2013-08-25(Sun)

聖霊による手紙 2013年8月25日の礼拝メッセージ

聖霊による手紙
中山弘隆牧師

 そして今、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。彼らは草の生い茂る中に芽生え、水のほとりの柳のように育つ。ある者は「わたしは主のもの」と言い、ある者はヤコブの名を名乗り、またある者は手に「主のもの」と記し、「イスラエル」をその名とする。
イザヤ書44章1~5節


 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
コリントの信徒への手紙二3章1~6節

(1)今年の年主題
 本日は「福音を証するわたしたち」という本年度の「標語」に沿って修養会を致します。礼拝の中で説教に先立ち、二人の姉妹の貴重な証を聞くことができ非常に感謝です。
 標語に掲げましたように、わたしたちが福音を証するには何をすべきでしょうか。実は最も必要なことが聖書に書かれています。それはクリスチャン一人一人が「キリストの手紙」となることです。 
 使徒パウロは次のように言っています。
 「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく、生ける神の霊によって、石の板でなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(コリント二、3:3)また2節では、その理由が説明されています。
 「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」(3:2)
 従って、2~3節は次のように解釈できます。つまり、クリスチャンはキリストから「キリストの手紙」として、日常生活の場に送り出され、普段接している人たちがあたかも「自分たち宛ての手紙」を読むように、身近にいるクリスチャンの言動や性格を見るにつけ、クリスチャンの中に働いておられるキリストに気づく場合、それが福音を証する重要な働きである、と言うのです。
 使徒パウロは、「あなたがたはキリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」と言っています。
 因みに、同じ福音に仕える者でありましても、使徒たちと牧師たちとではその職務が違っています。
 福音はキリストの地上の生涯と復活のキリストが人類の救い主となって働いておられる主キリストを告げる神の言葉です。使徒たちは自分でそれを見た目撃者であるだけでなく、その事実の意味を神から啓示された者でありますので、使徒職は神の啓示の中に不可欠な要素として組み込まれています。実に使徒たちが語り、教えたすべてのことを記録したものが新約聖書なのです。牧師は新約聖書に記された福音に仕える者であり、使徒たちは福音を最初に語った者なのです。それゆえ使徒職とは一代限りの職務であり、継承されることはありません。この違いを良く理解することは非常に重要です。
 要するに使徒たちが語ったキリストの福音により、キリストを信じて、キリストと結ばれた者たちがクリスチャンなのです。今日クリスチャンは皆キリストの手紙として、世界中に存在しています。
 
(2)キリストと出会うことの霊的現実
 次に、使徒パウロはコリント教会の信徒たちに向かって、コリントの信徒への手紙一、1章18節でこのように言っています。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 それでは、十字架の言葉の内容とは何でしょうか。
 それは神が罪人を愛し、神の御子キリストが人類を罪から贖うために、十字架の死において神は御子を与えられた。そのことにより、人間はだれでも罪を赦され、神との人格的な交わりに入れられ、新しく生きることができる、という神からのメッセージです。
 さらにその現実をパウロは次のように説明しています。
 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリント一、1:30)
 これはキリストが全知全能でしかも愛と義と真理に満ちておられる神を啓示する方であり、その神とわたしたちが人格的に交わるために必要な「わたしたち人間」の義と聖と贖いにキリストがなってくださっているのです。
 この事実がわたしたちとキリストの関係です。この最高に恵まれた関係は、しかし人が十字架の言葉を聞き、信じ、受け入れるときに与えられます。
 従いまして、このことを聖書は、「キリスト・イエス」と「結ばれる」と言います。「結ばれる」とは、ギリシャ語では「エン クリストー」と言いまが、それは信仰者が「キリストの中に存在している」と言う意味です。
 次にキリストと結ばれることを言い換えれば、それはキリストとの「人格的な交わり」を持つことです。このことによってクリスチャンは日々新たに生きるのです。
  それゆえわたしたちはキリストとの交わりの霊的現実を確信することが大切です。この霊的現実を信仰生活の根本とし、命の源泉としていることが不可欠です。

 それゆえ、キリストと結ばれている者に対して、キリストは日々出会ってくださいます。
 第一に、復活の生けるキリストは福音の御言葉を通して、わたしたちに出会い、福音の御言葉をご自身が語ってくださいます。
 確かに、キリストの地上における生涯は十字架の死によって終わりました。しかし、キリストの生涯は決してそれで終わったのではありません。死人の中から復活されたキリストの生涯は永遠に続いているのです。それゆえ、キリストは今や天地万物の主権者となり、神としての働きによって、御言葉を通して信仰者と日々出会ってくださいます。その際、キリストは地上におけるキリストと同一人格なのです。
 今は地上で過ごされた人間性は神としての働きの中で隠され、保存されていますので、復活のキリストが神であり、人間であることは絶対に変わらない事実です。
 弟子たちが復活のキリストに出会った時、その姿を見ただけではキリストであるとは分からなかったのですが、彼らに対面されたキリストの「生ける人格」に接したとき、この方はこれまで自分たちがよく知っているイエス・キリストであると悟りました。
 そのように御言葉をもってわたしたちと出会われる「キリストの人格に直面する」とき、キリストの恵みと義と真理とに満ちた人格に接して、わたしたちは神がいかなる方であるかを知るのです。
 同時に、キリストは「わたしのような性質になり、わたしの命令を実行しなさい。」と仰せになります。
 それゆえ、わたしたちは自分の中にある神に反する思いとこの世的な低い思いに捕らわれている自分に気づきますので、そしてキリストは罪に勝利する力を既にわたしたちに与えておられるので、罪の思いと低い思いをキリストの前で、取り去ることを決意し、実行するのです。
 さらに、キリストに直面して、キリストがご自身の義と聖と命と自由をわたしたちに既に与えておられるので、わたしたちはキリストに命じられる愛の業を実行することを決意し、実行のために遣わされる場に出て行くのです。
 この際、重要な点はわたしたちと対面されるキリストの御前でこのように決断し、実行することが、キリストと人格的に交わる実体なのです。

(3)信仰者の中で働かれるキリスト
 次に、キリストとの人格的な交わりは第二の局面を持っています。
 すなわち、復活のキリストが御言葉をもってわたしたちに直面されるときには、聖霊がわたしたちの心に与えられているのです。
その聖霊によって、わたしたちはキリストの思いと性質と働きを自分の心の中に受け、自分でも考え、理解し、これがキリストの欲せられることであると判断して、決断し、神の愛を実行します。

 言い換えれば、こういう仕方で、復活のキリストはクリスチャンの中で働いておられます。この局面もキリストと人格的な交わりを持っている実体なのです。
 このようにして、わたしたちはキリストの性質を映し出す者へと変えられて行きます。もちろん完全にキリストの性質に似る状態は地上の信仰生活の中では到達できませんが、絶えずキリストに似るように聖化されて行くのです。
 従いまして、キリストとの人格的な交わりは、目に見える世界を越えた霊的事実でありますので、人の目には見えません。それは神の働きの現実でありますから、人間の目には見えないのです。
 それにも拘らず、この現実を理解するのが信仰です。
 さらに人間を新しく生かす神の力ある命に溢れた現実ですので、わたしたちはそれを体験できます。

 従いまして、キリストとの人格的な交わりを信仰によって理解し、体験によって認識します。
 ここにクリスチャンに与えられた尽きせぬ喜び、感謝、平安があります。これこそどのような困難な状況の中でも絶対に変らない霊的祝福なのです。
 
 従いまして、キリストとの人格的な交わりは、聖書の御言葉を読むときと、また祈るときに与えられます。
 アメリカから日本に来た最初の三人の宣教師の一人であるサムエル・ブラウンは、小さいときから自分は宣教師になると思っていたそうです。それは信仰篤い母親の祈りによるものです。
 母のフィーベ・ブラウンは貧しい生活の中で、幾人かの子供たちを育てるために、多忙な毎日を過ごしていましたので、祈りによって、キリストと出会うことを唯一の力の源泉としていました。
 夕べの祈りを金持ちの所有する果樹園に入って祈ることを習慣にしていましたが、ある日その所有者の夫人に見つかり、果物を盗みに来たのではないかととがめられました。家に帰って、泣きながら直ちに詩を書いて、夫人に渡したのが一編讃美歌319番となっています。
 「煩わしき世を しばし逃れ、たそがれ静かに 一人祈らん。
 神より他には 聞く者なき 木陰にひれ伏し 罪に嘆く。
 受けし御恵みを 思い続け、 いよよ行く末の 幸を願わん。
 身に染みわたる この夕べの 妙なる景色を いかで忘れん。
 わが世の日陰の 消ゆる時も、御誓いのもとに かくてありなん。」
 この詩を読んだ夫人は、自分の行為を恥じて、それ以後、祈りのため果樹園を自由に使用するようにと言いました。
 また、サムエル・ブラウンは、苦学をしながら、大学を卒業し、しばらくは一家の生計を補うために、学校の先生をしていました。その後ニュークのユニオン神学で学び、神学博士の学位をとり、ある教会に招聘されて牧会しましたが、改革派の教会が東洋伝道の宣教師を募集しましたので、応募し、日本に派遣されることになりました。アフリカの喜望峰を回って、香港を経て、安政6年に神奈川に到着しました。ちょうど幕末の時期で、日本ではキリスト教の布教は禁止されていました。さらに当時、英語の分かる人は日本人の中には誰もいませんでした。
 そのためブラウンはキリスト教の開教を待つ間に、後から来る宣教師たちのために日本語の文法書や日本語の会話の手引書を書きました。また、彼が委員長になって日本語の新約聖書を出版する作業に着手しました。
 彼は「一人のブラウンが伝道するよりも十人のブラウンが伝道する方が良い」という基本的な考えを持っており、そのために日本人の中からキリスト教の指導者を養成するために尽力し、神学校を自分の家で開設しました。また、日本政府も近代国家を目指していた時代であり、そのため大学教育にも尽力しました。明治学院はブラウンの学校やその他の学校が合併して創設されたのです。
 ブラウンは日本で二十年余り伝道し、「文語訳」の「新約聖書」が完成しようとしている矢先に心臓の病気が悪化し、アメリカに帰国せざるを得ませんでした。その翌年70歳の生涯を閉じました。 
 日本を去るに際して残した言葉があります。それは「我に百の人生あらば、我はことごとくこれを日本に与えんと欲する。」です。
 キリストとの人格的な交わりを自分の人生の根底としている者は、キリストが「お前の人生はそこまで」と仰せになるとき、「はい分かりました」と言って死を受容する用意をしています。なぜならば、自分の存在はキリストの中に与えられているのですから、死によってキリストの中にしばらく憩うのです。そして終わりの日に与えられる復活の希望をもって地上の人生と別れるのです。
 それこそ、パウロが言っているように、「生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです。」(フィリピ1:21)
 最後に、キリストとの交わりの中で生きている者は、キリストの性質を映し出し、謙遜であり、人を嫌わず、人を赦し、人を尊敬し、愛の労苦を喜んで担い、また常に隠れた所を見ておられる神の前に忠実でありますので、道徳的で偽のない良心的な生き方を貫きます。
 そのようにクリスチャンがキリストの性質を映し出しながら生きるとき、自分の人生の意味を見いだそうとしている人は、そこに何かあるなあと感じるのです。そしてキリストがその人の中に働いておられるような気がして、自分の心をキリストに向けます。
 従いまして、福音の伝道は、クリスチャンに委ねられていますが、クリスチャンの果たす部分は極めて小さいのです。
 
キリストご自身が神から失われている人間を追い求め、探し出し、出会われるときに、そこにおいてクリスチャンの存在と性質が用いられるのです。


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