2011-02-27(Sun)

主が与えられる平安 2011年2月27日の礼拝メッセージ

主が与えられる平安
中山弘隆牧師

 指揮者によって。伴奏付き。賛歌。ダビデの詩。呼び求めるわたしに答えてください、わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください、憐れんで、祈りを聞いてください。人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか、むなしさを愛し、偽りを求めるのか。主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め。恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。
詩編4篇1~8節


 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
マタイによる福音書6章29~34節


(1)聖書における神との交わり
 旧約聖書の信仰は生ける神に対する信頼と祈りによる従順な生活であります。神は偶像とは異なり、ご自身の意志と力をもって働き、人間の歴史の中でご自身の目的を実現するために働いておられる生ける神であります。
しかし人間がこの神を知ることができたのは、神の側から、恵み深い主権者としてご自身を表されたからです。この事実は神の救済として現れました。すなわち神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から救出し、自由な民とされたことを通してです。
その際に神は預言者と人格的に出会って、ご自身の意志を示されました。そのことを神が御言葉を語られ、預言者が神の言葉を聞いたと言います。神は預言者モーセに、「わたしはイスラエルの民をエジプトから脱出させ、わたしの民とする」と語られ、モーセに「民を率いてエジプトから脱出せよ」と命じられました。
このことをモーセから聞いたイスラエルの民は、神が自分たちの叫びを聞いてくださったからだと喜ぶ半面、そんなことは不可能であるという不安と不信仰が付きまとったのです。モーセは民に神の言葉を信じさせ、神はこれを実現することができる方であると言って、エジプト脱出に備えて、彼らの体制を整えました。その間、他方でモーセはエジプトの王パラオと交渉し、自分たちを去らせてほしいと交渉しましたが、交渉は不調に終わり、民は夜中に脱出したのです。
しかし翌日パラオはエジプトの精鋭部隊を引き連れて追跡し、紅海まで来て迷っているイスラエルを発見し、彼らを逮捕しようとしました。民は潮の引いた浅瀬を渡って逃げ、対岸にたどり着くことができました。他方パラオの軍隊は海中に突入したとき、潮が差してきて、大混乱をきたし、ついに全滅したのです。
またイスラエル民族はヘブル民族とも呼ばれていますが、へブルとはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエル民族だけではありません。そうではなくエジプトにいた雑多な人種の呼び名で、彼らはエジプトの庶民の中で最下級の者たちでした。そのような者たちが預言者モーセによって、イスラエルと一緒にエジプトから脱出し、シナイ半島の荒れ野で、信仰共同体として形成されたのです。
彼らはエジプトを脱出後、シナイ半島の荒れ野を40年間、方々流浪する中で、信仰が強められ、神の御言葉は必ず実現することを身をもって体験したのです。後の時代の預言者ホセアは、その時期を主なる神ヤーウェと神の民イスラエルの蜜月の時代であったと言っています。
このようにして、神は恵み深い主権者であり、神の主権は人間とその歴史の中に働いているというのが、聖書の信仰であります。

神の救いを土台として、神の啓示をもって、神が民との間に与えられた関係と交わりが旧約聖書の信仰と信仰生活の特徴であります。
天地万物の創造者であり、救済者であり、歴史の支配者である神は、聖なる神であり、知恵と力とその道徳的な清さにおいても、人間を越えた人格的な存在であり、弱い、低い、罪深い人間は近づきえない神であります。それにも拘らず、神の本質は愛であり、恵み深い主権者でありますので、人間を顧み、御言葉を通して、人間に人格的な交わりを与えられる神なのです。

(2)神への信頼
次に、詩編はエルサレムに神殿が存在した時代に、神殿の礼拝の中で、賛美や祈願や悔い改め、その他の教育的な目的のために用いられた、と言われています。本日の聖書の箇所である詩編4編は、個人的な体験に基づいた神への信頼を歌った詩でありますが、これも神殿の公の礼拝で用いられていたと思われます。

この詩の作者は非常な困難や悩みを経験しました。もしその経験の辛さに圧倒され、屈服したとすれば、他の詩編に見られるように彼は神に自分の嘆きと不満を訴えたことでありましょう。しかし彼はそうはしませんでした。彼は主なる神に対する深い信頼により、困難と悩みを克服しましたので、嘆きの詩編に見慣れるような要素はこの詩編にはありません。初めから終わりまで貫いている基調は、神への堅固な信頼の喜びです。
「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください。」(4:2)
この最初の言葉は、神への訴え、アッピールで始まっていますが、それは絶望の叫びではありません。この詩人はねつ造された証拠に基づいて彼を有罪にしようとする悪意ある者たちによって、裁判に訴えられ、窮地に立たされました。神は自分の無実を認めてくださることを確信して神に祈っています。
それは神がこれまでに彼を助けてくださったことを体験し、今回も神がどのように行動されるかを知っていたからです。
口語訳聖書は、新共同訳聖書とは違って、この点を一層明瞭にしています。
「わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈りをお聞きください。」(口語訳4:1)
彼は以前も窮地に追い込まれ、選択肢のない狭い場所に立たせられたのですが、そこからより多くの選択肢のある広い場所へ神によって連れ出されたのです。従いまして、この祈願は神が助けられる方法を心得ている者が神に願う適切な方法であり、信頼による懇願です。

「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか、むなしさを愛し、偽りを求めるのか。主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。」(4:3~4)
これらの節は、彼が差し迫った危険の中にあることを示しています。彼の名誉を傷つけようとする不当な訴訟の対象にされました。彼を裁判に訴えた相手は、イスラエル社会の有力者たちです。
「人の子らよ」という言い方は、有力者たちのグループを表しています。普通の庶民を表すのは、「アダムの子らよ」という言い方です。それに対して彼はどの階級に属していたかは明らかにしていません。彼も有力者の一人であったか、また祭司であったか等は、明らかではありませんし、またなぜそのような中傷が彼に向けられたのかも一切説明されていませんので、わたしたちには何も分かりません。
しかし、それらの事情が何であるにしても、この詩編の作者は彼の無罪放免を確信しています。それは彼の良心による確信なのです。それゆえ、彼を告訴した側はもっともらしい偽りの証人を立てていても、その証拠が裁判では認められないことを確信しているのです。
従いまして、彼を告訴する者たちに、自制することを求めています。
怒りを抑え、もしも怒りが抑えられなかったら、夜一人で寝ているときに、自分自身に向かってその言葉を発せよ、そして、神が判決を下されるまで、忍耐して待つようにと、彼を告訴した者たちに忠告しています。
このような態度を取る詩人は、裁判で争う相手を敵や獣と呼ぶことは決してしていません。その点が3編の詩人の態度とは全く異なります。あくまでも、裁判で互いに争う相手が、盲目的な激情によって動かされるのではなく、真理を学ぼうという真摯な願いによって彼らの行動が動機づけられるようにと願っています。この点が詩人の霊的な水準の高さを示しています。

 「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それに勝る喜びを、わたしの心にお与えください。」(4:7~8)
 ここには、多くの人々が求める願いと、この詩人が求める願いとの対比が語られています。
七節は「多くの人」の願い、あるいは悲観的な見方を表しております。そこで「わたしたちに神の御顔の光が向けられるように」とは彼ら自身の願いの言葉なのです。 
 それに対して、8節はこの詩人の願いです。詩人は、収穫の豊かさの喜びにまさる霊的な喜びをわたしの心にお与えください」と祈っています。
 しかし、この点に関して、口語訳聖書の方が詩人の態度や体験をよく示していますので、口語訳聖書からその意味を汲みたいと思います。
 「多くの人は言う。『どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、御顔の光を、わたしたちの上に照らされるように』と。」4:6)
「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。」(4:7)

 この7節が、詩人が体験した事柄の頂点になっているのです。詩人は裁判の係争中に、主に対する深い信頼と強い確信により、人々の最高の満足に勝る喜びを知ったのです。それは神が人の心に与えられる霊的な喜びです。人々が豊作の時に感じる大いなる喜びに勝る霊的喜びを詩人はこの時に体験したのです。
それゆえ、9節の言葉がこの詩の結びになっています。
「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住ませてくださるのです。」
 口語訳では次のようになっています。
「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」(4:8)
 この裁判での係争のただ中で、明日の結果を主の御手に委ねて、思い煩うことなく、熟睡することができたのです。これが、聖なる恵み深い神との人格的な交わりの中にある信仰者の姿なのです。

これは旧約聖書の信仰者たちが、神の御言葉を通して神が自分の心に臨在され、神に対する確かなる信頼と霊的な喜びを与えられたことの証です。
主イエスも恵み深い父なる神が、神の国の支配者であり、人間の歴史と生活の支配者であることを知る者は、日々の暮らしの必要について、思い煩うことなく、神の意志に従うことを第一とする生き方を教えられました。その結びの言葉として、次にように仰せになっています。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)
すべてのことを知り、先のことを見通して、わたしたちを導いておられる方が、父なる神であります。わたしたちはこの神の主権の中で生かされ、神に仕えている者たちなのですから、神に対する揺るがない信頼をもって、一日一日を真剣に生きることが必要です。そして一日の終わりにすべてのことを神の御手に委ね、神の御心のなることを願って、安心して休むのです。
眠ることなく、休むことなく、常に働き、その目的を実現される方は主なる神だけです。

旧約聖書の時代の信仰者たちは、預言者たちが聞いた神の言葉を熟慮し、神の恵みを感謝し、神への信頼を強め、神に祈りましたとき、神が彼らの心の中に臨在され、神の喜びを与えられました。神から与えられたその喜びが、自分の直面している困難の中で、それを乗り越えていく霊的な力となって働いたのです。
しかし、この世界に存在する万物を越えておられる聖なる神が、人間をご自身との人格的な交わりに入れられるという恵みの確かさは、神の中にあり、人間の中にはありません。このことを人間は自分の手で確かにするために、自分たちが近づきやすい偶像を作り、偶像を祭ることによって、目に見えない聖なる神との交わりの代わりにしました。そのことにより、信仰が変質する大きな危機が、イスラエルの歴史の中で、何度も繰り返して訪れました。
そのたびに、預言者たちは悔い改め、神に立ち帰ることを神の言葉として語りましたが、同時にイスラエルの罪を贖う救い主の到来を預言したのです。

(3)永続的な神との交わり
今や、その預言が主イエス・キリストの到来により実現し、主なる唯一の神は、主イエスの犠牲による人類の罪の贖いを通して、主イエスによって、神を信じる者たちを、イスラエル民族だけでなく、世界の万民から起こし、彼らとの人格的な交わりを与えられました。その交わりは最早撤回されることのない永続の交わりです。

クリスチャンは皆そのことの証人たちであります。わたしたちが礼拝で使用している21編の475番はチャールス ウエスレイの作詞です。この曲は4節から成り立っています。
一節には次にように歌われています。
「あめなるよろこび 聖なる愛よ、
こよなくとうとき わが君イエスよ、
救いの恵みを たずさえくだり、
おののくこの身に 宿らせたま。」
同じ曲でも、英語の作詞ではもっと多くの内容が盛り込まれています。一節の英語を直訳しますとこのような内容になります。

「すべての愛にまさる神の愛よ、天の喜びを地にもたらし、
 われらの内に貧しき住まいを定めよ、真実な憐れみを王冠として。
 イエスよ、あなたは憐みのすべてであり、純粋な限りない愛。
救いを携えてわれらを訪れ、慄くすべての心に入りたまえ。」
 二節はこのようになります。
「吹け、愛の聖霊よ、すべての悩める胸に吹き込め。
 われらをあなたの嗣業に与らせ、約束の憩いに入らせたまえ。
 罪の傾向を取り去り、われらの初めと終わりとなりたまえ。
 信仰の初めから終わりまで、われらの心を自由にしたまえ。」

 わたしたちがこの賛美の歌を共に歌うときに、この賛美は同時に祈りの言葉でありますので、神はわたしたちの祈りを聞きあげられます。  
父・子・聖霊の三位一体の神が、わたしたちの心の中に臨在し、ご自身をわたしたちに示されます。わたしたちは神との交わりの中で喜びと霊的な力を受けるのです。そこから直ちに、わたしたちの課題に向かって行き、忍耐と希望とをもって努力するのです。その中で、主イエスにより、聖霊を通して、父・子・聖霊の唯一の主なる神が、わたしたちの力となられるのです。



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