2012-11-25(Sun)

キリストにある新しい創造 2012年11月25日の礼拝メッセージ

キリストにある新しい創造
江田めぐみ伝道師

 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。
イザヤ書43章18~19節


 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
コリントの信徒への手紙二5章14~21節



 この地上の生活においては、私たちは色々な苦難の中に立たされます。しかしこの現在の苦難は、やがて永遠の栄光へと続いていくのです。こうした知識を、パウロは神からの啓示として与えられていたのでした。

 パウロがどうして神と人に自分をささげ尽くすことができたか、ということは「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」と「キリストの愛がわたしたちをしっかりと捉えている」(Ⅱコリ5・14)。とパウロは語っております。キリストの愛は、わたしたちに対するキリストの愛を指すのであります。この愛に駆りたてられるとき、キリストの愛につき動かされて、常識を超える行動に出ることになるのです。ある注解書は、これが13節の「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし」という句の意味であると記しております。すなわち、パウロはキリストの愛をキリストの死の出来事から読み取っているのです。
では、その目的は、「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」ことなのですと、パウロは、キリストの復活に言及しています。(Ⅱコリ5・15)
15節にあるとおり、「キリストの死」は、わたしたちが「自分自身に死んで、キリストに生きる」ことを可能にしたのである。イエスの死がすべての人のための死であった事実は、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ロマ14・7-8)と記されております。

 パウロは、キリストの死と復活に、私たち信仰者の死と復活を重ね合わせているのです。神から死に定められるべき私たちは、すでにキリストの死とともに葬られてしまっています。そしてキリストの復活とともに、新しい生を与えられているのです。
 パウロは愛を、キリストの死の出来事から具体的に読み取っているのであるとは、イエス・キリストの十字架上の贖罪の死のことであるのです。新約聖書の救済論の中心は、キリストの身代わりの贖罪であるのです。パウロの教えの中心もまたそれであり、キリストの死が、すべての人のためとは、罪のために死ぬべきすべての人間の身代わりの死であったということであるのです。従って、キリストが身代わりに死んでくださって、罪の刑罰をも身代わりに受けてくださり、わたしたちの罪の刑罰は、キリストによって取り除かれたのであるのです。キリストがこのように私たちのために死なれたことは、キリストがわたしたちを深く愛してくださったかということであり、キリストがわたしたちのために死んでくださった以上、私たちはもはや自分自身のために生きるべきではなく、私たちのために死んでよみがえられたキリストのために生きるべきであるのです。
 よみがえりのない死は、希望のない敗北に終わってしまいます。救い主は死からよみがえられ、死に対して勝利を得られて、はじめて罪を贖う力を持っておられることが示されるからであるのです。
 イエスの十字架は、パウロとすべての人々との交わりを新たにします。パウロは、人々の肉の姿に関心を抱くだけでなく、人間が自分の自然の仕方と力に従って造りうる一切のことに心を向けました。肉の尺度で、パウロは人々を評価しました。それに従って、人々を誉め、けなし、愛し、憎くみました。しかし、キリストにあって神が、イエスの十字架に目を開かせ、パウロ自身イエス・キリストがわたしのために、またすべての人のために、死んでくださったことを知り、イエスの十字架において変えられた時、パウロが、肉に従ってイエスを見ないという変化がおこりました。こうした変化が、わたしたちにも必要ではないでしょうか。それとともに、他の人をも、そのような肉の姿で見ないことが重要になります。肉で測っているうちは、わたしたちの中に優劣があり、争いがあり、上下があります。しかし、霊で測っていれば、それらは消えてしまいます。肉とは、自分中心の、自己にとらわれたものの見方にほかなりません。霊とは、それに反して、自己を離れ、神を中心にものを見る見方です。それは新しい創造です。
 人類がその昔、神によって無から創造されたように、今キリストによって、わたしたちは無から創造されます。それはかつての創造に対して、新しい創造と呼ばれます。「救済」と言うことは、「新しい無からの創造」にほかなりません。家で言えば、全部根本から新しくする、新築です。

 アブラハムは、百歳になって、自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながら、希望もなかった時、この新創造を信じました。「無から有を生み出す神」を信じていたからです。信仰義認とは、神がこの罪人から、新しい人を造りだしてくださる新創造、死人の中からのよみがえりにほかなりません。(ロマ4章)ここでのアブラハムは、神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。

パウロの行動の動機は、いつもキリストであり、キリストなしに彼の生はありえなかったのです。キリストの愛に押し出されて、パウロの行動が起こってきているのであるのです。このキリストの愛は、パウロがキリストを愛した愛のことではなく、キリストが彼のために命を捨ててくださった贖罪の愛であるのです。この愛をひしひしと感じた時、彼は人を救うこの愛の福音を、人々に宣べ伝えずにはいられなくなったのです。
それは、コリント信徒への手紙Ⅰ―9・16に、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸です。」と、パウロのひたむきな奉仕の原動力はこのキリストの愛にあったのであり、それは神のため、また同時にあなたがたのため、つまりコリント教会の兄弟姉妹のためであった。パウロは16節以下で、コリント教会の人々がまさに「人間的な尺度」の状態にあって、主の教会にあるまじき混乱が起こっているのであるが、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と宣言する。
では、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリ5・17)パウロはキリストと共に死に、よみがえった以上、今後、人間的な標準で人を知ろうとはしないばかりでなく、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者となるのだと言っております。これはキリストの贖罪にあずかった者の神の御前における立場を表しております。キリスト者の立場は、「キリストにある」者として見なされ、扱われます。キリストのもろもろの祝福にあずかることができるのであり、キリストの死とよみがえりにあずかることができるのも、そのためであるのです。「キリストにある」者は、キリストと結び付けられているからであるのです。
「キリストにある者」が、どうして新しく造られた者と呼ばれるのかと言うと、キリストの贖罪こそ、神の創造における永遠の目的の成就にほかならないからであるからです。パウロは、救いのことを「キリスト・イエスにおいて造られた」(エフェソ2・10)のだと言っています。

 最初の創造において、すべてのものは神のことばによって存在させられたが、新しい創造においても、「ことば」である御子によって、神はすべてのものを新しくされました。罪のゆるしも、神の子とされることも、わたしたちの救いにおいては何一つとして私たち自身のものではなく、神からでているのです。
「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリ5・18)

 わたしたちは、生まれながらにして罪人です。神に敵対している者である。ですから、この神の敵対関係において、和解しなければ、ならない責任は、わたしたち人間にあるのです。けれども神は、神自ら和解してくださいました。ですから、和解の力を持っているのは、神ご自身にほかならないのです。従って、神は愛と義の要求を、御子イエス・キリストの十字架上の死によって、全うされたのです。これは、神が、キリストによって、私たちをご自分と和解させられたのである。これこそ人を救う福音なのである。
 パウロは次にもう一度言い替えています。「神は、キリストにあって世を彼自身と和解させ」(Ⅱコリ5・19)と言って、神の回復の御業が、人間だけでなく、神が創造された世界全体に及ぶことに言及しております。

和解の務めを与えられた者のことを、キリストの使者であると言う。キリストの使者は、キリストに代わって遣わされた者であり、キリストからゆだねられた使命を持つ。キリストの使者は、自分自身の意志を語るのではなく、キリストの代弁者として語るのです。神の和解を受け入れなさいと勧めるパウロのことばの中には、キリストの切なる願望があるのです。それはまた神がわたしたちを通して願望しておられることにほかならないのです。
キリスト者は、だれでもみな和解のことばをゆだねられたキリストの使者であり、すべての人々にこの和解の福音を宣べ伝える責任があるのです。


 義認とは、義とすること(Ⅱコリ5・21)、義を作りだすことにほかなりません。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリ5・17-18)それは、キリストはすべての人がキリストのため、またキリストにあって他者のためにいきるようになるためにほかなりません。すなわちそれは、和解であるとパウロは言っています。神はキリストにあって、世をご自分と和解させ、人々の罪科を数えることをしないで、わたしたちに和解の言葉をゆだねてくださいました。
和解の必要は人間の側にあったのだから、この神の和解は、神の憐み以外の何ものでもないのです。そしてこれこそ人を救う福音なのであります。神は、わたしたちをご自分と和解されたばかりでなく、また和解の務めを私たちに与えてくださったのです。
救いとは人間が神ともう一度真の交わりを結ぶことによって、他の人間や世界と失われた関係を再び取り戻すことにほかなりません。従って個人だけが選ばれた者だけが救われるということはありえません。すべての人々と全世界が救われ、その本質が根本的に改められ、すべてのものが生まれ変わらなければ、十字架に表わされる、この世の苦しみと悲劇は、絶対に終わりには達しないでしょう。つまり、宇宙のすべてのものが全面的に変容し、神の国のものとならなければ、私自身にも救いはないでしょう。


「神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちの罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリ5・20-21)
「神と和解せよ」とある「和解」と言う言葉は、日常生活で使われているのではないかと考えると、この和解は、もっぱら裁判や契約関係の中で使われる言葉であるのです。わたしたちがさまざまな人と人とのつながりの中で本当は和解しなければならない関係がどんなに多いことか。私たちはそういう現実を直視していないだけであるのです。
主イエスは主の祈りにおいて、私たちが人の負い目を赦し、神に赦しを求めて生きるとき初めて神の前に生きることができることを教えられているのです。主イエスは人との和解が神との和解に深く関係していることを教えて下さっているのです。人との和解と神との和解は、最終的には神と和解することの中に包摂されているということができるのです。
パウロは自己弁護としての弁明ではなく、神がキリストを通してすべての人に神との和解が成し遂げられていることを宣言し、その和解にあずかるように勧告し、その和解のために共に使える者となるようコリント教会の人々に呼びかけているのです。

私たちキリストに結ばれている者はすでに完全な愛によって達成された完全な和解の中に生かされているゆえに、いまだ真の和解を知らず、神との和解を受け入れることのできない人々に和解の使者となることが求められているのです。

パウロは今、キリストのための使者です。キリストは神のかたちであられたのに、神と等しくあることを願わず、自分を空しくして、僕となり、死に至るまで、十字架の死に至るまで従いました。その内容は和解です。和解の使者は謙虚でなければなりません。
パウロはここで、自分が神と和解しなさいとは言いません。敵意をいだいているのは、神ではありません。あなた自身です。神は決して誰にも敵意をいだきません。あなたが神の和解を受け入れるのを待っています。わたしたちは受け身です。キリストは低くなって十字架にかかり、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。こうしてあなたがたの和解を受け入れるのを待っていらっしゃるのです。

神は、わたしたちの罪のために、罪を知らない方を罪としました。それはわたしたちが、このお方によって、神の義となるためです。
神はイエスを罪人としたのです。仮にそう認めたのではありません。罪を知らない方を罪人とされたのです。さらにそれに応じて、神は、わたしたちを義としたのです。イエスにあって、イエスの死が、その本質、全体の存在を握っています。わたしたちの場合も、義は神からの特別な贈り物として、わたしたちそのものを、義としてくださるのです。義とは到底言えない罪人を義とするために、神は罪人でないお方を罪人とされました。このことからわたしたちは、外の人をも新しく見ることができるようになりました。神は、それほどまでに、わたしたちを愛してくださいました。神の無限の愛を、この罪のないお方の罪人としての死の中に見ることができるのです。これこそ生ける神の業にほかなりません。



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