2016-05-29(Sun)

三位一体の神 2016年5月29日の礼拝メッセージ

三位一体の神
中山弘隆牧師

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記6章4~9節


 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
ヨハネによる福音書14章6~11節


(1)聖書の神と神の言葉
 わたしたちと日々出会い、御言葉をもってご自身を示し、救いを与えるために、わたしたちを支配し、導かれる神は唯一の神です。本日のテキスト、申命記6章はこのことを語っています。
 「イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(6:4~5)
 わたしたちは日常生活の中で、思い煩うことの多い者ですが、新緑の森を渡って吹いてくる微風を体に受け、心身がリフレッシュされるとき、あるいは野辺に咲く小さな花、或いははるばる南洋から飛来し、巣作りのために川や、田んぼを飛び交うツバメの姿を見ると、思い煩っている自分の愚かさに気づきます。そして自分が生かされているということが、何物にも代えがたい尊さと幸いであるとつくづく思います。
 従って、人間だれしも自分を生かされる神を知ろうと欲し、神を探求します。しかし、このような方法で真の神を知ることは不可能です。なぜなら、神は創造者であり、人間は神によって造られた被造物です。この区別は絶対に取り去ることはできないからです。 
 それゆえ、人間が神を知る唯一の方法は、神が「神として」、「人間」と深く関わり、人間が神の御前に生きるようにしてくださることを通して、「ご自身」を人間に知らされることです。
 初めに、神様は人間に対するご自身の恵み深い意志により、イスラエルの民を交わりの相手として「選び」、民が神を理解するように教え、導き、訓練を与えて来られました。このような神様のイニシャティブによって、「結ばれた関係」の中で、イスラエルの民は唯一の真の神を、「われらの父」と呼びました。しかし、神とのこの関係によって、イスラエルが神となることでは決してありません。彼らは、神の配慮と訓練の中で、神に従い、神の命令である律法を忠実に実行することによって、神の御前に生きること、これがイスラエルを選ばれた「神の目的」でした。
 この目的によって、神様はイスラエルの歴史の中で、預言者たちを召し、彼らを通して神の言葉を語られました。また神は預言者を神の代理と定め、イスラエルと全人類に対する神の支配を代行させられたのです。それゆえ、神はエレミヤに仰せになりました。
 「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、或いは建て、植えるために。」(エレミヤ1:9~10)
 それゆえ、唯一の主権者である神との人格的関係に入れられた預言者たちの特質は神に対する「従順」です。神はエレミヤに対して直接に御言葉を語り、「御言葉と共に聖霊」を与えられたので、エレミヤは神の言葉を自分の知性で理解し、人間の言葉で、神の意志と命令を語ることができました。
 いわば神様は「エレミヤの人格」をフィルターとして、人間の言葉で、神の言葉を語られました。言い換えれば、預言者に聖霊が働き、「聖霊による信仰」を持って、預言者は神の言葉を理解したのです。それは「信仰による認識」です。
 この点が偽預言者と違う特徴です。またキリスト教の初期には、聖霊によって、異言を語るクリスチャンが多くいました。彼らは聖霊によって、主イエスを告白し、神を賛美していたのでしょうが、その言葉は不明瞭で、何を言っているのか他の人には分かりませんでした。そこには信仰による認識がなかったからです。

(2)究極的な神の言葉
 イエスは父なる神を知り、ご自身の言葉で、父の意志を語り、行動されました。それは預言者のように、父に対する御子の従順をもって、語り、行動されたのです。罪人に対する神の赦しを語り、病人を癒されました。神はその時、イエスを通して働かれたことが、一目瞭然となり、現場で目撃した人たちは皆驚き、イエスはどういう方だろうかとイエスの人格の秘密の前に立たされたのです。
 しかし、躓きとなる点は、イエスが神の御子であり、真の神なのですが、人間となってこの世界に父の許から遣わされた方であることです。この世的な権威は一切持たず、富もなく、貧しく、日々の生活の苦しみを経験された方ですから、ユダヤ教の指導者たちは、イエスを信ぜず、安息日に病人を癒したことによって、神の律法を破った罪人であると断罪し、イエスを偽預言者と見なしました。
 しかし、イエスによって神から赦され、真の神を知らされたサマリアの女性はイエスに向って告白しました。
 「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」(4:19)
 このように、旧約聖書の信仰の伝統の中に生きている人たちは、イエスを先ず預言者と理解しました。
 しかし、良く知ればイエスと預言者たちの相違は明瞭です。預言者たちは、自分が神から知られていることを自覚していましたが、同時に自分は神を完全には知らないことも自覚していたのです。彼らの理想は自分が神から知られているように、神を知ることでした。
 それとは対照的に、イエスは神を完全に知っておられたのです。イエスはユダヤ教の指導者たちにこのように仰せられました。
 「わたしの父であって、あなたがたはその方を『我々の神だ』と言っている。あなたがたはその方を知らないが、わたしは知っている。」(8:54~55)
 さらに、イエスは自分が神の御子(独り子)であることを自覚しておられました。イエスの自覚はヨハネによる福音書の随所に見られます。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(6:57)「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(16:28)
 このようにイエスは正に神なのです。同時にイエスは父によって、人間の世界に遣わされた者として、正に人間なのです。
 その結果、イエスは父との直接的な交わりの中で、語り、行動されました。これはイエス以外のいかなる人間にもなかったことです。イエスの人格の秘密は、イエスが聖霊によって処女マリアから生まれ、人間としての知性と意志とを持たれたのですが、イエスの人格は誕生以前の永遠の御子の人格であるという点です。イエスはマリアから生まれられた最初のときから、御子としての知性、性質、意図、傾向がイエスの思いと行動を支配する推進力として働いていたのです。勿論、幼子イエスは成長と共に知性が発達し、成長に伴って、父なる神を知るようになられました。しかし、幼い時からすでに、御子の特質である「父に全く依存し、父に求め、父に従う」という御子の従順が「イエスの特質」だったのです。この特質により、イエスは父なる神を完全に知られたのです。
 しかし、イエスは預言者のように信仰的認識によって知られたのではないのです。イエスは信仰によって神を知っているとは一言も仰せになっていません。ここがイエスの人格の神秘です。「子としての従順」による認識です。イエスの場合は、「直接父を見る」ことによる認識です。これは正に人智を超えたイエスの人格の神秘です。
 「はっきり言っておく。父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父のなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」(5:19~20)
 御子としての特質により、イエスと父との関係は、永遠の関係である父・子・聖霊の「三位一体の神」の「現実」を示しています。
 この状況こそ、父が子を愛し、ご自身を子に与え、ご自身のすべてのことを子に示されることです。他方、子は父を愛し、父の栄光を求め、自分の栄光を求めず、父に従い、父の意志を実行されることでした。ここに父と子との愛の関係が働いています。言い換えれば、聖霊が子を愛する父の愛として、父から子に向かって移動し、他方父を愛する子の愛として、子から父に帰るのです。ここに父・子・聖霊の「三位一体の神」の存在と働きの「現実」があります。
 そこに働いている意志は父から出て、子の意志として働き、また父と子に全く従順であり、自らの栄光を求めず、御子の栄光を求める聖霊の意志と働きなのです。父と子と聖霊の中で、「一つの意志と一つの働き」があること、正にこれが一つの神である「所以」です。
 本日の聖書の箇所であるヨハネによる福音書14章10節で、イエスは次のように仰せになりました。
 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしが言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行なっておられるのである。」
 これは父と子の関係と交わりについての証しであり、父と子とは互いに相手の内に内住し、互いに相手を完全に知っていると、仰せになっているのです。つまり、イエスの言葉と行為、意思と性質は「そのまま」で、父の言葉と行為、意思と性質を現しているのです。それゆえイエスは仰せになりました。
 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(14:9)
 父なる神はイエスの他に人間が見ることのできない神です。これが神の「特性」です。その神がイエスにおいて、人間にご自身を「完全」に啓示されているのです。それゆえわたしたちは人間として知らなければならない「範囲内」において、イエスによって父なる神を「完全に知る」ことができるのです。
 さらに、人間に対する父なる神の創造的な意志は徹底的に父に従われたイエスの従順によって、実現しました。その結果、人間を神の御前に生かす永遠の命がイエスの中に働いたのです。否、イエス自身が「永遠の命」となられたのです。
 なおこの永遠の命は、イエスが、父の意志に徹底的に従い、ご自身を人間に与え、ご自身が代理となって、人類の罪のために死なれたことによって「完成」しました。「人間を神の御前に生かす」父の主権の目的は、人間の罪に対する裁きを通して執行され、裁きに対して徹底的に従順であったイエスの死において成就したのです。
 この現実をヨハネによる福音書はイエスにおいて真理が現れた、と言っています。「真理」とは神がご自身の性格と目的に一致した方法で、人間に対して行動されるときに現れます。神の主権がイエスの従順によって実現した結果、イエスが「人間の救い」となったのです。それゆえ、「イエスは恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)「イエスにおいて恵みと真理とが現れた。」(1:17)と聖書は証言しています。
 言い換えれば、神を知り、神に従う従順な「新しい人間」が、「イエスに」おいて創造されたのです。それゆえわたしたちは「主にあって」生きるのです。すなわちイエスの中にある「新しい人間」として、主イエスを「信じ」、主イエスに喜んで「従う」のです。さらにこのようにさせる方が聖霊です。

(3)わたしは道である
 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」(14:6)
 イエスは今や、十字架の死によって、人類の罪と神に敵対する闇の力に勝利し、人類を罪と闇の力から解放されました。その結果、神の主権を委任された復活の主イエスとして、わたしたちを支配し、導き、わたしたちを父のもとに連れ出されるのです。
 主イエスは御言葉によって、日毎にわたしたちと出会い、ご自身を示し、ご自身の命令を与えられます。同時に、わたしたちがイエスの命令を実行するために、わたしたちの中に働き、わたしたちを導いておられます。
 同時にイエスのこの働きを理解させるために、イエスは聖霊をわたしたちに授与されます。それゆえ聖霊の働きによって、わたしたちは喜んでイエスに従い、イエスの命令を実行するのです。
 その際、聖霊はイエスの命と愛をわたしたちの中に働かせられます。宗教改革者ルターは、神の愛アガペーは放物線のように、天上から地上に降り、クリスチャンの中に働き、クリスチャンが隣人愛を実行することによって、再び天上に帰る。このようにクリスチャンはアガペーの通る管、チャンネルであると言っています。この意味はクリスチャンに働く愛と命は、クリスチャンの所有物ではなく、イエスの中にある愛と命がクリスチャンの中に働くということです。このイエスの愛と命の働きは聖霊が主イエスからクリスチャンに降り、クリスチャンを通して再び主イエスに帰ることと表裏一体です。
 このように聖霊は主イエスの救いの働きを共有しておられます。聖霊はイエスの協力者であり、主イエスと「同じ性質」を持っておられます。
 最後に、主イエスが「わたしは道である」と仰せになりました。どういう意味でしょうか。永遠の御子イエスが地上で三十数年の有限の生涯を歩まれました。実に、その歩みにおいて人間が神の御前で永遠に生きることの実質が完成しているのです。主イエスの人生は有限でありましたが、無限の意味と永遠の命を秘めています。終わりの日に主イエスの再臨によりわたしたちが復活させられ、世界が変貌するとき、その実体が目に見える姿で現れます。それゆえ、主イエスがわたしたちの中に働き、わたしたちが主に従う有限の人生こそ、永遠の意味と無限の祝福を秘めています。 
 実に、この人生を歩ませるために、三位一体の神がそれぞれの仕方で関わり、わたしたちを永遠の神の国に導いておられるのです。



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