2010-05-30(Sun)

聖書を証しする聖霊 2010年5月30日礼拝メッセージ

聖書を証しする聖霊
中山弘隆牧師

 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊あなたの口においたわたしの言葉はあなたの口からも、あなたの子孫の口からもあなたの子孫の子孫の口からも今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われる。
イザヤ書59章20~21節

 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章6~16節

(1) 聖書とは
 今日聖書は世界でベストセラーであると言われています。それは聖書が今日の人間に示す様々な価値によってです。確かに、聖書は古代に書かれた書物です。また聖書が完結するまでには、千年以上に渡る時代的な背景の中で書かれています。その聖書が人間について、この世界について語る場合に、現代でも通用する価値を持っています。これが聖書は不朽の書物であると呼ばれる所以であります。
 しかし、それは聖書がわたしたちに対して果たしている役割ではありません。聖書はあくまでも、わたしたちに神を信じさせ、神を知るようにするために、そしてわたしたちが神を礼拝し、神に従う人生を送るようにするために、書かれた書物です。
 日本基督教団の信仰告白の中で、聖書についてこのように記されています。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて神につき、救いにつきて、全き神の知識を我らに与うる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」
聖書は旧約聖書と新約聖書を合わせて、一つの書物としたものです。この聖書は旧約聖書39巻と新約聖書27巻とを合わせて、66巻の書物から成り立っています。従いまして、すべての書物が書かれるまでには約千年に近い年月がかかっています。またそれを書いた人間は実に何十人も、あるいは何百人もいたことでありましょう。そのようにして書かれた書物が信仰と生活の規範である正典として承認されるためには、なお何百年もの時の経過が必要でした。多くの教会会議で多くの神学者や教職の検討を重ねてようやく決定されたのです。
しかし、聖書は決して教会が制定したのではありません。教会はあくまでも聖書に聞き従いつつ、正典としての聖書を編集したのです。従いまして、聖書が書かれ、聖書が正典となったすべての場面を導いたのは、聖霊であります。その意味で聖書の主管者は聖霊であります。
それゆえ、日本キリスト教団の信仰告白では、聖書は神の霊感によって成ったと告白されています。また、テモテへの手紙二、3:16でこのように教えています。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」
この意味は、聖霊に導かれた預言者たちやキリストの使徒たちが「神の言葉」として語った「メッセージ」が中心となり、その神の言葉に基づいて信仰生活について教え、勧め、あるいは訓戒した様々な教えが聖書を構成している、ということです。

(2)聖書はどのようにして神の言葉となるか
 それでは次に、そのようにして成立した聖書をわたしたちが読む場合、聖書はどのようにして神の言葉となるのでしょうか。
 聖書は聖霊によって預言者たちやキリストの使徒たちが語った神の言葉である以上、聖書の言葉がそのままで神の言葉であるのは当然なことでしょうか。そのように考えている人々がいます。しかしそれは正しくありません。なぜならば、聖書における神の言葉は、預言者たちや使徒たちの人格というフィルターを通して語られていますので、聖書に書かれている言葉それ自体はあくまでも人間の言葉であるからです。神に出会って、神の言葉を聞き、その言葉を伝えた預言者たちや使徒たちは、自分たちの聞いたこと、理解したことを人間の言葉で表現しています。
 それに対して、神の言葉とは神様がわたしたち人間に出会い、生ける人格としてご自身の意志を語られることなのです。そして言葉と共に、ご自身の霊的な命を人間に与えられる場合に、わたしたちは神の言葉を聞くことができるのです。もしそういう出来事が起こらなければ、聖書の言葉はただの人間の言葉に止まっています。  
従いまして、預言者たちや使徒たちにご自身を現して、神の言葉を語らせた神ご自身が、聖霊によって、その言葉はわたしが語ったのだと仰せになるとき、そして預言者の言葉を通して、神ご自身がわたしたちに語られる時にだけ、預言者や使徒たちの言葉は神の言葉となるのです。 
以上の意味で、聖書の本当の意味を知らせる方は、聖霊なのです。聖霊がわたしたちの心を照らすとき、否それ以上に聖霊が神の活力をわたしたちの心に与えられるので、わたしたちは聖書の言葉を神の言葉として、正しく理解することができる、と宗教改革者カルバンは教えています。カルバンは聖霊がわたしたちの心に臨在され、わたしたちの心を強められるときにだけ、わたしたちは聖書の言葉を通して、生ける神の意志を知ることができると言っています。

本日の聖書の箇所でありますコリントへの手紙一、2:6~16で次のように説明されています。これは非常に大切な箇所です。特に、10節から12節が重要です。
「わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。人間のうちにある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神からの恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」
ここで言う「霊」とは、「聖霊」のことです。神は父・子・聖霊の完全な交わりの中に存在される唯一の神です。この聖霊は、神の深みまで究められる方です。神の思い、意志、力を完全に知っておられる方です。神は神以外の者によっては絶対に知ることのできない方です。それゆえに神なのです。神様は造られたすべてのものを超越しておられる方です。神様は造られたすべてのものとは異なる絶対的な他者です。この唯一の生ける神が人間にご自身の意志と恵みを知らせるために、人間の心の中に聖霊を与え、聖霊が人間の心の中に働き、神を人間に知らせられるのです。今や主イエス・キリストを信じる者の中に、聖霊が臨在されます。そのことによって、わたしたちは聖霊によって、聖霊の霊的な力によって、わたしたちの心と知性が強められ、聖書の言葉を通して、神の意志と性質とその働きを知るのです。神を恵み深い主権者として知るのです。言い換えれば、神が主イエス・キリストの中に与えてくださっている恵みを知るのです。
そのことによって、わたしたちは神の意志に従って生きることができるのです。そこに信仰者の生き方が完全に示されています。そういう意味で、聖霊はわたしたちの信仰と生活との規範としての聖書を、解き明かしするのです。どれほど強調してもまだ足りない点は、聖書を読むときに、人間は自分の理解力でなく、聖霊に導かれて、心が聖霊によって照らされ、霊的な力を受けるときに、初めて聖書の正しい意味が分かるという事柄です。同時にそこでわたしたちは生ける神と人格的に出会うのです。

次に、聖霊は旧約聖書の段階では、預言者たちの例外を除いてはまだ誰にも与えられていませんでした。何故ならば、神は聖なる方で、道徳的に完全に清い方でありますから、罪深い人間の中には臨在されないからです。このことは旧約聖書では、神を礼拝する祭儀に関する規定によって示されていました。
つまり、イスラエルの民が神殿で神を礼拝した場合に、神は民の心の中ではなく、民の外に、すなわち、神殿の中にだけ臨在されたのです。さらに神殿の一番奥にある至聖所の中においてだけ、大祭司は年に一度神の御前に出ることができました。これは神が旧約における最大の預言者モーセを通して命じられた規定です。この礼拝規定は旧約聖書のレビ記16:2以下に記されています。
「主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである。アロンが至聖所に入るときは次のようにしなさい。」
この規定によって、大祭司は犠牲の動物の血を携えて、至聖所に入り、贖いの座の上と、その前方に動物の血を注ぎました。贖いの座とは、イスラエルの民の罪で汚れている空間を清める場所です。その清められた空間だけに神が現れられるのです。つまり、これはイスラエルの民を罪から清めるためではなく、神殿の中の至聖所を清めるためでした。このように、旧約聖書の段階では、イスラエルの民は神の御前に出て、生ける神と出会うことはできなかったのです。それができるためには、民の罪が神の御前に取り除かれなければならないことを示していたのです。人間が神の御前に立って、神を礼拝するためには、人間の罪が贖われることの必要性を示していたのです。そういう形で、旧約聖書は主イエス・キリストによる人類の罪の贖いを予め示し、約束していました。
今や、神の御子が人間となり、自らの死によって、人類の罪を贖ってくださいました。その結果、主イエスを信じる者の心の中に聖霊が与えられ、聖霊は信仰者の心の中に住まわれるようになったのです。またイザヤ書59:21は次にように預言しています。
「これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると、主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口に置いたわたしの言葉は、……今も、そしてとこしえに、離れることはない、と主は言われる。」
このイザヤの預言も、主イエスの十字架の死と復活と高挙によって、聖霊が教会に降臨したとき、成就しました。
その結果、今や神は聖書の御言葉をもって、聖霊を通してわたしたちに語られ、わたしたちと出会い、わたしたちの心の中に臨在されますので、わたしたちは神を礼拝し、主イエスの霊的な命を受け、神の御心に従うことができるようになったのです。
わたしたちはこのことにより、神様との人格的な交わりの体験を深め、神様を一層よく知り、ますます神様に従うようになります。ここにクリスチャンの常に溢れ出る感謝と喜びがあります。信仰の確信があります。霊的な力があります。実に、感謝と喜びと確信と霊的力を発揮することがクリスチャンの真価であります。

(3)聖書をどのように読むべきか
 最後に、聖書は聖書全体で、一つの神の言葉を語っています。聖書の中で語られた神の言葉は実に多種多様ですが、首尾一貫しており、統一されています。神の目的と計画、そして神の命令と約束が示されており、他方、神が御自分の目的を達成するために現された神の行為が語られています。つまり、人間を罪と罪の束縛から解放し、神の主権を樹立するというテーマが聖書全体を貫いています。
従いまして、わたしたちが聖書を読むとき、この神の言葉の統一性を発見する必要があります。よく聖書は聖書自身が説明し、証言しているといわれますが、それは聖書を一貫している神の意志と目的、そしてその成就を理解することが聖書を理解する鍵である、という意味です。言い換えれば、聖書の鍵は主イエス・キリストです。
聖書全体は主イエスを証しているのです。旧約聖書は主イエスの到来を準備する期間であります。それは神様によってなされた教育の期間です。従いまして、旧約聖書で神の民イスラエルに対して神様が命じられた律法は、一つの重大な限界がありました。そもそも、神の命令は主イエスの救いと恵みの中で行うことのできる性質のものでありますから、主イエスが律法を再解釈されたことにより、始めて有効となったのです。同時に、主イエスがそれは神の意志であると認められない様々な律法はそれゆえ、新約聖書の中では廃止されました。
他方、新約聖書は主イエスの到来によって神の究極的な救いが実現したことを語り、主イエスによって為された罪の贖いと復活により、神の主権が確立したことを語っています。それゆえ、主イエスを通して語られた神の命令に対して、クリスチャンはそれを重視し、実行することに真剣でなければなりません。その理由は、それこそクリスチャンが神の恵みの中に生きる道であるからです。
そのような神の恵みの下での信仰生活は聖霊の導きと支配の中で前進し、救いの完成に向かっていくのです。聖霊はそういう意味で、主イエスの救いの完成者として、クリスチャンの中に住み、クリスチャンの生活の支配者であります。
これを別の視点から見れば、主イエスは聖霊を通してわたしたちの中に働き、わたしたちの罪と弱さを担い、ご自身の義と霊的生命をわたしたちに供給されるという仕方で、わたしたちの中で働いておられます。従いまして、わたしたちは聖書の御言葉に聴くとき、わたしたちを担っておられる主イエスを見詰めることができるのです。そこにおいて、わたしたちは主イエスから人格的な感化を受けます。そのようにして、わたしたちは自分の抱いている「キリストの思い」(2:16)をいよいよ鮮明にし、わたしたちの心に脈打たせ、キリストの思いを自分の行動の動機と目標として、努力すべきです。
それゆえ、聖書を読むとき、つねに聖書の言葉をもってご自身を示し、聖霊を通して、わたしたちの中に働かれる神様に直面しているのだ、と自覚することが特に必要です。つねに祈りをもって聖書に聴き、聖書の御言葉を心に留め、考え、理解するのです。これは神様の与えられる恵みの出来事なのです。そうすることによって、主イエスにおいて、聖霊を通して、神様ご自身がわたしたちの中に働かれることが確信できます。
さらにわたしたちは自分の未来を神様の働きとして理解し、肯定するのです。実にそこから、わたしたちの生活は常に新しく始まります。




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