2013-09-29(Sun)

心の戸を叩く主 2013年9月29日の礼拝メッセージ

心の戸を叩く主
中山弘隆牧師

 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは、葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
イザヤ書35章5~10節


 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」
ヨハネ黙示録3章14~22節

(1)黙示録の性格
 今朝はヨハネの黙示録から、御言葉を聞く者でありたいと思います。そこで、先ずヨハネの黙示録の性格について、あらかじめ知っておくことが必要であります。読めば分かりますように、ヨハネの黙示録が福音書や使徒たちの教えとは全く異なった性格の書物である、と言うことです。明らかに、旧約聖書のダニエル書や外典の中にあるエノク書などと共通する性格を持っていますので、「黙示文学」と呼ばれています。
 それゆえ、黙示文学の見方によれば、今の時代はサタンとその勢力がこの世界を支配しているが、神が直接に統治される新しい時代はもう間近に迫っているというのです。サタンの勢力が打ち破られ、死と罪から解放された永遠の国が今にも実現するというのです。そこで、試練の時代に信仰を堅持する者は永遠の国に入ることができるという励ましの書物なのです。
 しかし、ヨハネの黙示がいわゆる黙示文学とは根本的に相違している点があります。それは何かと申しますと次の点です。
 ヨハネの黙示録では十字架の死と復活によって、主イエス・キリストの支配が既に確立しているという点です。そしてキリストの支配のもとで、人類の歴史は神の国の完成へと向かって前進しているというのです。
   
(2)ラオディキアの教会
 ここに小アジア(ローマ帝国のアジア州)にある七つの教会の一つであるラオディキア教会に宛てられた手紙があります。
 「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くもなく冷たく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない」と言っているが、自分の惨め者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。』」(3:14~17)
 これは死人の中から復活された主イエス・キリストの御言葉です。言い換えれば、復活の主イエスが聖霊を通して語られた言葉です。
 「アーメンである方」とは「真実な方」という意味です。従いまして「誠実で真実な証人」とは「アーメンである方」の意味を説明しています。
 次に、主イエスが「神に創造された万物の源である方」と呼ばれています。「源」というギリシャ語はアルケーといいますが「起源」または「支配者」という二つの意味があります。起源と言う意味ではすべての被造物が「神の言葉」である神の「御子」を通して創造されたことを表しています。それゆえ御子・主イエスは万物の源なのです。また、「支配者」と言う意味では、復活の主イエスが罪と死に対する勝利者として、天上で「神の支配」の座に着いておられることを表しています。
 要するに、復活のイエスに対するこの短い言葉は、主イエスが万物に対する神の創造と救いの業を担う方であり、万物の支配者であることを言い表しています。
 この主イエスがラオディキアにある教会に、あなたがたは自分の信仰生活に満足しているが、霊的な面では非常に乏しい状態であることに気づいていないと厳しく警句しておられるのです。
 聖書註解書の説明では、当時ラオディキアの町は、黒い光沢のある羊毛の織物業が盛んであり、またフリギア・パウダーから造った目の塗り薬で有名であったそうです。さらに銀行業務の発達していた商業都市でありました。このためラオディキアの人々は自分たちが神様から祝福を受けているという高慢な考え方をしていたのでしょう。しかし、そのような自己満足は信仰の面からすれば虚偽であり、彼らの霊的な状態は非常に危険な兆候を示していました。
 復活の主は「わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」と厳しい警告をされています。
 生ぬるい水は吐き気を誘うように、生ぬるい信仰に主は我慢できないのです。「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」と言われるのです。
 これはどういうことでしょうか。信仰がマンネリ化して、生き生きとしていないと言うことではないでしょうか。信仰が実質的に働かず、居眠りをしているのに、自分は神を信じているので、神の祝福を受け、生活が安泰であると自己満足していることです。それは神の御心に従うことを一番の喜びとし、そのために真剣に努力する態度とは程遠い状態です。
 それは神の支配を真剣に受け取っていないからです。言い換えれば世の中が自分たち人間の制度や働きによって運営されていることに一番の信頼を置いている生き方です。
 クリスチャンが道徳的な面で神から教えられ、その実行を命じておられる事柄に対して熱心であっても、「自分の力と努力」によって、ほどほどに実行しているならば、次第に神との人格的な交じりが疎遠になり、霊的な事柄が理解できなくなってしまいます。
 そうなりますとクリスチャンは正しことを行なえば、神からこの世的な祝福を受けるというだけで生きていることになり、この世で努力している善良な人たちと何ら違わない者になってしまいます。
 ただ神様が存在し、万物を支配しておられることを信じ、人間には神様から為すべき道徳的な行為を教えられ、その実行を要求されるという「有神論的な信仰」で満足してしまいます。それは福音主義的な信仰ではありません。
 そこには神の働き、霊的現実、聖霊を通して働く主イエスの恵みが欠如したいわば「塩気のなくなった」塩と同じ状態になってしまいます。
 そういう状態からクリスチャンが目を覚まし、主イエスとの人格的な交わりの中にある霊的な命を受けて、真剣に主イエスに従う生活へと呼び戻そうとされているのです。
 そこで復活の主はこのように仰せになりました。
 「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」(3:18)
 この火で精錬された金とは、人間を本当の意味で豊かにするもの、「霊的な命と賜物」を意味します。迫害に耐え抜く「熱い信仰」を意味しています。このような霊的な命と熱い信仰はわたしたちが自分の力では持つことができないのですが、復活の主イエスはわたしたちにそれを与えてくださると約束し、主に求めなさいと勧められるのです。
 「わたしから買うがよい」とは、ただで買うという意味で、わたしたちが真剣に主に求めるならば、主は喜んでお与えになるのです。
 また、身に着ける白い衣とは、迫害に勝利した信仰者が永遠の国で身に着ける衣を表しています。ヨハネの黙示録はこの白い衣を「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血(イエスの十字架の血)で洗って白くした」と説明しています(7:14)。
 さらに復活の主イエスは、信仰者に訓練を与えられる恵み深い支配者であることを、ここで明らかにされました。これはクリスチャンにとりまして実に意義深い事柄です。
 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから熱心に務めよ。悔い改めよ。」(3:19)
 しかし注意すべきことに神は「生ぬるい信仰者」でも愛しておられると言うのです。それゆえ信仰者を鍛えようとしておられるのです。「だから熱心に求めよ。悔い改めよ。」と仰せになるのです。
 要するに試練において神はわたしたちの信仰を訓練し、信仰が生きて働くようにしてくださるのです。ヨハネの黙示録は、迫害の嵐にさらされている教会を勇気づけるために、どのような状況でも信仰を堅持することと悔い改めることを命じています。
 ところで「悔い改める」というと自分の罪を自覚し、神に懺悔し、罪の赦しを祈ることだと考えている人が多いと思います。それは確かに間違ってはいないのですが、それだけでは不十分です。
 ハイデルベルグの信仰問答では次の二点を強調しています。
 「問88 人間のまことの懺悔、悔い改めは、いくつのことから、成り立っていますか。
 答え 二つからです。古い人が死滅することと、新しい人が復活することです。」

 「問89 古い人が死滅するとは、何ですか。
 答え 心から罪を悔い、これから逃れようとすることです。」
 「問90 新しい人の復活とは、何ですか。
 答え キリストによって、心から神を喜び、神の御心に従って、あらゆる善い行いに生きることを、好み愛することです。」
 さらにこの二つのことは、クリスチャンが信仰の生涯を歩む限り絶えず繰り返す必要があります。言い換えればそれが「信仰の訓練」なのです。
 このようにして、わたしたちの信仰が強められ、わたしたちは聖化され、キリストの性質を映し出す者となって行きます。

(3)クリスチャンの中で働かれる主イエス
 最後に、復活の主は絶えずわたしたちの身近におられます。信仰の戦いの戦場の只中におられます。そして復活の主はわたしたちを外から包み、わたしたちの目を開かせようとしておられるのです。
 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(3:20)
 わたしたちの戸口に立って叩いておられるとは、わたしたちの中にはおられないけれども、主イエスはわたしたちと対面し、わたしたちの中に入るため、わたしたちが主に対して心を開き、主を心の中に迎え入れるように呼びかけておられるのです。
 この呼びかけを聞き、心の扉を開けるならば、復活の主イエスは聖霊を通して、わたしたちの中に入り、内住されます。そのとき主がわたしたちと共に食事をしてくださいます。これは比喩的な表現ですが、主イエスとの人格的な交わりにより、主イエスの義と命がわたしたちの心に豊かに供給されることを意味しています。
 さらに主イエスの考えと行動の仕方が、聖霊を通してわたしたちの心に直接刻み込まれるのです。石の板ではなく心の板に、単に文字ではなく、生ける主イエスの言葉と思いが伝達され、理解されるのです。そのとき、主イエスの思いがわたしたちの思いとなり、主イエスの命と自由がわたしたちの中に豊かに働きます。そのようにしてわたしたちの決断と行動とを通して、わたしたちは主イエスの御足の跡に従うことができるのです。
 言い換えれば、これはわたしたちの信仰の戦いと神に従う人生の中で主イエスご自身が働いておられると言うことです。クリスチャンの人生は「主イエスが共にいて下さり」(インマヌエル)、主イエスに担われる人生であるとよく言われます。
確かにそうなのですが、主イエスはクリスチャンの外におられて、手を差し伸べて、自分の肩にクリスチャンを載せて、歩まれるのではなく、クリスチャンの中で働いてくださるのです。
 これが「キリストにあって」歩むということです。新共同訳聖書ではこのことを「キリストと結ばれて」歩むと訳しています。ともかくこれが聖霊を通して与えられる主イエスとの人格的な交わりの中に生きるクリスチャンの生き方です。
 さらに「キリストにあって」とは「聖霊にあって」とも言われます。それはわたしたちの魂が主イエスの支配される霊的な領域に入れられる時、そこに充満している霊的生命をあたかも空気を吸い込むように魂が吸い込むという意味です。ヨハネの黙示録はこのことをクリスチャンが主イエスと共に食事をするという比喩で表しています。
 要するにわたしたちは聖霊を通して主イエスの命を受けるのです。聖霊を通して主イエスの思いがわたしたちの心に与えられるのです。これらのことにより、聖霊の働きは主イエスをわたしたちの中に内住させることであると言えます。
 実にこのことはキリスト教会がローマ帝国の激しい迫害に耐え、勝利した秘訣です。それ以前の時代では、聖霊についての理解は様々な霊的賜物に重点が置かれていました。しかしヨハネの黙示録時代になって、使徒以後の指導者が多く殉教しましたが、異言を語ることやその他の奇跡を行うことは「殉教の力」になりませんでした。 
 実に迫害に耐える力は聖霊によってクリスチャンの中に働く主イエスの義と命と自由であり、愛であり、道徳的な力でした。それが聖霊の働きとして理解されるようになったのです。
 このようにして、クリスチャンは試練を経て信仰の訓練を受け、福音の力を体験したのです。



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