2010-09-26(Sun)

感謝の献身 2010年9月26日の礼拝メッセージ

感謝の献身
中山弘隆牧師

 さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」夫エルカナは妻に言った。「あなたがよいと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待つがよい。主がそのことを成就してくださるように。」ハンナはとどまって子に乳を与え、乳離れするまで育てた。乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。
サムエル記上1章21~28節

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ルカによる福音書19章1~10節

(1) 孤独の悩み
 人間が生きていくために最も重要な事柄は、人間関係です。今日、都会生活の中で、高齢者が孤独死し、死後何日か経過して発見されるとう痛ましい事件が起こっています。現代社会では、地域の人間関係がきわめて希薄となっていますので、近くに住んでおられる人でも互いに顔を知らなかったり、挨拶をすることもなく過ごしていることが多くあります。
 最近の大学生の中には大麻を吸う人数が増えているという憂慮すべき報道がなされています。その原因の一つは人とのコミュニケーションができなくて、悩んでいる学生が多いことです。ある学生の場合には、インターネットで大麻を吸うと気分が高揚して人とのコミュニケーションがしやすくなる、という情報を得ましたので、一度吸ってみようという気になったそうです。しかし大麻を常用した結果、精神状態がおかしくなり、入院する羽目に陥りました。今は健康が回復したので学校に戻りたいのですが、学校には大麻の仲間がいて怖くて戻れないというのです。
 また、小学校や中学校でいじめの問題が依然として発生しています。この状態を改善するために、多くの人々が努力していますが、いじめをなくすることは困難です。
 結局一番大切な問題は、健全な人間関係をどのようにして作り出すか、ということであります。

(2) 自己嫌悪からの癒し
 聖書の中で語られていますザアカイも、彼の一番の悩みは人間関係にありました。
「この人は徴税人で、金持ちであった。」(19:2)と記されています。
 これはザアカイがどういう人物であったかの極めて短い紹介文であります。しかし、これだけで彼がどれほど深刻な人間関係の破れを経験していたかを十分に示しています。徴税人という職業のため、同胞のユダヤ人から嫌悪の情をもって見られていたのです。
 ところで、徴税人の仕事は国家が税金を徴収するという公務を民間人に委託したものでありましたから、それは決して非合法の商売ではありませんでした。さらに、彼らはローマの総督が定めた税金の額以上に徴収し、上納した残りの金が自分たちの給料となるという制度のもとで、徴税の仕事をしていました。
 ザアカイは税務署の下請け業者として、大いにその手腕を発揮したのです。というのは、エリコの町は交通の要所であり、いろいろな物品が集まってくる賑やかな町でしたので、交通税や物品税をたくさん取ることができました。その結果、ザアカイは一代で財産を築き上げ、その地方で有名な金持ちと呼ばれるようになりました。

 しかし選民思想を抱いているユダヤ人から、ローマの手下となり同胞を裏切る者として、徴税人たちは激しい非難を受けました。さらに、世俗の利益だけを追求している信仰の落伍者として烙印をおされました。このようにザアカイはユダヤ人社会から排斥され、嫌悪の的になっていたのです。他方またザアカイ自身もユダヤ人に対して心を閉ざし、ユダヤ人を嫌悪していました。
 しかし、ザアカイという名前は、大変立派な名前です。それは「正しい者」あるいは「義なる者」という意味です。たいてい人の名前は、子に対する親の期待を表しているものですが、ザアカイの場合はまったく期待はずれでした。彼は親の気持ちを無視して、不正な人間になってしまったのです。
 ここに、ザアカイは自分がどうしてこのような人間になったのかという悩みがあり、まさに彼は自己嫌悪に陥っていたのです。
 それに致しましても、ザアカイは元来性格の明るい積極的なタイプの人間でした。徴税人の仲間たちと共にいるとき、あるいは家族に囲まれているときには、持ち前を発揮して、彼の頭はよくひらめき、大変機知に富んだ話をして皆を喜ばせたことでありましょう。確かに、徴税人たちの間では、頭として信用されるだけのことはありました。
 しかし、人間は一部の人たちに対して善意を抱いていましても、その善意が外部の人たちに向かっては開かれていない場合には、その心は歪められ、自由ではないのです。ここに人間の深い悩みがあります。

 ある作家は、「人間は誰しも、他の人から完全に理解されるということはありえないだろう。誤解されたままで生き、誤解されたままで死んでいく。わたしを知っているのはわたしだけ。わたしは一人きりのわたしなのだ。」と言っています。非常に現実的で、割り切った考え方です。この作家は自分の孤独を直視し、雄々しく自分の孤独を自分で背負って、自由に生きよう努力した人です。
 だが、人は真に勇気と自由をもって自分の人生を生きることができるためには、自分の心の中にある深い空洞がまず埋められなければならないのです。
 人の心の中には、一つの底なしの穴が開いていると言えます。その穴はどんなものを投げ込んでも絶対に埋めることはできないほど深いのです。山のような富を、健康を、名誉を、多くの知識をその中に投げ込んでも埋めることのできない底なしの穴です。その穴が満たされない間は、わたしたちの心は本当の自由がないのです。
 従いまして、それは神によって満たされなければならないのです。この深い穴を埋めることができる方こそ、真の神なのです。ザアカイの場合、主イエスに見いだされ、彼の家に主イエスが客として泊まられたことによってそうなることができました。
 主イエスは人と出会った時、その表情を見るだけで、その人の心の中が手に取るように分かったのです。ザアカイが主イエスを一目見たいという大いなる好奇心と、またとっさの機転を利かせて、道端の木に登り、こちらに向かって歩いてこられる主イエスを見つめました。その時、主イエスはザアカイの心の中を見抜かれたのです。
 旧約聖書の時代の預言者たちも人の心を見抜く能力を持っていましたが、イエスの能力は彼らのものより、はるかに優れていました。それはイエスが完全な愛と全く罪のない心とを持っておられたからです。イエスは愛の感受性により、人の心の一番奥まで感じ取ることができました。
 イエスの心の鏡には、人の心の思いが、そのまま映し出されるのです。イエスは自ら何一つ罪を犯されませんでしたが、あらゆる試練と誘惑に出会われたからです。そのとき激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力を持った父なる神に祈り、深い信仰のゆえに聞き入れられた方であったからです。そのために、人の弱さと試練の辛さとを思いやることができたのです。
 さらに人の罪と弱さとを自分自身のもののように感じ、それらを共に担ってくださる方であるからです。それだから、人の心の中にある悲しみ、恐れ、不安をすべて知り、そしてその人が真の喜びと勇気とをもって生きるようになるためには、何が必要であるかをご存じであるからです。
 人の心の中にある底なしの深い穴を、神様が満たしてくださるために、主イエスは来られたのです。

このことは、ザアカイが主イエスを求める前に、主イエスがザアカイを探し出し、ザアカイのところに来られたことを意味しています。
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は是非あなたの家に泊まりたい。」(19:5)
このようにイエスは、木の上から主イエスを見下ろしているザアカイに仰せになりました。ここに主イエスの先行する思いと決意とがある、と言えます。
このギリシャ語では、「わたしは今日、あなたの家に泊まらなければならない」という言い方です。これは先行する神の決意、神的な必然性を表した言い方なのです。
この主イエスの計画を聞くや否や、ザアカイは飛び上がるように喜び勇んで、主イエスを自分の家に迎え入れました。このようにして彼は主イエスと親しく交わる機会を与えられたのです。
ザアカイは主イエスと話し、御声を聞き、御顔を見つめているうちに、神は人間の思いを超えた無限の愛と赦しをもって、自分の目の前に臨んでいてくださるのだ、と感じました。
さらに、ザアカイは主イエスが自分と親しく話されるために、ユダヤ人たちから、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(7節)という激しい非難を自ら引き受けてくださったことに、大きな感動を覚えました。
これほどまでに自分のために犠牲を払ってくださる方の有難さを、身に染みて感じたのです。このようにして主イエスは自分の本当の友となってくださり、自分と運命を共にし、どこまでも連帯してくださることの嬉しさを感じたのです。そしてこのことは実に罪の全くない完全に正しい人である主イエスがザアカイの罪を担ってくださったことに他ありません。

(3) 感謝の献身
 さらに、主イエスのこの態度と言葉を通して、人間の目に見ることのできない聖なる生ける神がザアカイの罪を赦し、ザアカイ自身の心の中に入ってきておられることが信じられました。
 そのとき、ザアカイは心の中に光を受け、その光が彼の心を外部の人たちに向かって開かせました。
 彼は立ち上がって、自分の決意を主イエスの御前で告白したのです。
 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)

 旧約聖書の律法によりますと、人からだまし取って物は二倍にして返さなければならないのです。ここでザアカイは、律法の要求以上に、すなわち四倍にして返すことを自分で決心しました。
 否、それだけではありません。今や、彼は大胆極まる愛の業を行う者となったのです。貧しい人たちに自分の財産の半分を与えることを決意しました。そのような愛の行為は律法には定められていません。彼が自発的にしたのです。自分がこれまで苦労して得たものを、惜しげもなく、喜んで人々に与えたのです。

 今や、彼は決定的に変えられました。彼は神の愛を知って、貧しい人たちの苦しみと悲しみとを自分のもののように感じる人となったのです。それゆえ、彼らを幸せにするために、自分を与えるようになりました。
 しかも、自分を罪人呼ばわりし、軽蔑し、嫌っていた人たちに対して、彼は熱い愛を感じたのです。これはこれまで外部の人々には反感と冷淡さを抱いていた閉鎖的なザアカイとは、まったく別人のアカイです。周囲の人たちが明るく幸せな生活をして喜ぶ姿を、自分自身の喜びとするザアカイに変わったのです。

 本当の愛は、人々が幸いになることを自分の喜びとするものです。人が不幸である時、その悲しみを共にすることは比較的容易にできますが、人が幸いになったとき、それを喜ぶのは競争心の強い者には難しいのです。しかしそれができるのが本当の愛です。

 さらに、本当の愛は自分が出会う隣人に例外なく向けられるものです。自分の仲間に限定するのではなく、すべての隣人に例外なく向けられるものです。自分の好みによって、愛の向う対象を選ぶのではなく、神様が自分に出会わせてくださった隣人が、愛の対象なのです。信仰者は自分の中にいます神が、自分の愛すべき対象を選んでくださることに従うのです。それゆえ、教会における交わりは、常に私たちの出会う隣人に対して開かれた交わりでなければなりません。 
 まことに、ザアカイが自分の隣人に対して、愛の業を行い得たのは、自分の中に入ってこられた神様に自分を献げたからです。彼は感謝の献身をしたのです。
 ザアカイの決心を主イエスはご覧になって、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われた者を探して救うために来たのである。」と仰せられました。
 主イエスはザアカイに対して非常に喜ばれました。主イエスの目には神の喜びが輝いていました。

 その時、ザアカイは自分に向けられている主イエスの瞳の中に、これから自分の成るべき姿が映っていることを知りました。しかしザアカイの献身は一回限りのものではありません。今後もそれを繰り返すことによって、彼は主イエスの瞳の中に移っている自分の姿に近づきえるのです。

 ザアカイのこの感謝の献身は、今日のわたしたちにも当てはまります。現在本当に私たちの心は、陰湿ではなく、明るい喜びに満ちているでしょうか。わたしたちの愛は、隣人に対して本当に開かれているでしょうか。自分の仲間に入らない人も、仲間と同じように取り扱い、接しているでしょうか。また、わたしたちは本当に感謝しているでしょうか。本当の感謝には、いかなる暗さもありません。
 
 最後に大切な点は、この愛の業は信仰とともに始まるということです。わたしたちが主イエスを信じる者となった時点では、まだ隣人を愛することはできない。その後に徐々に隣人を愛することができるように成長していく、というのではありません。人は信じることによって、隣人を愛し始めるのでなければ、その人はまだ信仰に至ってはいないのです。
他方、愛が信仰に先行するというのでもありません。まず愛の業を行うことによって、その後に信仰が始まるというのではありません。実に、信仰と愛とは同時に始まるのです。
なぜならば、わたしたちは主イエスを信じることによって、わたしたちの存在の基盤が自分自身の中から、主イエスの中へ移されて、わたしたちは神と人とを愛する在り方へと決定的に変えられるからです。わたしたちは主イエスを信じるとき、まさにそのことによって、自分の在り方が、神と人とを愛する在り方以外の何物でもない、という状況の中に移されているのです。
 ザアカイは主イエスを信じて、主イエスを自分の心の中に迎えたとき、彼は直ちに隣人に対して心を開き、隣人を愛しました。
わたしたちも主イエスを信じるとき、主イエスにあって、神に祈り、隣人を愛することを唯一の喜びとする者にされているのです。ここに主イエスを信じ、主イエスの中に自分の基盤を与えられる者の喜びがあります。それゆえ、主イエスを信じる者は感謝して神に祈り、喜んで隣人を愛するのです。ここに主イエスの中にある者の幸いがあります。



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