2010-06-20(Sun)

シリアの女性の信仰 2010年6月20日の礼拝メッセージ

シリアの女性の信仰
中山弘隆牧師

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
イザヤ書42章1~7節

 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
マルコによる福音書7章24~30節

(1)信仰の必要
 本日の聖書の箇所には、主イエスと異邦人の女性との出会いが記されています。主イエスは、ガリラヤ地方における神の国の宣教活動に区切りをつけ、将来のことを考えるために、弟子たちを伴わずに唯一人で異教徒の地方へ行かれたときのことです。マルコによる福音書7:24節で、ティルスの地方へ行かれたと場所が明記してあります。ティルスとは地中海沿岸の港町でした。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、…」とだけ説明されています。
しかしこの簡潔な説明は非常に重大な意味を持っています。主イエスが唯一人で、しかもある期間過ごされるのは、神の御子である主イエスの使命について、熟慮するためです。宣教を開始する前にも同様に、主イエスは一人で荒れ野に入り40日間、祈りと瞑想の時を過ごされました。そこから始まりましたガリラヤ地方での伝道において、主イエスは神の民であるユダヤ人が神の國の福音を信じて、救いに入るため、全勢力を傾けて尽力されました。しかし結果としてその伝道は失敗に終わりました。
この危機の中で、主イエスは救い主として果たさなければならない使命をもう一度根本から考えるため、人々に邪魔されないことを願って、一人で異教徒の地方に行かれたのだ、と推測されます。それでも間もなく人々に気づかれてしまいました。
 25節には、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」と記されています。「ひれ伏す」とは、尊敬と祈願の気持ちを表す姿勢です。
26節で次にように説明しています。
 「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」
 この婦人は自分の娘が精神的にひどく苦しみ、理由の分からない激しい発作に襲われることがしばしばあり、母親の切なる願いを抱いて、イエスのもとに来ました。
 子を思う母親の愛情から、癒して頂きたいという願いは真剣でありましたが、イエスに対する信仰がしっかりと確立していたかどうかは必ずしも明かではありません。この点が大きな問題です。
 最初に主イエスはこの婦人の叫びに対して、すぐには答えないで沈黙しておられました。この記事と平行しているマタイ15:23の記事ではこのように記されています。
 「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」
 それではイエスが見て見ぬ振りをされたのでしょうか。冷たくこの女性を突き放しておられたのでしょうか。いや決してそんなはずはないと思います。イエスは沈黙のうちに、この女性の心の中にある思いを、直感によって感じ取っておられたのです。そのようにして女性の言葉をご自分の心に受け止めておられたのです。
 しばしばイエスは沈黙のうちに祈られました。イエスは耳が聞こえず、口の利けない人を癒される前に、その人の苦しみを思い、天を仰いで嘆息をつかれたと、この記事に引き続いて書いています。マルコによる福音書7:34で「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、エッファタと言われた。それは開けという意味である。」と書いています。言葉にならない嘆息が祈りであり、その深いイエスの沈黙から癒しの力が生まれたのです。ここでもイエスは沈黙のうちにこの女性の信仰が本物であることを見抜かれました。
 
(2)異邦人の救いの時
 しかし、異邦人が真の信仰を持ち、イエスを通して到来した神の救いを受け取るということは、イエスにとりまして決して当然のことではありませんでした。
 その点について、イエスは未だ定かでなかったと思われます。なぜならば、それまでのイエスの理解では、神の救いは先ずイスラエルの民にのべ伝えられるべきであったからです。そこで、異邦人の女性に対して、一見冷淡と思われる言葉を語られました。
 「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27節)
 ここで、子供とはイスラエルの民のことです。小犬とは異邦人を指しています。ユダヤの律法学者たちは異邦人を犬と呼んで軽蔑していました。当時の律法学者であるラビ・エリエゼルは「偶像礼拝者と一緒に食事をする者は、犬と一緒に食事をするのと似ている。」と言っています。明らかにそれは異邦人を軽蔑し、忌み嫌う言葉です。
 しかし、イエスはそのような軽蔑の意味を一切排除し、愛情を込めてユーモアをもって、異邦人を犬ではなく、可愛い「小犬」と呼ばれたのです。これはペットとして飼われ、家族の一員となっている小犬のことで、一種の愛称です。また、ここでイエスは神の救いをパンと呼んでおられます。これらのイエスの言葉は神の救いを先ずイスラエルに与えるべきであり、異邦人に与えるときは未だ来ていないのだ、という意味です。
 しかし、これは決して異邦人に対して救いを与えることをイエスが拒否しておられると言うのではありません。そうではなく、イエスの心はイスラエルに集中していたからです。なぜならば神の救いの時が既に来ているのに、依然として救いを拒み続けているイスラエルの頑なな心、またその結果、イスラエルがこれから担わなければならない悲惨な運命に心を痛めておられたからです。
 そうしたイエスの心境を異邦人の女性は敏感に察しながらも、そこで神に対する真の信仰をもったシリア・フェニキアの女性は、神の救いの計画について、自らの信仰を表明しました。彼女は自分が異邦人であることを謙遜に認めながら、なお厚い信仰をもって、このように言いました。
 「主よ、しかし、食卓の下の小犬も子供のパン屑はいただきます。」(28節)
 この女性は主イエスの心の思いを察知し、愛と機知とに富んで、謙遜にしかも確信に溢れて、主イエスの中にある思いを一歩前進させたのです。イエスが子供たちの食卓の下に待機している小犬に異邦人を譬えられましたので、イエスの思いはすでに、小犬がパン屑に与ると言う方向に向いているのを感じ取ったのです。そして、神の国は異邦人に対しても与えられていることを信じる信仰を表明しました。食事の時にテーブルの下にいる小犬も、子供たちのパン屑を貰って一緒に食事をするように、異邦人もイスラエルの民と一緒に神の救いを受けることができるという信仰を表明したのです。

(3)聖書の信仰
 聖書における信仰は、単に全能者を信じると言うのではありません。それだけであるならば、それは偶像崇拝と何ら変わるところはありません。非聖書的な信仰は人間の力を越えた者を信じますが、その場合に超自然的な力は暗い運命のようなもの、あるいは独裁者のような気まぐれで力であったりします。
 それに対して、聖書の信仰は全能者である神は、「恵み深く」、「真実な」神です。恵み深いとは、愛する価値のない邪悪な罪人を神はなお愛し、救いを与えられる方であると言う意味です。また真実とは、神が自ら欲したこと、そして約束されたことを必ず実現される方であるという意味です。
 旧約聖書では、信仰の父アブラハムが、このことを信じて人生の最大の危機において、真実なる神に寄り頼み、将来に対する希望を持ち続けました。
さらに、新約聖書では、「神の恵みと真実」が主イエス・キリストにおいて、ことごとく「しかり」となっていること、実現・成就していることを信じるのです。
 従いまして、そのような信仰をもって、主イエスに助けを求めている異邦人の出現は主イエスにとっても驚くべき出会いであったのです。そこに実に大きな主イエスの感動と喜びがあったのです。
 「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(29節)
 これは主イエスが神の御子の直感によって、この女性の幼い娘が癒されたことを知って、このように仰せになったのです。
 まことに、主イエスはご自分を信じる者には、神の救いを与えることができるのです。それはイスラエル人であろうと、異邦人であろうとも少しも変わりはありません。
 ここで、異邦人が救われたということは、このとき、主イエスは救い主としての御自分の使命は、イスラエルだけでなく、全人類を罪とその束縛から解放することであると、再確認されたのです。
この使命は宣教の当初から認識しておられたのですが、ユダヤ人に対する神の国の宣教活動で、まだ足りない点が何であるかを反省し、それは御自分を全人類の罪の贖いのために献げること、すなわち、犠牲としての十字架の死であることを、今や明確に認識されました。
 ユダヤにおける宣教活動は、ユダヤ人の不信仰と、ユダヤの指導者たちの反対と敵意をもたらしました。彼らはイエスをユダヤ教を根本から否定する者と判断し、イエスを抹殺しようとしており、またヘロデ王もイエスを危険視していました。この状況はイエスを死に追いやる運命を示していました。
しかし主イエスはこのような歴史的運命も、父なる神が定められた必然として受け入れらました。実にそれは御自分が十字架の死を全うして人類の罪を贖うことが神から与えられた御自分の使命であると、認識されたのです。
そのように、自ら進んで十字架への道を選び取り、御自分を献げられたのです。実にここに神の御子であるという主イエスの自覚と決断がありました。
 人類を罪から救うために、人類の罪をご自身で背負い、人類に代わって、自己の命を犠牲として、神に献げることを決意されたのです。そのことが全うされる時こそ、本格的に神の救いが実現することを確認されました。そして不退転の決意を持って、再びガリラヤに戻られました。
 しかし、そのときこそ弟子たちに主イエスに対する信仰を要求されました。しかも、十字架の犠牲の死によって、人類を罪から救う救い主としての信仰を要求されたのです。この点につきましては、この記事に続くマルコ8:27~33で詳しく記されています。

(4)教会の信仰
 最後に、この物語は初代教会にとって、どんな意味を持っていたのでしょうか。イエス・キリストの福音を異邦人世界に宣教しようとしていました初代教会にとりましては、真に大きな励ましでありました。
 死人の中から復活された主イエスは、今日も世界のあらゆるところの人々を救うために、その御業を前進させておられます。この霊的な現実こそ生ける神の威力であります。教会が主イエスの福音をのべ伝える以前に、主イエスの霊的現実はすべての人々を包み、すべての人々と対面しています。人間がそのことに対して信仰の目を開き、心をそこに向け、神に求めるならば、主イエス・キリストの救いがその人のものとなります。この霊的な現実こそ「昨日も、今日も、明日も、永遠に変わることのない」神の御子・主イエス・キリストなのです(ヘブライ人への手紙13:8)。福音の伝道とは、この主イエスを証しすることです。




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