2014-02-23(Sun)

弱さを誇る 2014年2月23日の礼拝メッセージ

弱さを誇る
江田めぐみ伝道師


 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
詩篇46編2~11節


 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙二12章1~10節


 皆さんは、自分の弱いところ(弱点)を知っていますか。弱いところを持っていないという人はおりません。ですから、人間は誰でも弱さを持っているのです。特に強がりを見せる人がいますが、そのような人は、自分の弱さを見せないために、あえて、強がりを言ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 ただ今お読みいただいた、聖書のみ言葉の中に、パウロは、自分の中に二人の人を見ています。一人は、神の恵みによって人間界を越えた神秘の世界に引き上げられた自分であり、もう一人は、弱さを背負った本来の自分であります。
 前者のことを誇り、後者については弱さの面のみを誇るつもりだと言う。「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(Ⅱコリ11:30)
 パウロは自分に与えられた神の恵みと強さと力を誇るとしても、あくまで「自分の弱さの中で発揮されるもの」として、その側面から誇りたいと言うのです。従って、強調点は、彼の「弱さ」の面におかれることになります。

 パウロは、一つのとげを与えられていました。そのとげとは一体何でしょうか。それは、パウロがおかされていた「病気」でありました。彼の肉体の病気は、マラリア、てんかん、眼病などの説があります。このとげの正体については、様々な解釈がなされてきました。 これが与えられたのは、パウロが「おごり高ぶる事をしない」ためであり、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いでありました。いずれにしても、慢性的なもので、パウロの宣教の障害となっておりました。
 「この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らされました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、受け入れてくれました。」(ガラテヤ4:13-14)
 パウロは、自分の病気は、肉の弱さが福音宣教のきっかけになりましたが、同時に信徒たちのため試練の種になったことを自覚しているのです。病気ゆえにさげすまれたり、忌み嫌われたりするのではないかと案じていることも示しているのです。
 病気が有利に働いているということは、「わたしは弱い時にこそ強い」ということにつながっていると考えられます。

 「わたしの恵みはあなたがたに十分である。」とは、これがサタンの使いを離れさせて下さるよう三度も願ったパウロに対して、主がお与えになった答えでありました。
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ」(Ⅱコリ12:9)これは、弱いものに対する神さまの深い憐れみを示しています。

 「それゆえわたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:10)能力や財産がある時には、自分だけで神の働きをしたくなり、思い上がりにつながりかねないのです。しかし弱いとき、神の力で満たしていただくことによって、強くされるのです。
 神さまの力は、私たちの弱さのうちに現れるという事実は、わたしたちに勇気と希望を与えて下さるのです。この言葉によって多くの人が生かされ、力を与えられているのです。そしてこの言葉は、厳かな神さまの主権の宣言であるのです。「わたしはあなたの神である。自分の思いや誇りを捨ててわたしの愛の中に生きなさい」と言っているのです。
 主の力、すなわち主の恵みは、使徒の弱さの中でこそ発揮されるのであり、使徒の弱さが、主の恵みを働かせる場なのです。


 わたしたちは、自分の限界を認める時というように、神さまにより頼んでしまうことがあるのではないでしょうか。わたしたちの限界を認めることによって、神の強さを認めることになるのです。

 わたしたちは、人の前で、いい格好をしたがるものです。自分をよく見せたいと誰でも思うのです。けれども、格好をつければつける程、格好が悪いことはありません。ほとんどの場合、格好は見破られてしまいます。
 他の人に自分の弱さや欠点を隠さずに、自分自身で認めると、自分も他人も楽ですし、人から愛されるのではないでしょうか。ですから、神さまの前で格好をつけても、始まりません。神さまはすべてをご存知で、すべてをお見通しなのです。

 能力や財産がある時は、自分だけで神の働きをしたくなり、思いあがり、他の人々に持ち上げられたりすると、更に有頂天になってしまいます。けれども、弱い時、神の力で満たして頂くことによって、強くされるのです。
 わたしたちが生きているうちには、嬉しい事、楽しいことばかりではありません。時には苦しい事、辛い事、悲しい事があり、妨害やつまずきが起こるかもしれません。これらの障害がやって来た時は、神に頼らなければならないでしょう。
 「困ったときの神頼み」という言葉がありますが、窮地に追い込められると、誰でも口にするのは、「神さま、仏様……」などと、何にでもとりすがりたい人間の弱さをさらけ出して祈る姿があります。
 神はわたしたちの弱さを知っておられますから、わたしたちの思いや誇りを捨てて、神の愛の中に生きることなのです。すると神の力によって、わたしたちは永続する価値のある働きをすることができるようになるのです。

 詩篇46編11節では、「力を捨てよ、知れ、わたしの神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」とあります。「力を捨てよ、知れ、わたしの神」これは何と力強い言葉でしょう。そしてこれは、「わたしの恵みはあなたに十分である。(わたしの)力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ」と同じ意味です。どちらも神の主権の宣言であるのです。

 人間の力は、たかが知れているのです。そんなものは捨てて、主である神さまの力によって生きることです。独り子イエスを十字架につけてまで、わたしたちを救ってくださった神さまの愛の中に生きることです。「神により頼んで生きなさい」と、私たちを招いてくださっているのです。

 弱さを誇るということは、自分の弱さを認め、弱さの中にこそ働いて下さる神さまを信じ信頼して愛の中に喜んで生きることであります。弱い時、神さまの力で満たしていただくことによって、強くされるのです。そして、それを神さまは喜んで下さるのです。
 人生の中には、妨害やつまずきが起こることもあるでしょう。そんな時に、心から、神さまにすべてを委ねるのです。


 「キリストの力がわたしたちの内に宿るように」(Ⅱコリ12:9)とは、「宿る」ことは一時的にではありません。
 神の力は私たちの弱さの内に現れるという事実は、私たちに勇気と希望を与えられます。私たちは自分の限界を認める時、自分の努力や才能よりも神に依り頼るようになります。わたしたちは限界を認めることによって、神の強さを認めるからです。

 パウロは「弱さそのもの」「弱さとしての弱さ」にたよっているのではありません。キリストの力つまり恵みを働かせる場としての弱さに頼っているのです。それはキリストの力、キリストの恵みをよりどころとしているのです。
 パウロの弱さの中で働く、「キリストの力」に強められる限り、「パウロの強さ」はあるのです。

 ある先生が私に、「器は空っぽで無ければならない」と言いました。私たちは、神さまの恵みを盛る器なのです。自分という神さまの器を自分の思いや、自分の誇りでいっぱいにしていると、神さまの恵みを入れる余地がありません。満腹の時沢山のごちそうがあっても、食べられないようなものです。ですから、自分の思いや誇りでいっぱいにしている器を、神さまは色々なことで、空っぽにしてくださいます。そして、弱さを思い知らせてくれるのです。
 器を空っぽにする時は、自分の弱さを知り、それを素直に認め受け入れることです。神さまはその弱さの中に、恵みを満たしてくださり、神の力を現してくださいます。
 神さまは神の恵みを知らせるために、人間をあえて弱く作られたり、その弱さを思い知らされたりされるのです。弱さは恵みなのです。


 能力や財産がある時は、神さま等どこかへ行ってしまって、思い出すことがないかも知れませんが、ひょっとしたら、神にでもなったつもりで、思い上がりに繋がる行動をとることがあるかも知れません。しかし弱い時、神の力で満たして頂くことによって、強くされるのです。人が生きていくうちには、妨害やつまずきが何度も起こります。そのような時、妨害等をさけようとして、神により頼むことが起こります。神の力によって、わたしたちは永続する価値ある働きをすることができるようになるのです。

 人間は弱くても、欠点だらけでも、神さまが与えてくださった恵みが、そこにはあるのです。ですから、弱さを嘆いたり、隠したりすることはありません。それを受け入れることが大切ではないでしょうか。
 私たちの弱さの中に現れる神の力を信じて、自分にある誇りを捨てて、神の愛に応えていける者になりましょう。



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