2012-01-29(Sun)

信じて行動する 2012年1月29日の礼拝メッセージ

信じて行動する
中山弘隆牧師

 わたしたちが気づき、神がその計略を破られたことを敵が知ったので、わたしたちは皆、城壁に戻り、それぞれ自分の作業に就いた。その日からわたしの部下たちは、半分が作業に従事し、他の半分が槍と盾、弓と鎧を身に着け、将校たちがユダの家全体の背後に控えた。城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。建築作業をする者は、各自腰に剣を帯びて作業した。わたしはそばに角笛を吹く者をつけた。わたしは貴族と役人と他の戦闘員に言った。「仕事が多く、範囲は広い。わたしたちは互いに遠く離れて城壁の上に散らばっている。角笛の音を聞いたら、わたしたちのもとに集まれ。わたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる。」夜が明けてから星が現れるころまでわたしたちは作業に就き、部下の半分は槍を手にしていた。このころわたしは戦闘員に言った。「各自、自分の部下と共にエルサレムの城壁内で夜を過ごしなさい。夜は警備に当たり、昼に仕事をしよう。」わたしも、兄弟も、部下の者も、わたしに従う警備の者も、わたしたちはだれも、服を脱がずにいて、各自投げ槍を右の手にしていた。
ネヘミヤ記4章9~17節


 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
マタイによる福音書8章5~13節

 

(1)聖書の神に対する信仰
 従来の日本の社会には、神を祀る神社や寺が多く見られますが、しかしそれは聖書の神と根本的に異なっています。
そのような神は独自の人格をもたず、ただ神としての性質が自然と万物の中に宿っているという信仰です。そのような神は人間や動物、木や花、或いは山や川のすべてのものと融合している神です。すなわち、汎神論的な神であって、人格的な存在ではありません。
それに対して聖書の神は「我と汝」との対面の中で人間と出会い、交わりを持たれる人格的な神です。その交わりの手段は神の御言葉です。さらに、御言葉は人間との交わりの手段だけでなく、実は神ご自身の存在の仕方なのです。
従いまして、神がご自身を人間に現すために語られる御言葉を人間が具体的に聞くことによって聖書の信仰は存在します。すなわち「いつ、どこで、だれが、なにをしたか」という歴史的な出来事を通して人間が御言葉を聞いたとき、聖書の信仰が開始したのです。
その後、同様の出来事が神の救いの歴史の中で継続し、前進していることを聖書は証しています。

このような御言葉こそ、世界を創造し、人間を生かす権威と力を秘めています。
預言書のイザヤ55:11では、次のように証されています。
「そのように、わたしの口からでるわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
このように神の目的を現し、それを果たす神の言葉は永遠であります。この点でも、イザヤ40:8で、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」と証言しています。
同様に、神の言葉それ自身であります神の御子・主イエスは次のように仰せになりました。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)「天地は過ぎ去るだろう、しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らない。」とイエスは仰せになっているのです。

(2)イエスの御言葉に対する信仰
本日の聖書の箇所には、主イエスと出会った人に、主イエスに対する信仰が生起したことが記されています。
その状況はマタイによる福音書8:5~13、ルカによる福音書7:1~10、ヨハネによる福音書4:43~54にそれぞれの仕方で伝えられています。福音書によって多少異なる点がありますが、基本的な点は皆同じです。
マタイでは、ローマ兵の百人隊長の部下が中風で、ひどく苦しんでいるので、癒されるようにイエスのもとへ、隊長が懇願に来た、と書いてあります。ルカでは、その部下を隊長は非常に高く評価し、自分の片腕のように信頼していたと説明されています。ルカ7:2では次のように述べられています。
「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。」(ルカ7:2)
隊長のこの切なる願いを見て、イエスはその家に出かけようとして、「わたしが行って、いやしてあげよう。」と言われたのです。
そのとき百人隊長が言った言葉が、次にように記されています。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」

ここには、イエスを通して、神が働いておられるという信仰と、イエスの語られる御言葉こそ、生きて働く神の言葉であるという信仰が見事に表明されています。
百人隊長は言葉の持つ権威と効力を、軍人としての立場から、認識していたものと思われます。彼は中間職として、上の大隊長の命令を受け、自分の隊では部下に命令を与える立場でありましたから、上官の命令が絶対的な権威を持っていることを日頃から熟知していたのです。しかしその命令の権威は、軍隊の中にだけ通用していました。
それに対して、イエスの命令は通用範囲のいかなる制限もありません。個人に対しても、社会に対しても、あらゆるところに通用するのです。
クリスチャンの中には、信仰は心の中の問題であり、信仰と政治とは別の問題である、と考えている人がありますが、それは神の働きの領域を自分の考えで制限しているだけなのです。
さらに神の働きは、社会体制の区別を越えて有効です。資本主義社会であろうと、共産主義的、或いは社会主義的社会であろうと、正義と公平と愛が実行される所では、神の意志が行われ、神の働きが現れているのです。
主イエスの働きは、クリスチャンであろうと、他の宗教の人たちであろうと、また無神論者であろうと、人間的な差別はありません。ただイエスに対する信仰を通して現れるのです。
この百人隊長の信仰の表明に対して、イエスは非常に感心し、次のように仰せになりました。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」(マタイ8:10~11)
なぜならば、イエスの御言葉に対する信仰によってのみ、イスラエルの民であれ、異邦人であれ、人は誰であっても神の国に入るからです。そして、イエスは百人隊長に言われました。「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」(マタイ8:13)
ここで、「あなたが信じた通りになるように。」と言うギリシャ語の原文は、「あなたが信じたよう通りに、なれ。」と言う命令なのです。
神の権威を持つイエスの言葉の命令によって、そのとき百人隊長の部下は癒されました。「ちょうどその時、僕の病気はいやされた」とマタイ福音書はこの出来事を証しています。

この点をヨハネはもっと一層強調しています。ヨハネ4:50で次のようにイエスは仰せになりました。
「『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」(ヨハネ4:50)
ここで、「あなたの息子は生きる」とイエスが言われた言葉は特別の表現の仕方です。「生きる」という言葉はギリシャ語の文法で「動詞の現在形」です。通常ギリシャ語の現在形の動詞は、その動作が進行中であるか、または繰り返されることを表していますので、「生きつつある」或いは「生きている」と言う意味ですが、もしそういう意味にとりますと、この場合の言い方は甚だ不明瞭になってしまいます。
しかし、イエスがここで現在形を使用されたのは、特別の意味があります。それはイエスがこの言葉を口から発せられるとき、「あなたの息子はちょうど今、生きるのだ」と仰せられたのです。言い換えれば、イエスの発言と同時に、その言葉を通して、神の力が働くので、「あなたの息子はまさに今生きる」と仰せになったのです。
この発言は実に驚くべき事柄です。これはイエスが神の権威を持っておられる方であることを現実的に表しています。
この物語をイエスのされた一つの奇跡として解釈する人たちは、イエスの言葉の遠隔作用であると説明します。通常イエスは人を癒されるときに、御言葉と共に手を病人に置かれました。そのとき病人との直接的な接触を通して、イエスの体内の力が病人に伝わって、病気が癒されたと説明します。それゆえ遠隔作用は例外的であると見做しています。 
しかし、イエスによってなされた癒しは、そのような仕掛けや細工によるのでは決してありません。人間の思いをはるかに越えた神の神秘として、最も現実的な神の力として、イエスの御言葉を通して神が働かれ、病人が癒されたのです。
それでは、イエスに対して、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」とイエスに対する信仰を言い表した百人隊長は、「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」というイエスから御言葉を頂いて、帰って行きました。そうしましたら、イエスが御言葉を発せられた「ちょうどその時、僕の病気はいやされた」ことが判明したのです。ここで、イエスの御言葉を信じて、家に帰って行ったことにより、百人隊長は神の偉大な働きの現れるのを体験したのです。
このように人は誰であっても、神の御言葉を聞いて、御言葉の実現することを信じて、行動する者に神の力が働きます。

(3)クリスチャンに対するイエスの命令の意味
最後に、クリスチャンに対するイエスの命令の意味について、聖書から学びたいと思います。
主イエスの命令は、命令を聞いた者に対してそれを実行することを要求します。従いまして、信仰者は主イエスの命令を聞くだけで、何も実行しないということは不可能です。
ところで、主イエスの命令とは何でありましょうか。使徒パウロは主イエスの律法は、「隣人を自分自身のように愛しなさい」(ガラテヤ5:14)と言う一句に集約されると教えました。また使徒ヨハネは、イエスの律法を次のように伝えています。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12)

ところで、主イエスの命令は、わたしたちの内に主イエスを通して働く神の愛によって、実行可能な命令なのです。
その場合に、神の愛は先ず、人間が神から与えられた道徳律を満たすことの中で働いているのです。人間にそのことを可能にする霊的力として働いているのです。

これは旧約聖書に示された具体的な数々の律法を実行することです。このことを抜きにしては、家庭や社会や共同体の中で、神の愛を実行することはできないのです。
クリスチャンが教会の中ではクリスチャンらしい振る舞いをしていましても、社会で通用しないのであれば、その信仰は人間の生き方にまだ現れていないのです。信仰は社会において、善良な、正直で、責任を果たし、人から信頼される人間を造り出します。

しかし、神の愛がクリスチャンに働く場合には、それ以上の性質と、行動を実現します。その意味で、主イエスは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは天の国に入ることはできない。」(マタイ5:20)
ファリサイ派や律法学者が代表しているユダヤ教では、自分の素質や能力によって律法の業を行い、それを自己の功績としました。また「自分たちの仲間である、兄弟や隣人を愛して、敵を憎みました。」さらに貪欲は罪ではないと主張し、富を得ることを人生の最大目標としました。
それに対して、主イエスはクリスチャンが神の御心に従い、神の栄光を現そうという一心で、善い業を行いなさいと命じられました。また主イエスは「敵を愛しなさい。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせておられる」と仰せられました。さらに、「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。あなたたがは、神と富とに仕えることはできない。」と教えられました。

 マタイによる福音書で、「天の国」とは「神の国」を意味しています。さらに、福音書でいう「神の国」とは、パウロの手紙では復活の主イエスが支配される神の国です。
それは御言葉と聖霊とを通して、この世界に中に、そして特にキリスト教会の中に働いています。パウロはこの点を明瞭にしています。

 「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13~14)
 それゆえ、復活の主イエスが支配される神の国に移されたクリスチャンは神に従い、隣人を愛する自由を与えられているのです。
 言い換えれば、神の子たちの自由を与えられているのです。そして、神の子たちの自由とは、神の御子・主イエスの人間性と存在的に結びついています。
それゆえクリスチャンは聖書では、「主イエスにある者」、すなわち、「主イエスと結びついている者」と呼ばれています。
さらに、クリスチャンは主イエスの命令に従うときに、既に主イエスにあって与えられている神の子たちの自由を発揮して、その命令を実行することができるのです。


しかし、クリスチャンは主イエスの命令によらなければ、神の子の自由を発揮することはできません。なぜなら、わたしたちクリスチャンは罪人でありますから、「主イエスの中に」存在する神の子たちの自由を使用することについては未経験であるからです。神の国での振る舞いと行動に対して、わたしたちは不慣れであるからです。
従いまして、主イエスの命令を聞いて、それを実行することによってのみ、既に主イエスによって与えられている神の国の自由を体験するのです。主イエスの命令を実行することによって、初めて神の国の勝手が分かるようになるのです。
それゆえ、何よりもまず、わたしたちと出会われる復活の主イエスを見つめて、主イエスの性質と御心を思い、わたしたちに一対一で語られるその御言葉を信じ切って、実践することがクリスチャンの生き方です。
そのようにして、クリスチャンは次第に主イエスの性質と思いを自分の存在と言動と性質の中に現すようになっていくのです。これがクリスチャンです。



スポンサーサイト
教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
●牧師紹介

●年間行事予定

●写真で見る三芳教会
最新記事
行事報告
● 江田めぐみ伝道師就任式
 (2012年7月22日)


● 教会バザー報告
 (2011年11月23日)


● バーベキュー大会報告
 (2011年8月21日)


● イースター報告
 (2011年4月24日)


● 柿本俊子牧師隠退の感謝会報告
 (2011年3月27日)


● 講壇交換(三羽善次牧師)
 (2011年1月23日)


● 墓前礼拝報告
 (2010年11月7日)


カテゴリ
カレンダー
12 | 2012/01 | 02
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
月別アーカイブ
全記事INDEX

全ての記事を表示する

お知らせ
ようこそいらっしゃいました。



2016年10月に、当ブログの訪問者が9,000人を超えました。感謝いたします。

2015年9月に、当ブログの訪問者が8,000人を超えました。感謝いたします。

2014年9月に、当ブログの訪問者が7,000人を超えました。感謝いたします。

2014年1月に、当ブログの訪問者が6,000人を超えました。主の導きに感謝いたします。

閲覧者数
現在の閲覧者数
現在の閲覧者数:
メールフォーム
三芳教会やキリスト教についてのお問い合わせ、また当教会へのご意見、ご要望等がありましたら、下記のフォームよりうけたまわります。

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

検索フォーム
リンク
QRコード
QR