2012-12-30(Sun)
万事を益とされる神 2012年12月30日の礼拝メッセージ
万事を益とされる神
中山弘隆牧師
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。
詩編23篇1~6節
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
ローマの信徒への手紙8章28~30節
詩編23篇1~6節
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
ローマの信徒への手紙8章28~30節
(1)産みの苦しみ
わたしたちは先週、クリスマスの礼拝と祝会、およびクリスマスイブ礼拝守り、共に大きな喜びに満たされました。この一年を振り返りますと、主の支えと導きのもとで、信仰生活の歩みを共に進めてきました。今は教会にとりましても、一人一人の家庭や職場におきましても、困難な中で希望と忍耐をもって逞しく歩み抜くことがなによりも重要であると思います。
日本の社会も衆議院選挙によって、新内閣が発足しましたが、問題は山積しています。今の不景気をどのように克服するかという課題と、国際的な面で、近隣諸国と対立し、共存することを第一とせず、アメリカとの軍事同盟の深化によって、国家を守ろうとしている基本政策。それに加えて、福島の原発事故による放射能汚染で生活基盤を奪われた多くの人たちの苦しみが今なお続いているにもかかわらず、原子力発電を推進しようとしている新内閣の政策などの問題が出てきました。これは、経済界や電力会社の主張を優先させる新政権の傾向と、また日本社会には民族主義的で右翼的傾向が顕著になってきたことがその原因だと思われます。
ともかくいましばらくこのような傾向が続くと思われますので、その結果は良くなるか、それとも一層悪くなるかは今のところでは分かりませんが、日本社会は混乱と激動の時期に入ったことは確かです。
しかし、どのような失敗や挫折を経験しても、絶望せず忍耐し、謙遜にそこから学び、欠点を改めるならば、人は一層強くなり、挫折を乗り越えることができます。同時に自分の弱さを知り、自分の高慢を反省し、人を思いやる優しい心を持つことができるようになり、人間として一段と成長します。
それでは、聖書は苦しみをどのように見ているでしょうか。聖書は苦しみを無益なものとは見なさず、非常に積極的な意味を与えています。言うなれば、それを「産みの苦しみ」と見ています。
本日の聖書の箇所でありますローマの信徒への手紙8:22で、このように言っています。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」
平家物語に「サラソジュ(沙羅双樹)の花の色、盛者(じょうじゃ)必衰(ひっすい)の理(ことわり)を表す」とありますように、勢いの盛んな者も必ず衰えます。このように過ぎ去り、朽ち果てる運命にあるこの世界と自然界は、虚無に服しているのですが、しかし、聖書はそのような被造物全体が、朽ちないものへと変化し、栄光に輝くものとなるために、今は産みの苦しみをしているというのです。すなわち、21節で次にように言っています。
「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」
ここで神の子たちの栄光に輝く自由とは、人は誰でも主イエスを信じ、主イエスと結ばれることによって、神の養子とされます。そういう意味でクリスチャンは現在、神の子たちと呼ばれています。しかし神の子たちが「栄光」を受けるというのは、救が完成する終わりの日に、クリスチャンが「復活の主イエスの姿」に似る者へと「変貌する」ことを意味しています。
従いまして、神の救いが完成する永遠の暁には、すべての人間が神の子たちの栄光に入れられます。否、それだけでなく、被造物全体も永遠なる物へと変化し、輝きを発するようになるのです。
これは何と広く深く、スケールの大きい、遠大な視野に立った見方でありましょうか。これは聖書だけが持つことのできる見方です。
それゆえ、聖書はこの地上に起こる一切の事柄が「産みの苦しみである」と断言するのです。
まことに、この根拠は天地の創造者である神が、主イエスを通して示された神の愛の大きさにあります。実に、イエスを死人の中から復活させられたことの中で示された人類に対する神の愛がその根拠です。実に、神の無限の愛によって、クリスチャンのみならず、人間全体、さらに被造物全体が滅びの隷属から解放され、永遠に神を賛美するものへと変化するという希望が与えているのです。
なぜならば、神は万物を愛によって創造されました。神の創造の業はどれ一つ無駄になるはずはありません。それゆえ、神の救いは創造の目的の実現であるといえます。
日本の社会も衆議院選挙によって、新内閣が発足しましたが、問題は山積しています。今の不景気をどのように克服するかという課題と、国際的な面で、近隣諸国と対立し、共存することを第一とせず、アメリカとの軍事同盟の深化によって、国家を守ろうとしている基本政策。それに加えて、福島の原発事故による放射能汚染で生活基盤を奪われた多くの人たちの苦しみが今なお続いているにもかかわらず、原子力発電を推進しようとしている新内閣の政策などの問題が出てきました。これは、経済界や電力会社の主張を優先させる新政権の傾向と、また日本社会には民族主義的で右翼的傾向が顕著になってきたことがその原因だと思われます。
ともかくいましばらくこのような傾向が続くと思われますので、その結果は良くなるか、それとも一層悪くなるかは今のところでは分かりませんが、日本社会は混乱と激動の時期に入ったことは確かです。
しかし、どのような失敗や挫折を経験しても、絶望せず忍耐し、謙遜にそこから学び、欠点を改めるならば、人は一層強くなり、挫折を乗り越えることができます。同時に自分の弱さを知り、自分の高慢を反省し、人を思いやる優しい心を持つことができるようになり、人間として一段と成長します。
それでは、聖書は苦しみをどのように見ているでしょうか。聖書は苦しみを無益なものとは見なさず、非常に積極的な意味を与えています。言うなれば、それを「産みの苦しみ」と見ています。
本日の聖書の箇所でありますローマの信徒への手紙8:22で、このように言っています。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」
平家物語に「サラソジュ(沙羅双樹)の花の色、盛者(じょうじゃ)必衰(ひっすい)の理(ことわり)を表す」とありますように、勢いの盛んな者も必ず衰えます。このように過ぎ去り、朽ち果てる運命にあるこの世界と自然界は、虚無に服しているのですが、しかし、聖書はそのような被造物全体が、朽ちないものへと変化し、栄光に輝くものとなるために、今は産みの苦しみをしているというのです。すなわち、21節で次にように言っています。
「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」
ここで神の子たちの栄光に輝く自由とは、人は誰でも主イエスを信じ、主イエスと結ばれることによって、神の養子とされます。そういう意味でクリスチャンは現在、神の子たちと呼ばれています。しかし神の子たちが「栄光」を受けるというのは、救が完成する終わりの日に、クリスチャンが「復活の主イエスの姿」に似る者へと「変貌する」ことを意味しています。
従いまして、神の救いが完成する永遠の暁には、すべての人間が神の子たちの栄光に入れられます。否、それだけでなく、被造物全体も永遠なる物へと変化し、輝きを発するようになるのです。
これは何と広く深く、スケールの大きい、遠大な視野に立った見方でありましょうか。これは聖書だけが持つことのできる見方です。
それゆえ、聖書はこの地上に起こる一切の事柄が「産みの苦しみである」と断言するのです。
まことに、この根拠は天地の創造者である神が、主イエスを通して示された神の愛の大きさにあります。実に、イエスを死人の中から復活させられたことの中で示された人類に対する神の愛がその根拠です。実に、神の無限の愛によって、クリスチャンのみならず、人間全体、さらに被造物全体が滅びの隷属から解放され、永遠に神を賛美するものへと変化するという希望が与えているのです。
なぜならば、神は万物を愛によって創造されました。神の創造の業はどれ一つ無駄になるはずはありません。それゆえ、神の救いは創造の目的の実現であるといえます。
(2)クリスチャンの笑い
宗教改革者マルティン・ルターは悪魔の攻撃を受けて、悪戦苦闘している最中でも、クリスチャンは自由と快活さをもって明るく笑うことができると、言っています。それはクリスチャンが今働いておられる復活のキリストの代理人であるからだと、言うのです。
わたしたちは今なお闇の力に激しく襲われますが、それでもキリストの最終的な勝利をわたしたちの態度と言葉で表すならば、そのことによってわたしたちは復活のキリストを代表しているのだと、ルターは臆せず公言しています。
それゆえ、クリスチャンはお互いに出会い、共に神を賛美することによって、今ここでキリストの勝利を表しているのです。
主イエス・キリストは復活して、神の右に座しておられます。言い換えれば、今やいつでもどこでも神として臨在し、働いておられます。このキリストの最終的な勝利と笑いは、キリストにあるクリスチャンの霊的現実です。
それゆえ、クリスチャンはすでにこの地上で、天上における最終的な勝利の先取りとして、喜ぶことができます。
従いまして、わたしたちは共に愛し合い、共に喜び、共に笑い、共に歌おうではないかと、ルターは言うのです。
わたしたちは今なお闇の力に激しく襲われますが、それでもキリストの最終的な勝利をわたしたちの態度と言葉で表すならば、そのことによってわたしたちは復活のキリストを代表しているのだと、ルターは臆せず公言しています。
それゆえ、クリスチャンはお互いに出会い、共に神を賛美することによって、今ここでキリストの勝利を表しているのです。
主イエス・キリストは復活して、神の右に座しておられます。言い換えれば、今やいつでもどこでも神として臨在し、働いておられます。このキリストの最終的な勝利と笑いは、キリストにあるクリスチャンの霊的現実です。
それゆえ、クリスチャンはすでにこの地上で、天上における最終的な勝利の先取りとして、喜ぶことができます。
従いまして、わたしたちは共に愛し合い、共に喜び、共に笑い、共に歌おうではないかと、ルターは言うのです。
(3)神に知られている人生
次に、クリスチャンはこのようにキリストの最終的な勝利を確信しておりますので、万事が益となると確信することができます。
使徒パウロはローマの信徒への手紙8章28節で次のように言っています。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
実に、これが自分の人生に対するクリスチャン特有の見方です。
しかし、万事が益となるという意味は、決して万事が自分の思い通りになるというのではありません。なぜならば、自分でこれが一番良いと考えている事柄でも、もし視点を変えるならば、必ずしもそうとは言えないからです。従って、弱い愚かな自分の思い通りになることは決して益ではありません。
万事を益としてくださる方は、わたしたちの人生の究極目標を知っておられる神です。その神の目からすれば、万事が益となるように働くと、聖書は言います。
何事でも評価するためには、基準が必要です。それぞれの目標に適した基準を設定し、それらを果たすことによって、目的をどの程度実現したかを評価します。それゆえ、わたしたちの人生にはそのような基準が多くありますが、それらすべては一時的で、相対的なものであり、決して人生全体に関わるものではありません。
従って、生きている間だけではなく、死ぬことも含めた永遠の局面から見なければ、決して人生全体を評価することはできません。
正に神は、そのような目的と基準を主イエスにおいて、定めておられるのです。この事実を聖書は29、30節で証しています。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものとしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」
これはどういう事態でありましょうか。神は御計画に従って、先ず神の側からわたしたちに呼び掛けて下さるというのです。
未だわたしたちが神を知らないでいるときに、神はわたしたちを知っておられ、わたしたちを呼び出してくださいます。
その結果、わたしたちは教会の礼拝に出席し、聖書を読み、わたしたちの救いについて考えている中で、主イエスと出会い、信仰が与えられます。
生ける主と出会うということは、霊的な現実であり、そこに聖霊が働いているのです。従って主イエスに対する信仰は人間が信じることでありますが、同時に聖霊の働きなのです。人は聖霊によって信じさせられているのです。
ここで、神は信仰を通してわたしたちの罪を赦して、神との人格的な交わりに入れてくださいます。これは主イエスを信じる信仰によって、神との正しい関係に入れられることであり、信仰義認と呼ばれています。
次に、クリスチャンは信仰義認に基づいて、教会に連なって信仰生活を送り、だんだんと主イエスの性質を映し出す者へと変えられていきます。
それは御言葉を聞き、御言葉を実践することによって、聖霊が働き、御言葉を自分に対する神の命令として理解させ、御言葉を実践する力と命を与えるのです。
その際、聖霊は主イエスの命をクリスチャンの中に注ぎます。そのことによって、クリスチャンは主イエスが地上の人生で父なる神に従われた足跡をクリスチャンも辿って行くことができます。
そのようにして、クリスチャンは神の子としての実質を持つようになるのですが、あくまでもそれは部分的であり、未完成です。それにも拘らず、神の救いが完成するときに、主イエスの性質に似る者へと変貌するのです。この希望と確信もまた聖霊を通してクリスチャンに与えられています。
クリスチャンは信仰を通して、聖霊を通して、主イエスの命を与えられています。それゆえ、神の救いを今既に受け、救いを体験しています。しかし、神の救いの完成はこの世界の終わりの時です。それゆえ救いの完成はまだ到来ていません。従ってクリスチャンは「既に」と「未だ」との緊張関係のなかで信仰生活を送っています。
この「既に」と「未だ」とが交差する中で、わたしたち信仰者が主イエスに導かれ、従い、主イエスが通って行かれた道を歩むならば、わたしたちの人生の中に起こるさまざまの事柄は万事益となります。しかし、ここで留意すべき点は二つあります。
一つの点は主イエスに従うか、それともこの世の考え方や生き方に従うかの二者択一をその都度迫られ、主イエスに従うことを選び取って行く決断と行為が必要なのです。
地上で生活する限り、つねに主イエスの思いと行動とは異なるものを選ぶ誘惑と危険性にクリスチャンはさらされています。それゆえ、絶えず祈り、神の御心を尋ね求め、御声を聞き分け、御声に聞き従うことが特に必要です。
次の点は、主イエスの歩まれた道は、古代世界のガリラヤ及びエルサレムで過ごされた生涯です。
これはただ一度限りで繰り返すことのできない生涯ですが、その生涯において主イエスは父なる神に完全に従われたので、人類の救いと永遠の命を達成されました。
従いまして、古代とは全く異なる条件や環境の中でクリスチャンは主イエスの歩まれた足跡に従うことが必要です。
そのためにどうすればよいかと言いますと、イエスが地上で過ごされた一回限りの特別の生涯の中に絶対に変わらない、過ぎ去らない永遠の意味があることを思い、そこから学ぶことが必要です。そしてそれを現在の状況に応用することが必要なのです。
そのために復活の主イエスはわたしたちを教え、導かれるのです。復活の主イエスは現代世界において、わたしたちが直面している課題の中で働いておられます。
復活の主イエスの御言葉を聞き分け、従うことにより、主イエスの足跡にわたしたちが続き、主イエスが体験し、実現してくださったことをわたしたちが現代の状況において追体験できるのです。
使徒パウロはローマの信徒への手紙8章28節で次のように言っています。
「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
実に、これが自分の人生に対するクリスチャン特有の見方です。
しかし、万事が益となるという意味は、決して万事が自分の思い通りになるというのではありません。なぜならば、自分でこれが一番良いと考えている事柄でも、もし視点を変えるならば、必ずしもそうとは言えないからです。従って、弱い愚かな自分の思い通りになることは決して益ではありません。
万事を益としてくださる方は、わたしたちの人生の究極目標を知っておられる神です。その神の目からすれば、万事が益となるように働くと、聖書は言います。
何事でも評価するためには、基準が必要です。それぞれの目標に適した基準を設定し、それらを果たすことによって、目的をどの程度実現したかを評価します。それゆえ、わたしたちの人生にはそのような基準が多くありますが、それらすべては一時的で、相対的なものであり、決して人生全体に関わるものではありません。
従って、生きている間だけではなく、死ぬことも含めた永遠の局面から見なければ、決して人生全体を評価することはできません。
正に神は、そのような目的と基準を主イエスにおいて、定めておられるのです。この事実を聖書は29、30節で証しています。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものとしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」
これはどういう事態でありましょうか。神は御計画に従って、先ず神の側からわたしたちに呼び掛けて下さるというのです。
未だわたしたちが神を知らないでいるときに、神はわたしたちを知っておられ、わたしたちを呼び出してくださいます。
その結果、わたしたちは教会の礼拝に出席し、聖書を読み、わたしたちの救いについて考えている中で、主イエスと出会い、信仰が与えられます。
生ける主と出会うということは、霊的な現実であり、そこに聖霊が働いているのです。従って主イエスに対する信仰は人間が信じることでありますが、同時に聖霊の働きなのです。人は聖霊によって信じさせられているのです。
ここで、神は信仰を通してわたしたちの罪を赦して、神との人格的な交わりに入れてくださいます。これは主イエスを信じる信仰によって、神との正しい関係に入れられることであり、信仰義認と呼ばれています。
次に、クリスチャンは信仰義認に基づいて、教会に連なって信仰生活を送り、だんだんと主イエスの性質を映し出す者へと変えられていきます。
それは御言葉を聞き、御言葉を実践することによって、聖霊が働き、御言葉を自分に対する神の命令として理解させ、御言葉を実践する力と命を与えるのです。
その際、聖霊は主イエスの命をクリスチャンの中に注ぎます。そのことによって、クリスチャンは主イエスが地上の人生で父なる神に従われた足跡をクリスチャンも辿って行くことができます。
そのようにして、クリスチャンは神の子としての実質を持つようになるのですが、あくまでもそれは部分的であり、未完成です。それにも拘らず、神の救いが完成するときに、主イエスの性質に似る者へと変貌するのです。この希望と確信もまた聖霊を通してクリスチャンに与えられています。
クリスチャンは信仰を通して、聖霊を通して、主イエスの命を与えられています。それゆえ、神の救いを今既に受け、救いを体験しています。しかし、神の救いの完成はこの世界の終わりの時です。それゆえ救いの完成はまだ到来ていません。従ってクリスチャンは「既に」と「未だ」との緊張関係のなかで信仰生活を送っています。
この「既に」と「未だ」とが交差する中で、わたしたち信仰者が主イエスに導かれ、従い、主イエスが通って行かれた道を歩むならば、わたしたちの人生の中に起こるさまざまの事柄は万事益となります。しかし、ここで留意すべき点は二つあります。
一つの点は主イエスに従うか、それともこの世の考え方や生き方に従うかの二者択一をその都度迫られ、主イエスに従うことを選び取って行く決断と行為が必要なのです。
地上で生活する限り、つねに主イエスの思いと行動とは異なるものを選ぶ誘惑と危険性にクリスチャンはさらされています。それゆえ、絶えず祈り、神の御心を尋ね求め、御声を聞き分け、御声に聞き従うことが特に必要です。
次の点は、主イエスの歩まれた道は、古代世界のガリラヤ及びエルサレムで過ごされた生涯です。
これはただ一度限りで繰り返すことのできない生涯ですが、その生涯において主イエスは父なる神に完全に従われたので、人類の救いと永遠の命を達成されました。
従いまして、古代とは全く異なる条件や環境の中でクリスチャンは主イエスの歩まれた足跡に従うことが必要です。
そのためにどうすればよいかと言いますと、イエスが地上で過ごされた一回限りの特別の生涯の中に絶対に変わらない、過ぎ去らない永遠の意味があることを思い、そこから学ぶことが必要です。そしてそれを現在の状況に応用することが必要なのです。
そのために復活の主イエスはわたしたちを教え、導かれるのです。復活の主イエスは現代世界において、わたしたちが直面している課題の中で働いておられます。
復活の主イエスの御言葉を聞き分け、従うことにより、主イエスの足跡にわたしたちが続き、主イエスが体験し、実現してくださったことをわたしたちが現代の状況において追体験できるのです。
(4)神の愛の中に生きる
最後に神様が知っておられるわたしたちの人生を歩み、万事が益となるという根拠は主イエスにおいて示された神の愛です。
神様はわたしたち罪人を救うために御子を与えられました。この事実の中で、働いている神の愛からわたしたちはどんなことがあっても最早、切り離されることはありません。
それゆえ、わたしたちは最早自分自身のために生きるのでなく、キリストのために生き、キリストの御言葉を聞き、キリストに従うことによって、神の恵みを賛美することがわたしたちの永遠の生き方であると確信するのです。
神様はわたしたち罪人を救うために御子を与えられました。この事実の中で、働いている神の愛からわたしたちはどんなことがあっても最早、切り離されることはありません。
それゆえ、わたしたちは最早自分自身のために生きるのでなく、キリストのために生き、キリストの御言葉を聞き、キリストに従うことによって、神の恵みを賛美することがわたしたちの永遠の生き方であると確信するのです。
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