2010-11-28(Sun)

主の栄光が現れる 2010年11月28日の礼拝メッセージ

主の栄光が現れる
中山弘隆牧師

 慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
イザヤ書40章1~11節


 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
ヨハネによる福音書12章27~36節


(1)歴史を導く神の言葉
 本日の礼拝から、わたしたちは主のご降誕を迎える準備の期間に入ります。それをアドベントと呼んでいますが、アドベントとはラテン語であり、それは「到来」という意味です。従いまして、もともとアドベントはキリストの到来を意味しています。しかし、そこから派生して、クリスマスの前の四週間を教会歴ではアドベントと呼んでいます。
 この期間において、わたしたちは旧約聖書の時代の人々が主の到来をどのようにして、神様から知らされ、どのように待望しながら、歴史の時を歩んできたかを覚えたいと思います。
 キリストの到来を預言しているイザヤ書40章から55章までは、今日の聖書神学によりますと、預言者イザヤではなく、彼よりも約200年後に活躍した無名の預言者によって語られた預言であると言われています。なぜイザヤの名前が付けられたのかという理由は、多分この無名の預言者がイザヤの教えと伝統を受け継いでいるグループに属していたからでありましょう。
 当時はイスラエルの民族とその信仰が最も危機に瀕した時代でした。国家が消滅し、民の有力者と技術を持っている人たち約4000人が、バビロンの地に連行され、そこで80年の間、捕虜として過ごしました。この厳しい試練の中で信仰が消滅しなかったのは、神がイスラエルの将来を切り開く神の言葉を第二イザヤによってお語りになったからです。
この預言者が活躍した時は、捕囚の最後の期間であったと推測されています。詳しく言いますと、小さな属国の王キュロスが台頭し始めた紀元前553年から、キュロスがバビロン帝国を滅ぼし、ペルシャ帝国の幕開けとなったとき、すなわち紀元前539年までの約15年間でした。この時期は、それまでのアラブ世界からペルシャによる広範な世界への転換期であり、人類の歴史が大きく動いた時期です。
この時期に、第二イザヤと呼ばれている無名の預言者は神の召命を受けました。このことは40:6~8節の箇所から読み取ることができます。「呼びかけよ、と声が言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
彼は「呼びかけよ」という神の御声を聞き、「何と呼びかけたらよいのか」と神に尋ねています。
彼は自分については少しも語らない預言者ですが、ここだけは唯一の例外で、「わたしは言う」と自分について証しています。
これは彼が神の命令に応答したことによって、預言者として立てられたことを表しています。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けたのだ。この民は草に等しい。」(40:6~7)
この預言の言葉は、人間の弱さ、はかなさを意味しています。特に、イスラエル民族の現状を表しています。祖国の滅亡により、拠り所を失った民は意気消沈し、信仰が弱まり、激しい懐疑の波に飲み込まれそうでありました。東風と呼ばれるアラビア砂漠から吹く熱風によって、イスラエル地方の草も花もその日のうちに枯れてしまいます。そのようにイスラエルに主の風が背信の民イスラエルに厳しい審判として吹き付けましたので、民は正に存亡の危機に直面しました。しかしその危機の真っただ中で、神は次のように仰せられたのです。

「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:8)
肉にあって生きている人間は有限で滅ぶべき弱い者でありますが、それとは全く対照的に神は全能であり、歴史におけるご自身の目的を実現される永遠なる方です。
預言者を通して語られた神の言葉は、神の計画と目的を表しており、同時にその計画を実現し、その目的を達成する力をそのうちに秘めています。神の言葉は歴史の状況がどのように変化しようとも、変わることなく働き続け、言葉の内に秘められた神の力によって、ついにはそれを成就するのです。
実に、神の言葉は神から発せられ、人間の歴史の中へ出ていって働きますが、神は言葉とご自身を神秘的な方法で一体化されていますので、御言葉と共に働かれるのです。

第二イザヤの時代は、アラブ世界の時代が終わりをつげ、ペルシャ世界の新時代が開始するという大きな転換期でありました。そこにおいて、時代の方向を定めたものは、実に神の意志であり、計画でありました。
ちょうどそれと同じように、今日の時代も、人類の歴史の大きな転換期を迎えています。この転換の方向を決定し、導いているものは、神の計画です。すべての民を神の救いに招き入れ、この世界に神の支配を樹立するという永遠の神の意志なのです。

(2)赦しの時
それでは、第二イザヤの預言の内容は何でしょうか。先ずそれは慰めの言葉です。
「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。 罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。」(40:1~2)
これは実は預言の原点であります。天上における主なる神ヤーウェの会議の光景を示しています。この場面は人間の思いよりもはるかに高く、あまりにも荘厳でありますので、預言者自身の個人的な事柄は立ち入る余地が全くありません。この詩は大きな声を出して読まれるべきものです。そうするならば、預言の強調点とその心が分かります。
この詩は命令的な響きに満ちています。「慰めよ」、「語りかけよ」、「呼びかけよ」という三つの命令形の動詞と、その目的語であります「わたしの民」、「エルサレム」、「彼女」という三つの対象からこの詩は成り立っています。
神の御前で重大な決断が下されているのです。最高に重要な決定が今まさに預言を通して告げようとされているのです。それは苦しみ嘆いているイスラエルのために「慰めの時」が与えられるという決定です。
神の世界計画において、審判の時は過ぎ、今や赦しの時が到来したのです。預言者エレミヤとエゼキエルたちが語った背信の民イスラエルに対する神の裁きの言葉は、既に成就したのです。
「苦役の時は今や満ちたのです。」それゆえ、神は今や赦しの時を開始されるのです。
赦しの時は、一旦開始されれば、それは最早取り消されることのない、最終的な赦しであり、永遠の赦しであります。
ここで預言者はイスラエルの民が、「罪のすべてに倍する報い」を受けたと言っていますが、それは量的に見て、イスラエルの罪に対して二倍の刑罰を受けたという意味では決してありません。罪の量に従って罰するという方法を神は決して取られません。
イスラエルの民は、自らの罪のために十分すぎるほどの苦役を受けましたが、今やもっとそれ以上の慰めを受けるときがもたらされる、というのです。

(3)新しい選び
次に、第二イザヤの預言は普遍的な内容をもっています。今や、最も罪深い背信の民であるイスラエルの罪が赦されたのでありますから、全世界のいかなる民も赦されないということは最早あり得ないのです。
出エジプトの時には、その出来事を通して、イスラエルが「神の民」として選ばれました。そこに「神の栄光」が現れました。
しかし、今回は神に背き、神を捨てたイスラエルが赦され、「再び」神の民とされたのですから、その神の救いはイスラエルの民に限定されることは最早不可能です。なぜならば、それほど深い神の愛は「全世界の民」に向けられている性質のものなのです。

「主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る」(40:5)
ここで、「主の栄光」の現れを「肉なる者は共に」見る、と言っている点が画期的です。これは「すべての人間」がその栄光を見ることです。
これまでの旧約聖書において、イスラエルの歴史の重要なとき、神の不思議な顕現が与えられました。
最初はアブラハムに神が現れられたことです。創世記12:7に記されています。「主はアブラハムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』アブラハムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」
ヤコブに神が現れられたことは、創世記28:10~19に記されています。ヤコブは石を枕にして一夜を過ごした場所で、天にまで達する階段を神の御使いが上り下りしている夢を見ました。そのとき、主がヤコブの傍らにったって、「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。----地上の氏族はすべてあなたの子孫によって祝福に入る。」
また、モーセに神が現れられたことが、出エジプト記3:2~6に記されています。燃える柴の間から神は声をかけられ、モーセを呼ばれました。そこで神は、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。----わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言われました。モーセは、神を見ることを畏れて顔を覆った、記されています。
さらに、神がシナイ山でイスラエルの民に現れられた時の様子が、出エジプト記24:9~11に記されています。
「モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老たちと一緒に(山の頂に)登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」
その他、神はカリスマ的な指導者ギデオンに現れ、預言者アモス、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルにも現れられました。
以上のような啓示とは比較を絶した究極的な啓示が与えられるので、すべての人間が神の栄光を見るようになるのです。
言い換えれば、神の救いは全人類に与えられるのです。この事実は旧約聖書の中で、まさに画期的なことであります。従来、神の選びの対象とは、イスラエルの民でしたが、「新しい選び」の対象は「全人類」なのです。今や、イスラエルの民は全人類の中に属することにより、神の新しい選びの対象となりえるのです。

(4)福音を告げる者
次に第二イザヤの預言は、福音を語っています。
「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。」(40:9)
神の命令によって、福音を伝える者が歴史の舞台に登場します。ここで「良い知らせ」という言葉が二度使われています。これは第二イザヤが好んで使用した言葉です。「ビセール」というヘブライ語の動詞は、喜ばしいニュースを伝えて人々を喜ばすことを意味しています。この言葉は新約聖書の「福音を告げる」という言葉の源泉です。
第二イザヤは福音を告げる者の姿を描いていますが、何という大きなスケールで、何という喜びと力に溢れた姿でしょうか。町の住民全員がその姿を見ることができるように高い山の上に立ち、しかも町の人たちの耳に聞こえるほど大きな声を張り上げて語っている、というのです。これは誇張した言い方ですが、福音はそのように町の住民全員の目の前で語り、全員に聞こえさせよ、という意味です。これが神様の命令なのです。次に、この福音の内容が、9節~11節です。
「見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。 見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前に進む。 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 子羊をふところに抱き、その母を導いていかれる。」(40:9~11)
すべての人間が主の栄光を見るということは、他ならない神ご自身が救い主として、人間の歴史の中に入って来られ、統治されるとき、人は自分の目でその姿を見る、ということを意味しています。
これまでのイスラエルの歴史において、神の御心が行われるために、神は預言者と祭司と王を立てられました。従いまして、神の統治は預言者と祭司と王によって間接的に行われていたのです。そのように神の御業はイスラエルの中で働いていましたが、神は天地の創造者であり、世界と人間を越えた超越者でありますので、神の民は神ご自身を見ることができませんでした。
しかし、今や世界と人間を超越した神ご自身が、この世界に中に「人間」となって「到来」され、「御腕をもって統治」されるのです。これは神ご自身が人間となられた方によって、人類を罪の支配から解放されることを意味しています。そして神に反抗している罪人をご自身の民として獲得されるのです。このことが、「見よ、主のかち得られたものは御もとに従う」という意味です。
つまり、神ご自身による人類の罪の贖いによって、わたしたちは神に仕え、神の御心に従った生活をするようになると、約束されたのです。これが第二イザヤに啓示された「福音の内容」です。
実にこの預言は主イエス・キリストの中でのみ実現し得たのです。主イエスこそ、人類の歴史の中心点に来られた神であります。
それゆえ、イザヤに語られた神は、わたしたちに向かって、主イエスを指さして、「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神。」と語っておられるのです。
但し、この第二イザヤの預言は、イスラエルの民が祖国に帰還するということも含まれていましたので、それは間もなく実現し、第二イザヤはその事実を自分の目で確認しました。しかし、この預言の中心である福音は、神の御子である主イエスの到来と人類を罪から解放することによる主イエスの統治を指し示しています。
今や、主イエスの支配は歴史の中に確立しており、日々新しく主イエスはわたしたちのもとに到来されるのです。従いまして、わたしたちは日々主の到来を自分の心と存在の内に迎えることが最も重要です。



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