2012-06-24(Sun)

天のエルサレム 2012年6月24日の礼拝メッセージ

天のエルサレム
中山弘隆牧師

 終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた。どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む。その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を、残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに、主が彼らの上に王となられる。
ミカ書4章1~7節


 あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
ヘブライ人への手紙12章18~29節


(1)希望の根拠
 わたしたちが主イエス・キリストの救いによって、終わりの時に天国に入るという希望と確信の根拠は、わたしたちの単なる夢と願望ではなく、それは今わたしたちを生かしている主イエスにおける神の事実によるものです。主イエスの存在と働きが、神と人間とを結び、天国と地上をと結んでいるからです。
クリスチャンは主イエスを信じることにより、主イエスとの人格的な交わりを与えられていますので、地上において、主イエスの命を受け、神の意志に従う生活を始めています。
この根本的に新しい生活は天国における生活の先取りであります。従いまして、天国は地上における信仰生活の線上にあるのです。クリスチャンはことを知って、地上での自分たちの人生を天国に向かって進んでいく旅路として理解しています。

従いまして、自分の人生の終局が死ではなく、神と共に生きる永遠の世界に入ることであるという実に壮大な希望は、復活のキリストとの人格的な交わりにおいて、地上の生活の中で、今既に永遠の世界につながった生き方をすることに基づいているのです。
天国であります永遠の世界は、霊的で人間の目には見えないのですが、それは最も真実な存在であり、目に見える世界の中に、主イエスを通して働いており、この世界の目的となっているのです。

(2)シナイ山と天の都シオンとの対比
 ヘブライ人への手紙は、天国に至る道が救い主イエス・キリストの到来によって初めて開通したと言っています。
言い換えますと、モーセを通してシナイ山で与えられた律法による古い契約の時代と、イエス・キリストを仲保者として結ばれた新しい契約の時代を対比しています。
12章の18~21節は、シナイ山で律法が授与された出来事を思い起こさせる記述です。また、申命記はそのときの恐ろしい光景を次のように伝えています。
「そこであなたたちが近づいて、山の麓に立つと、山は燃え上がり、火は中天に達し、黒雲と密雲が垂れ込めていた。主は火の中からあなたたちに語りかけられた。」(申命記4:11~12)
「しかし今、どうしてなお死の危険に身をさらせましょうか。この大きな火が我々を焼き尽くそうとしています。これ以上、我々の神、主の御声を聞くならば、死んでしまいます。--どうか、あなたが我々の神、主の御もとに行って、その言われることをすべて聞いてください。そして、我々の神、主があなたに告げられることをすべて我々に語ってください。われわれは、それを聞いて実行します。」(申命記5:25)
ここでシナイ山において律法が授与されたことについて、三つの点が強調されています。
第一は神の恐るべき威厳であります。神の戒めに背く者を打ち砕く神の審判を強調しています。第二は神が人間を超越した方であり、人間が神に直接接近する道は閉ざされています。第三は神への徹底的な恐怖の念です。人々は恐れおののき、恐怖のあまり、神を見上げることができず、御声を聞くこともできませんでした。
それに対して、ヘブライ人への手紙は実に感銘深い文章でシオンの山について語っています。22~24節は18~21節までとは全く違った内容です。それはクリスチャンに与えられた新しい契約と、神との新しい関係です。そして、クリスチャンの前に開かれた栄光が記されています。

(3)大祭司キリスト
第一に、それは新しいエルサレムです。天にあるエルサレムと新しく創造された世界がクリスチャンに対して既に開かれていると、聖書は約束しています。
古い都エルサレムは手で触れることのできる都ですが、それゆえ一時的なものであり、過ぎ去るべきものです。
さらに、エルサレム神殿による罪の贖いは、祭儀的な面での人々の穢れを清めるのに有効でしたが、道徳的な罪を贖うものではなかったのです。
祭司が献げる動物の犠牲によっては、礼拝者の良心が清められ、魂の平安を得ることは不可能でした。かえって人は自分の道徳的な面での罪を自覚するようになり、神に対する恐怖心が増したのです。

それに対して、新しい天の都エルサレムは目で見ることはできませんが、霊的なものであり、真実に存在するものです。古いものは恐怖を抱かせました。それに対して、新しいものは確信をもって近づくことができます。
なぜなら、古い契約の祭司制度が廃止され、神の御子イエス・キリストの血による罪の贖いは歴史の中で起こった一度限りの贖いですが、それは永遠に効力を持つ贖いとして、新しい契約における礼拝の中心になったからです。
すなわち、十字架の死において、人類の罪の贖いをされた主イエス・キリストは復活して、神の御前に立ち、人類の罪の執り成しをされる大祭司として、天の都エルサレムの中心におられるからです。
従って、天の都の神殿は、エルサレムの神殿のように人の手によって造られたものではなく、父なる神の御前に出られた主イエス・キリストご自身なのです。
それゆえ、ヘブライ人への手紙は次にように言っています。
「あなたがたが近づいたのは、----新しい契約の仲保者イエス、そしてアベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(12:24)
兄弟アベルを殺したカインはアベルの血を流したことの罪を負わなければならなかったと言う意味で、アベルの血は神に対してカインの罪を語っていると言えるのです。しかし、神の御子イエスの血は、それとは全く比較することはできません。アベル以上に完全に正しく、全く罪のなかった神の御子イエスが、人類を愛して、人類を罪から救うために、罪の贖いとしてご自身を犠牲にされた神の御子イエスの血は、人類の罪を贖うのに有効なのです。しかも永遠に有効なのです。
それゆえ、天の都エルサレムとは主イエス・キリストが都の中心に立ちっておられ、主イエス・キリストを通して真実の礼拝が行われる場所なのです。
さらに、この霊的な目に見えない永遠の世界は、すでに目に見える世界を覆い包み込んでいます。それゆえ、わたしたちはこの地上の生活の中で、永遠の世界に入り、神の御前に立っておられる主イエス・キリストによって、聖霊を通して、父なる神を礼拝することができるのです。
そのとき、父なる神と出会い、祈り、父なる神の御心を知り、神に従い、神の命令を実行するために自分を献げるのです。そうすることによって、主イエスの命がわたしたちの中に働き、また聖霊によって神の愛がわたしたちの中に働きますので、神の御心を実行することができるのです。
これは地上におけるキリスト教会の礼拝でありながら、同時に天の都エルサレムにおける礼拝なのです。

イエス・キリストは「メルキゼデク」(正しい王)のような大祭司であると呼ばれています。それゆえ天上のエルサレムの祭司であると同時に、王であり、主であります。
そのような方として、信仰の創始者また完成者であり、信仰の導き手です。わたしたちが父なる神を信じ、父なる神の御心を実行することができるようにしてくださる方です。
そして、わたしたちが父なる神の御前に至るために歩まなければならない唯一の道となってくださっている方です。従って主イエスは次にように仰せになりました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)
実に、「主イエスという道」を通って行くことによって、わたしたちが目に見える世界の中で具体的に祈り、考え、理解し、決断し、実行し、努力している内実は、実は目に見えない世界の実を結びつつあることなのです。そのようにして天の都に向かって歩むのです。

第二は、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会です。
これはクリスチャンに与えられるために、天に用意されている喜びが余りにも大きいため、天使らもその喜びを共に分かつと言う意味です。
また天に登録されている長子たちの集まりとは、命の書にその名が記されている聖徒たちの群れと言う意味です。
古代では、国王が忠実な市民を登録した名簿を持っていて、そこに名前が記されている者は王から受け入れられ、承認されました。このように天にいる聖徒たちは神から忠実な神の国の市民として認められた人たちであります。

第三は、すべての人の審判者である神、そして完全なものとされた正しい人たちの霊であります。
永遠の神の国に入るとき、すべての人間の審判者である神の御前に人は出なければならないのです。
しかし、神の国においても人間は神を直接見ることはできません。人間が見ることのできる神は神の御子イエス・キリストであります。父なる神も聖霊も被造物であるわたしたちの目には見えません。ただ真の神であり、真の人間となられ、人間として死に、死人の中から人間として復活された主イエス・キリストを見るのです。
そこにおける神の審判は、もう一度改めて、そして自分の人生を総括する意味で、主イエス・キリストを信じるか、どうかと言う尋問を受けるのです。
クリスチャンは主イエスを信じて生涯を歩んできた者たちですが、その信仰の告白と、信仰の決断を改めてしなければならないのです。それが神の最後の審判です。
クリスチャンになっても、主イエスを偉大なる教師として尊敬し、主イエスに見習い、自分の力で正しい行いをし、神の前に受け入れられようと努力してきた人たちは、そこで見る方が、教師ではなく、人類の贖いのために十字架の死によってご自身を献げられた方であることが判明するのです。
そしてわたしを信じるかと仰せになるのです。この時主イエスに対する本当の信仰の告白が必要となります。
さらに、地上で主イエスを知る機会がなかった人たち、さらに主イエスに敵対して歩んでいた人たち、さらに自分は神であると主張して人々を惑わし、人々を隷属させていた者たち、また諸国家の君主、または権力者たち、あるいは富める者たち、あるいは貧しい者たち、その他の様々な人間が十字架について死に、復活した主イエスと直面して、「イエスはわたしの主である」と告白しなければならないのです。聖書は次にように言っています。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に告白して、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:11)
従いまして、人は皆その告白によって、天の都エルサレムの市民とされます。
また、「完全なものと認められた正しい人たちの霊」とは、自分の行いが完全に正しい者と認められた人間と言う意味ではありません。地上の人生を過ごしたすべての人間の中で、その行いが完全に正しい方は主イエス・キリストの他には誰一人として存在しません。
従いまして、完全なものとして認められた正しい人の霊とは、主イエスを信じて、主イエスの義を自分の身にまとって神のみもとにいる人たちの霊です。
主イエスは人類の罪のため一度だけ死に、復活して神の御前で永遠に生きておられるのですから、この主イエスを仰ぐとき、そこでは最早人間の罪は存在しないのですが、わたしたちは自分の罪を忘れ去ることはできないのです。
そのような者が罪を赦されて、主イエスの義の中にある者として、神と対面することができるのですから、神に対する感謝は一層大きいのです。
 あるいは正し者たちの霊とは、キリスト誕生以前に信仰生活を送った人たちの中で、信仰の父アブラハムのように、神と出会い、神の恵みによってのみ神の国の嗣業を受けると神に約束され、神を信じて人生を歩んだ人たちです。
彼らは皆「信仰によって」神から正しい者と認められていた人たちです。

(4)愛による調和と賛美
 最後に、永遠の国において、主イエスと対面するとき、主イエスは同時に聖霊によってその者の中に臨在しておられますので、主イエスの命と神の愛がその人を生かすのです。
主イエスが一人一人の中に臨在されますので、人間全体が互いに心が通い互いに相手を理解し、共に神の御前で生きるのです。最早罪も死も存在しないのです。それは命の充満した世界です。
 共に主イエスによって父なる神の御心を知り、それを実行することによって、永遠の世界全体に神の愛による調和と一致がもたらされます。その中で神に対する賛美が献げられるのです。



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