2011-09-25(Sun)

信じます。わたしをお助け下さい。 2011年9月25日の礼拝メッセージ

信じます。わたしをお助け下さい。
中山弘隆牧師

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。
イザヤ書42章1~3節


 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
マルコによる福音書9章20~27節



聖書のいう信仰とは何か。このことはわたしたちにとりまして非常に大切な問題でありますが、この箇所は実によくそのことを示しています。讃美歌270番に、「信仰こそ 旅路をみちびく杖、よわきを強むる 力なれや」と、歌われておりますように、試練の多い人生を生き抜く力を与えるものが、正に聖書的信仰であります。
  
(1)悲惨な現実と不信仰
「群衆は皆、イエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄って来て、挨拶した」(9:15)
 彼らはイエスがちょうどよい時に来られたのを見て、驚きまた喜んで、イエスのもとに駆け寄りました。しかし、ただそれだけでなく、ここで「非常に驚き」となっています言葉は、他の箇所でも使われております。例えば、イエスの復活されたことを告げるために天使が現れ、それを見た婦人たちが非常に驚いた、と記されています。それらはみな神の救いが現れるときと関係しています。
 それではここで人々はどのような状況の中にいたのでしょうか。
彼らは悲惨な現実の袋小路に行き当たり、今まで持っていた彼らの信仰は全く無力と化しました。そしてむきになって弟子たちを非難し、弟子たちの側でも必死に自己を弁護していたのです。
「何を議論しているのか」(9:16)と、イエスが尋ねられたのは、彼らは弟子たちの無能力を愚痴っぽく批判していたからです。
「この霊を追いだしてくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」(9:18)と言っています。
人々は弟子たちができなかったことに対して、相手を非難していますが、同時にそれは自分たちの不信仰を露呈しているのです。イエスの見られた彼らの現実は、苦悩、議論、責任のなすりやいといった混乱と不信仰の暗さそのものでありました。
 「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと共におられようか。いつまで、わたしはあなたがたに我慢できようか。その子をわたしの所につれて来なさい。」(9:19)
 この主イエスの御言葉は、弟子たちと群衆との両方に向かって語られたものであります。
主イエスから見れば、弟子たちも群衆も共に、一番必要な信仰を持たないで、子どもを助けることができず、お互いに言い争っているように映ったのです。
 弟子たちも民衆も神の救いのご計画においては、共に神の民となるべき者たちでありますのに、彼らは神に対する信仰を頑なに拒んでおります。そこに、主イエスが感じられる心の痛み、魂の嘆きがあるのです。
「いつまで、わたしはあなたがたと共におられようか」というイエスの言葉には、深い嘆息が伺われます。旧約聖書の預言者の嘆きが感じられます。エレミヤはイスラエルの民が悔い改めず、民が救われる時がいつまでも来ないので、断腸の思いを致しました。
「刈り入れの時が過ぎ、夏は終わった。しかし、我々は救われなかった。娘なるわが民の破滅のゆえに、わたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。」(エレミヤ8:20~21)
こうしたエレミヤの断腸の思いが、主イエスの中では、今一層強く現れています。
「なんという信仰のない時代なのか。いつまで、わたしはあなたがたと共におられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(9:19)という主イエスの言葉の中には、救い主として、十字架の道に進んで行かれる方の気持ちがよく現れています。
イエスの歩まれた道は試練と苦難の連続でありました。そのような中で、主イエスは自分の信仰によって力を受け、父なる神への従順を全うされたのであります。
主イエスは常に自らの極限状態を歩いておられましたので、自分にとっては早くこの世を去り、父なる神のもとに至りたいという願いを持っておられました。
しかし、他方で弟子たちや民衆が真の信仰を持つようになるためには、自分が少しでも長くこの地上にいる必要があるとの思いもあったことでしょう。そのような思いの板挟みの中で、このような嘆息が漏れるのです。
 「いつまで、あなたがたに我慢ができようか。」と仰せられた主イエスの御言葉は、単に弟子たちや民衆に語られただけではなく、実はわたしたちに対しても語られているのだと、思います。

信仰が足りなくて、思い煩い、希望がもてず、右往左往しているわたしたちに対して、発せられた言葉であります。わたしたちは少し困難に遭遇しますと、気持ちが動揺し、不信仰に陥ってしまいます。
 また、将来のことは常に不確定なので、人は思い煩います。不安のために神経を消耗させるほど悩むのです。

(2)イエスの信仰
 主イエスは耳が聞こえず、言葉が語れないと言う二重の障害を持った子供に向かって、「その子をわたしのところに連れて来なさい。」(9:19)と、仰せられました。
するとどうでしょうか、子どもの状態はよくなる兆しを見せるどころか、かえって前より悪くなりました。父親はそのような絶望的状況の中で次のようにお願いしました。
「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい。」(9:22)
父親は子を愛する気持ちから、止むに止まれずそうお願いしたのです。しかし、余りにも絶望的状態でありましたので、出来ないであろうという思いが彼の心に重苦しくのしかかっていました。
わたしたちは自分のことを冷静に考えてみますと、もしこのような事態の中にいたとすれば、この父親と同じだと思います。
 そこで、主イエスは仰せられたのです。
「『できれば』と言うのか。信ずる者には、何でもできる。」(9:23)

 この御言葉は主イエスご自身の信仰を如実に言い表しております。なぜなら、主イエスこそ、信仰によってどんな事でも出来た人です。それでは人間が神を信じる、または信頼するとはどういうことなのでしょうか。それには三つの点があります。
 第一点は、神を信じる者は、自分の弱さ、無力さを自覚するということです。主イエスも真実にわたしたちと同じ人間の立場に身を置かれましたので、自分の弱さを熟知しておられました。なぜならば、主イエスはこの世的な地位や財力や権威と言ったものは何一つ持っておられなかったからです。
パリサイ人や祭司たちから、「あなたは何の権威によって、これらのことをするのか。」と攻撃されたのです。それゆえ、主イエスは祈りによって常に神にのみ寄り頼まれたのです。

 第二点は、信仰とは神が全能者であると、確信することであります。人は神を創造者として信じるのですが、本当に神が何でもできると信じているかが大いに疑問です。大抵の人間は、こんなに難しい病気は神でも癒すことはできないと思います。
しかし主イエスは、「人には出来ることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と仰せられました。これが主イエスの神に対する信仰であったのです。

イエスはこの耳が聞こえないということと、言葉が話せないという二重の障害を背負っている人を神は癒すことができる、と信じられたのです。それはイエスが神は全能であることを本当に信じておられたからです。
 第三に、信仰者にとっての問題は、「信じる者には、どんな事でも出来る」という点です。
この点で救い主としてのイエスの力が発揮されています。実際問題として、神の全能の力は主イエスのこの信仰を通して具体的に働きました。
主イエスは中風の患者に向かって、「あなたの罪は赦された。」と宣言し、「床を取りあげて歩め。」と命じられました。わたしたちは主イエスが神の御子であるから、このような言葉が発せられるのだと考えがちです。しかし、主イエスがそのように語り、そのような行動を取られましたのは、主イエスご自身の信仰を通してであったことを決して見逃してはなりません。確かに主イエスは神であり、常に父なる神の御心を完全に知っておられましたが、その認識は主イエスの信仰を通して得られたのです。

従いまして、主イエスが神を知り、神の御業を行われたのは信仰を通してであります。この点では、わたしたちと全く同じであります。しかし、それにも拘わらず、わたしたちの信仰と主イエスの信仰とは決定的に違います。「信じる者は何でも出来る」という確信が主イエスの信仰でした。
わたしたちの場合は自分の願いを果たしたいという欲望から、神が癒して下さると無理をして信じようとします。また自分はすでに信じているのだと思い込みます。しかし、それでは本当に信じているとは言えません。自分で自分をごまかし、神様をもごまかそうとしているのです。
主イエスの場合はそれと全く異なります。主イエスは信仰によって何でも出来ると、極自然に信じておられたからです。主イエスにとってはそのように信じることが極めて当然の事柄であり、むしろそのように信じないことが不自然なことでした。この点が主イエスの信仰の特異性であります。
主イエスはこの地上に誕生し、マリヤの胸に抱かれたときから、信じる者は何でも出来るという信仰が主イエスの中に潜在しており、幼子イエスの成長に伴って意識が生まれると同時に、そのような信仰も働くようになったのです。
主イエスの場合に、信仰は主イエスの人格と深く結びついており、神の御子として父なる神への従順の中で、すべてのことを考え、父なる神に求め、父なる神の御心を実行しておられたのです。従いまして、主イエスの信仰は父なる神への従順と不可分離に結びついています。この点もイエスの信仰の特異性であります。

このような信仰が初めからイエスに内在し、人間としての成長と共に開花したのです。このような信仰が、主イエスの人格において地上に存在したということは真に驚くべき事であります。
従って、本当の信仰をもっておられた方は、主イエスだけです。こういう意味で、ヘブル人への手紙は「イエスは信仰の創設者でありまた完成者である」(ヘブル12:2)と言っています。

(3)イエスに向かって叫ぶ
 今や、病める子どもの父親は、自分の目の前にこのような完全な信仰を持って立っておられる主イエスと対面して、自分の不信仰を痛感しました。
主イエスは子どもが癒されると堅く信じられました。それに引き替え、自分は子どもが癒されるとは信じられなかったのです。父親は主イエスの信仰と自分の不信仰との対比が心に焼き付くほど鮮明に感じられたのです。
そして、あなたの子どもは癒されると信じて、自分の前に立っておられる主イエスにより頼んで、父親は次ぎのように叫びました。

 「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」(9:24)
 ギリシャ語では、「信じます。わたしの不信仰をお助け下さい。」となっています。生まれながらの人間の信仰はあってもなくてもそれは不信仰なのです。自分では信仰深いと思っていても主イエスから見れば、不信仰なのです。
クリスチャンは皆、主イエスの信仰の圧倒的な力に直面し、自らの信仰ではなく、主イエスの信仰によって立つのです。
そして、「信じます。わたしの不信仰をお助けください。」と主イエスに向かって祈るのです。
このように主イエスに向かって叫んだ父親は実に、主イエスの信仰によって愛する子どもを癒されました。
 従って、聖書のこの箇所はわたしたちに次のように語っているのです。わたしたちは自分がどのように不幸な不利な境遇にありましょうとも、わたしたちの全生涯は神の恵みの現れる場である、と語っています。
主イエスがわたしたちの人生についての神の業を信じていて下さるということは実に重大なことです。そのことを通して、神は主イエスの十字架の死と復活において、わたしたちのために、神と共に歩む道を新しく切り開いてくださいました。
それはわたしたちが古い自分に死に、主イエスの中に与えられている新しい自分に生きることです。わたしたちが自分の信仰ではなく、主イエスの信仰により頼むとき、わたしたちは、常に古い自分に死に、常に新しい自分に生きるのです。その道を歩む者には、万事が益となります。
「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちのためには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)。



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