥を忘れたのではないのですが、イエスの足に香油を塗り、イエスに感謝の気持ちを表したいという一心で大胆な行動を取ったのです。
 彼女は食事の席についておられるイエスの背後に立ちました。当時の習慣で、食事をする際に人は寝そべるようにして席に横たわり、足を延ばしますので、彼女は後ろからイエスの足もとに近寄ることができたのです。
 突然感謝の気持ちがこみ上げて来て、はらはらと涙をこぼしました。ちょうどその涙はイエスの足に降り注ぎました。そのことに気づいて狼狽しながらも、とっさの機転で、自分の髪の毛で涙を拭い、イエスの足に接吻して、香油を塗り始めました。惜しみなく香油を使用しましたので、芳香が宴会場に満ちたのです。

 それではなぜこのような感謝と愛の献身を女性はイエスに献げたのでしょうか。この物語では、それ以前の経緯が説明されていませんので、推測するより方法はありませんが、おそらく女性はこの日、町の会堂で教えられたイエスの話を聞いたのだと思います。
その時、イエスが語られる神の赦しが罪深い自分に向かって語られるように思えて、心の中でイエスの言葉を信じたのだと思われます。イエスを通して自分に与えられた神の赦しを知るとき、人はだれでも自分のすべてを献げて応答するより他はないからです。
しかし、現実的な事柄の経過はもう少し複雑で、彼女は自分が既に赦されたと思ったというよりも、むしろ自分は赦される過程の中にあると思ったのでしょう。

その場合には、彼女が流した涙は感謝の涙であると同時に、自分の犯した罪に対する懺悔の涙でもあります。事実わたしたちが主イエスを通して神から赦されるときに、わたしたちの心に懺悔と愛とが同時に芽生え、両者は不可分離です。
懺悔はその中に感謝と愛とを含んでいますので、自分の罪を深く悲しみながらも、神はこのような罪深い自分を赦されないのではないだろうかと言う疑問や絶望に陥ることはありません。
なぜならば、罪人に対する神の愛と赦しを語られる主イエスご自身に注目するならば、主イエスは明らかに自分を赦し受け入れて下さっていることが分かります。それゆえに、神様は罪深い自分を、主イエスが赦してくださったようにきっと赦してくださると思えるからです。
その思いは単純な思いでありますが、神様は本当に赦してくださるのだと思えるのです。これは全く不思議なことであり、神の働きというより他はありません。それは神の真理と現実に人が直面するときに与えられる単純で、純粋で、力強い思いなのです。

 他方、愛はそのうちに自己の罪に対する懺悔を含んでいますので、自分は神の赦しを受けるに相応しくない者であるという謙遜な思いを抱いており、無償の神の愛と赦しにひたすら依り頼むという基本的な態度と姿勢を持っています。
ここでも、主イエスがわたしたちに向かって神の赦しを語られるとき、同時にわたしたちにご自身の義と清さを与えられるので、それによって、それまでせき止められていたダムの水門が開かれるように、神の愛が奔流となってわたしたちの心の中に流れ込むのです。
それによって、わたしたちは感謝と愛をもって神の赦しに応答することができるのです。
従いまして、この女性の愛と懺悔は自分が赦されつつある神の呼びかけと神の働きに対する応答でありました。
しかし、結局このことを神の事実として見る場合には、彼女は既に神によって赦されていたからである、と言えます。

(2)この人を見よ
次に、シモンはこの様子を見ながら、罪の女に触れられているイエスは、自分が予想していたような預言者ではない、と考えていました。
その時、イエスはシモンの心中を見抜き、次にように仰せになりました。
 「シモン、あなたに言いたいことがある。」(7:40)
そして、一つの譬え話をされました。その中で、多くの借金を赦された者は赦してくれた恩人を多く愛し、少しの借金を赦された者は赦してくれた恩人を少ししか愛さないということをシモンに思い起こさせられたのです。その上で、シモンとこの罪の女性はどの立場にあるかを示されました。
シモンは人の外面しか見ず、すべての人を二つの部類に分類しました。すなわち、自分のような敬虔な人たちの部類と、この娼婦や徴税人のような罪人の部類に分類して、その類型に従って、人を取り扱っていました。
敬虔な部類に属する人を評価し、尊敬する一方、罪人の部類の人々はその人が誰であろうと皆軽蔑していたのです。シモンはこの女性を軽蔑すべき人間の部類であるとだけしか見ていなかったのです。彼女が人間として、個人として、誰であるかと言うことには全く無関心でした。

それとは対照的に、イエスは人を外面ではなく、常にその人の人格の中を見て、その人自身を見ておられました。
イエスがシモンに対して、「この人を見ないか」と言われたのは、この娼婦である女性を一人の人間として見、彼女自身が今何を考え、どのような動機でこのような行動を取っているのかを知るために、「彼女自身の内側に起こっている事態を見ているか」と問いかけられたのです。
そのとき、彼女の中にシモンには考えられないような事柄が起こっていました。それは神と人間との関係における霊的で最も尊い出来事です。47節で主イエスは次のように仰せになりました。
「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。」
それでは、多く愛する者は、多くの罪を犯した者でなければならないのでしょうか。他方、シモンのように社会的に信用され、道徳的な面で落ち度の少ない者は、少ししか愛することはできないのでしょうか。決してそうではありません。
多く愛するか否かの事柄は、人が犯す罪の多少の問題ではなく、罪を赦すために、神が主イエスの十字架の犠牲を通して示された神の愛の尊さを知るか、否かの問題であります。

主イエスの十字架は神の愛の啓示であると同時に人間に対する神の自己譲与であります。このことの中に神の愛が永遠に働いているのです。ヨハネによる福音書は次のように言っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
また、ヨハネの手紙一では次のように言っています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う生け贄(いけにえ)として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一、4:10)

神は人間を神ご自身との人格的な交わりに入れるためには、その交わりを阻止している人間の罪が取り去られる必要がありました。そのため神は尊い神の御子・主イエスをわたしたち人間にお与えになりました。この神の御子の人間に対する自己譲与こそ、神の愛であります。

罪の全くない主イエスが人類の罪を負い、神は主イエスの十字架の死において人類の罪を裁き、罪を神の御前から完全に取り去られました。そして主イエスが十字架の死の極みまで、神の意志に従われたことにより、神の御前に永遠に有効な人間の義が樹立されました。
それゆえ今や、わたしたちは罪人であるにもかかわらず、主イエスの中に存在する者として、神から義と認められ、神との人格的な交わりに入れられており、神はあたしたちの心に聖霊を通して神の愛を注がれるのです。わたしたちはその愛をもって、神と隣人を愛するのです。従いまして、わたしたちが神と人とを愛する愛は、神から与えられている愛なのです。

(3)主イエスに対する献身
最後に、福音的なキリスト教は、神が主イエスにおいて、人間のために実現された恵みを、聖霊を通して、直接クリスチャンに与えられる賜物、否正確に言えば神ご自身の働きによって、存在します。
その中で、最大の霊的な賜物は「信仰と希望と愛」であります。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント一、13:13)
信仰も希望も愛も確かに、クリスチャンが信じ、望み、愛することであります。しかし、クリスチャンの信仰は自分の信仰心でキリストを信じ、神を信じているのではありません。聖霊がクリスチャンの心に働きますので、十字架について死に、三日目に死人の中から復活されたイエスをクリスチャンはわれらの主と信じるのです。
また聖霊によって、主イエスの父を、クリスチャンはわれらの父なる神として信じるのです。希望も愛も人間の希望と愛ではなく、聖霊が人間の心の中に働くことによって創りだす希望と愛なのです。
それゆえに、信仰と希望と愛は、言い換えれば、神が主イエスを通して創造された新しい人間の働きなのです。新し人間の存在の三つの要素なのです。
それゆえに、この三つの在り方は互いに結びついており、不可分離です。信仰は愛を抜きにしては本当の信仰ではありません。しかし、愛は信仰を抜きにしては働かないのです。
また、クリスチャンのこの世界における新しい存在は希望を抜きにしては存在しません。なぜならば、クリスチャンが新しく創造された人間として、この世界の中で、この歴史の中で生きておりますのは、この世界から出ている命ではなく、キリストの命に生かされることであるからです。
それは天にいますキリストの中にある命なのです。それゆえ、クリスチャンの本国は天にあり、クリスチャンはキリストの救いが完成する時に向かって希望をもって前進して行く者たちです。
そういう意味で、使徒パウロはわたしたちが希望によって救われていると言っています。
「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。--わたしたちは目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:23~25)

しかし、わたしたちは現に罪人でありますが、言い換えれば生まれながらの人間としてのクリスチャンはすべて罪人ですが、主イエスを信じることにより、神との人格的な交わりを与えられ、そこから愛と希望とがクリスチャンの中に働いているのです。
時間的に三つは同時ですが、秩序の上から言えば、信仰によって、罪人であるわたしたちが神の御前で義と認められて神と交わりの中に入っていることが、愛と希望の揺るがない土台となっているのです。
その意味で、主イエスは、この女性に向かってこのように仰せになりました。
「あなたの罪は赦された」(7:48)
さらに、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(7:50)
信仰によって働く愛、また愛によって働く信仰が、今後この女性の生き方になることを実に鮮明にこの言葉は示しています。



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