2017-08-13(Sun)

憐みの福音 2017年8月14日の礼拝メッセージ

憐みの福音
中山弘隆牧師

 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき/その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから/鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせると/主は言われる。
ホセア書11章8~13節


 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書20章1~16節


(1)福音とは何か
 福音とは「神の救いを人間に告げ知らせる喜ばしい神のメッセージ」と言う意味です。それは人間の思い、人間の願い、人間の行動に先立つ神の人間に対する熱い思いから出た、神の救いの事実を知らせる神の言葉です。
 わたしたち人間は、誰でも自分の弱さを持っています。苦労や悩みの多い者たちです。自分の力ではそれを解決できないし、周囲の人々に助けを求められないので、孤独と絶望に陥ってしまいます。
 しかし、神は存在し、働いておられます。そのような方として神は全知全能です。人間や他の被造物とは異なり、すべての事柄、出来事の一部始終が神の前に明らかになっています。
 しかも神は人間を創造された方でありますので、人間を愛し、人間が滅びることを欲せず、神から遠く離れてしまった人間を救うと決意し、そのために働いて来られた生ける神です。旧約聖書の時代に、神はご自身の熱い思いを預言者ホセアによって示されました。ホセア書11章8~9節の言葉です。
 「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことできようか。--わたしは激しく心を動かされ、憐みに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」
 これは、神に対する不信仰と反逆の民イスラエルがアッシリア帝国の侵略によって国家滅亡の危機に直面したとき、神は無限の愛と憐みをもって、神のもとに立ち帰れと、呼びかけられた言葉です。
 ここに神の熱意が現れています。しかし、イスラエルは神に立ち帰ることを拒み、遂に国家は滅びました。
 さらに次の時代には、神の民ユダも、新しく世界の覇権を掌握したバビロン帝国の侵略を受け、国家滅亡の危機にさらされていました。そのとき神は預言者エゼキエルによって、呼びかけられました。 それはエゼキエル書33章11節の言葉です。
 「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主は言われる。わたしは悪人の死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」
 イスラエル国家もユダヤ国家も、神の民として選ばれ、神を信じ、神に従う生き方をすることによって、神の恵み深い支配と配慮を世界の民に証する使命が与えられていたのですが、彼らはこの世の悪に感化され、神に対する反逆の道に突き進みました。その結果、ユダ国家も滅びたのです。
 それでもなお、神は民を愛し、彼らを憐れわれました。しかし、神は神の選ばれたイスラエル民族だけでなく、人類の創造者として、人類を愛し、人類が滅びることを欲せず、人類を神に立ち帰らせるために、「唯一無二」の決断と「最終的行動」を取られました。御子イエス・キリストを神の許から人間の世界へ遣わされたのです。
 その方は永遠の昔から神の許に存在していた御子が現実的に歴史的に一人の人間となられた御子イエスです。御子イエスは地上の生涯の歩みの中で、生ける神を啓示し、同時に御子イエスご自身が父なる神の命令を実行されたことにより、人間が神に立ち帰る道を樹立されました。それゆえ、御子イエスはすべての人間の救い主です。
 地上での生涯の頂点は十字架の死による人類の罪の贖いです。すなわち、神は人類を罪の支配から解放し、そのことによって神のみ前に生きる新しい人間を御子イエスの内に創造されたのです。
 その結果、父なる神は御子イエスを復活させ、ご自身の主権を御子イエスに委任し、御子イエスを全宇宙と人類の支配者である主イエス・キリストとされました。それゆえ今や主イエスは父なる神と同様に全能の神として働き、同時に地上の生涯で語り、行動された御子イエスとして働いておられる救い主なのです。
 それゆえ、主イエスを信じることは神を信じることです。主イエス・キリストを知ることは神を知ることです。主イエスに従うことは神のみ前に生きることです。
 
(2)神の無限の愛と憐れみ
 主イエス・キリストは今や救い主として、神の愛と赦しについて、多くの譬えを用いて語られました。その中の一つが本日の聖書の箇所(マタイ20:1~16)、ぶどう園の労働者の譬えです。
 「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」(マタイ20:14)
 この譬えの背景には、当時のエルサレム社会の経済の不況があります。ヘロデ王による神殿建設の時代は好景気でありましたが、神殿完成と共に当時は18000人の失業者がいました。善良な恵み深い「ぶどう園」の主人は、神が恵み深い方であることの譬えです。
 労働者に深い同情をもって処遇したぶどう園の主人のように、神は善良で、親切で、憐み深く、今も行動しておられる。言い換えれば神は罪人や取税人たちに、全くそれに値しない神の救いの分け前を与えられる。それは神の憐みが無限であるからだ。それゆえ、「わたしもそのように行動している」と御子イエスは仰せになりました。
 この譬えの中で、朝から晩まで働いても受け取った報酬は、夕方1時間しか働かなかった者と同じ1デナリオンであったことに憤慨した人たちとは、実はファリサイ派の人たちの譬えなのです。
 彼らは、イスラエルの中で、自分たちが模範的な信仰者であると自負していました。彼らは神の命令である律法を守ることに非常に熱心でした。敬虔な生活をし、品行方正な者となるために努力していた人たちです。しかし、彼らは自分を余りにも正しい者と評価し過ぎていました。それゆえに、御子イエスが信仰生活の落第生である罪人や取税人を招き、彼らに救いを与えようとしておられることに憤慨し、イエスを信じようとはしなかったのです。
 この彼らに対して、イエスは神の福音を弁明し、彼らが福音を受け入れるように、罪人に対する神の無限の愛、無限の憐みを知らせようとして、この譬えを用いられました。譬えの中心は、罪人をなおも愛し続ける神の憐みの深さ、大きさです。それは正に無限です。
 神の無限の憐みの前では、人間的な判断によるファリサイ派の人々の正しさと、信仰の失格者として軽蔑されている人々の邪悪さとの区別は、最早通用しないのです。なぜならば、御子イエスによって語られた罪の赦しの御言葉は、それを聞いて信じた罪人に前代未聞の変化をもたらしたからです。
 この点については、御子イエスは「借金を免除された二人の譬」で説明しておられます。ルカによる福音書7章36~50節です。この譬えは御子イエスによって、神が与えられた罪の赦しの出来事の中で、その霊的現実の説明として用いられています。
 つまり、御子イエスが会堂に入り、罪の赦しの福音を説教され、イエスの説教を聞いた大勢の人の中に、悪名高き一人の女性がいました。彼女はイエスの御言葉を信じました。するとどうでしょうか。自分が本当に神様に赦されたことが分かったのです。言葉では到底言い尽くせない大きな感謝と喜びが与えられたのです。なぜなら、罪人を赦されるときに、天には「最高の喜び」があるからです。実に御子イエスは、「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:7)と仰せられました。
 罪人を赦すことが「神の最高の喜びである」霊的事実を知るとき、罪を赦された人に無上の喜びが沸き起こります。神様が「わたしを喜んでくださること」、これより大きな幸いは他にないと思うのです。
 イエスの説教を聞いたファリサイ派のシモンもイエスに敬意を表して食事に招待しました。この女性は感謝を言い表すために、シモンの家に来て、イエスの足もとにひれ伏しました。思わず溢れ出る感謝の涙が、イエスの足を濡らしたので、とっさに自分の髪の毛で拭き取り、イエスの足に接吻し、持ってきた香油をイエスの足に塗りました。それは自分を罪の渕のどん底から救ってくださった「命の恩人」に対する感謝の表明でした。
 しかし、ファリサイ派のシモンはなぜイエスが罪の女にこのようにさせて置かれるのかが疑問で、イエスに強い不満と疑いを抱きました。そのとき、イエスはシモンに対して、神の憐みの霊的現実に目を向け、心を開くように仰せになったのです。
 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)
 ここで注意が必要です。神の憐みは無限である。そして神の赦しは一度宣言されたならば、撤回不可能な赦しであるという霊的現実を、イエスは多く赦された者は、多く愛し、少し赦された者は、愛することも少ないと言う言い方をされているからです。
 これは愛することが量的に多いか少ないかの問題ではありません。
この意味は、罪を赦されたこの女性は、感謝と喜びに満たされて、自己をイエスに献げ、イエスに従う生活に入れられた。
 それとは対照的に、シモンは自己の正しさに寄り頼み、神に対する溢れる感謝と献身の喜びに欠けています。正に、シモンのこの状態が、シモンを神から遠ざけているのです。このことをシモンが自覚し、神の赦しを信じるようにと、イエスは彼を促しておられます。
 実に神の赦しは人智を超えた無限の憐みによるものであり、主イエスを通して語られる赦しの言葉を信じるとき、人はだれでも、いかなる状態にあっても、罪を赦され、神との人格的な交わりの中に入れられます。
 それは最早、撤回不可能な「神の最終決定」です。その唯一の根拠は、主イエス・キリストの十字架の死による人類の罪の贖いです。

(3)日毎の感謝の献身
 御子イエスは人間として地上の生涯を過ごされるときに、父なる神への愛と従順により全く罪のない生涯を送られた方として、救い主の使命を生涯の最後に全うされました。それが十字架の死です。主イエスご自身は試練と誘惑を絶えず受けられたゆえに、「人間の弱さ」を同情することのできる実に「憐み深い方」なのです。
 それゆえに、自ら進んで、ご自身を人類全体と連帯化させ、人類のために、人類に代わって、人類の罪を背負い、人類に代わって罪を告白し、人類に代わって裁きを受け、人類の罪に対する父なる神の裁きに全く従順でした。そのことを通して、「神の義と真理」が十字架上でのイエスの死において、「人類の中」に貫徹したのです。
 その結果、神のみ前に生きる人類の道が開かれました。実に主イエスの十字架の死において、神の恵みの栄光が限りなく現れているのです。ヨハネによる福音書は、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハネ1:17)と宣言しています。
 従まして、エレミヤの「新しい契約」の預言は今や主イエス・キリストによって成就しました。それゆえ、神は主イエスを信じる者の罪を赦し、聖霊を通して主イエスの命が信じる者の中に働くので、信じる者は神の命令を実行できるようになっているのです。
 またこの点でも注意が必要です。愛の実行に関して、人はより多く実行することによって、救われるのではないと言うことです。あくまでも、人が救われるのは、主イエスの十字架と復活とによるのです。言い換えれば、主イエスの十字架と復活を信じることによって罪が赦されるのです。
 従って、わたしたちが実行する愛の業の大小は問題ではありません。問題はわたしたちが神に対する感謝をもって、自分なりに一所懸命に努力をすることです。その心と努力を神様は喜ばれるのです。
 罪を赦されている者が、神のみ前で生きる生き方が愛を実行することなのです。従って、わたしたちは、愛の業の多少について、思い煩うことはありません。否思い煩ってはいけないのです。主イエスは「思い煩うな」と仰せなっています。
 わたしたちはただ感謝をもって、わたしたちを導かれる主イエスを見つめ、一生懸命に従うとき、神のみ前に共に生きるのです。



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2017-08-06(Sun)

共存による平和 2017年8月6日平和聖日礼拝のメッセージ

共存による平和
中山弘隆牧師

 「立ち帰れ、イスラエルよ」と/主は言われる。「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」もし、あなたが真実と公平と正義をもって/「主は生きておられる」と誓うなら/諸国の民は、あなたを通して祝福を受け/あなたを誇りとする。
エレミヤ書4章1~2節
 

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカによる福音書10章25~37節


(1)平和聖日の意義
 日本キリスト教団では本日の礼拝を平和聖日礼拝と定め、平和のために祈る日としています。世界第二次大戦の終結以来すでに72年が経過し、その期間日本は平和を享受することができました。
 しかし、本当の意味で近隣諸国との相互理解と信頼による共存はできていません。そのため、日本は米国との同盟を強化し、米国の核の傘によって、国家の安全を守ろうとしています。これは神様の求められる平和では決してありません。
 このような状況の中で、日本キリスト教団では1967年に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を制定し、当時の鈴木正久議長の名で公にしました。これは「戦争責任告白」としてアジアの諸教会との和解の道を開きました。さらに「関東教区」では「日本基督教団罪責告白」を制定し、平和聖日礼拝で「罪責告白」をするよう各教会に呼びかけています。
 関東教区の総会で承認されました「日本基督教団罪責告白」の内容の第一点は、聖書に証しされている唯一の神を信じ、イエスを主と告白しながら、天皇を神とする国家体制を容認したこと、及びこれを近隣諸国の諸教会に強要したことを教会が犯した罪であると告白することです。
 戦時中に天皇を神として崇拝したことは、クリスチャンとして一番大切な主イエスに対する信仰を否定したことになります。なぜならば、キリスト教会は使徒たちの時代から一貫して、「イエス・キリストは主である」と告白して来ました。これが聖書の信仰です。ローマ帝国が国家を絶対化して、ローマ帝国の王カイザルを、礼拝するように国民に強制した時に、クリスチャンにも、「カイザルは主である」と告白させようとしましたが、クリスチャンは断固として、「イエスは主である」と告白を堅持したのです。
 世界第二次大戦のとき、日本のキリスト教徒は天皇が神ではないことを知っていましたが、それにも拘わらず国家の強制によって天皇を拝んだこと、それが最も重大な罪であることを認め、懺悔し、神に赦しを求めることによって、真の信仰に立ち帰りました。
 今でもクリスチャンの中には、政治と信仰は別であり、教会の中に政治問題を持ち込んではならない、と考えている人たちがいます。しかしその信仰は主イエスに対する信仰ではありません。なぜなら主イエスの主権は教会と教会に属する一人一人のクリスチャンに働いているだけではなく、諸国家や世界全体に働いているからです。
 従って国家も主イエスの支配のもとにあるのですから、国家には主イエスから与えられる使命があります。国家が自己を神聖なものとし、神が一人一人に与えられた良心と人格の尊厳を無視して、国民を支配してはならないという使命です。また国家は正義と公平と憐みを実行し、人々が安心して共に生きるようにする使命です。
 それゆえ教会はこの点で、国家の誤りを指摘する預言者的な使命が与えられています。現在の日本国憲法では天皇は国民の象徴となっていますから、天皇が国民の良心を支配することはありません。それは戦前の天皇が神として拝まれ、国民は天皇の意志に服従しなければならなかったことの反省として、憲法で象徴天皇制が定められたのです。
 神でないもの、すなわち人間や国家を神聖なものとするとき、その国家は使命を逸脱し、悪魔的国家に変質します。国民を総動員して、侵略戦争を開始し、その結果敗戦をもたらしました。これは正に歴史を支配される神の下された審判でした。

(2)主イエスの主権の特徴
 それでは教会が毎年8月の第一日曜日に「平和聖日」の礼拝を守る意義は何でしょうか。それは本当の平和をもたらすイエスの主権の特徴を知ることです。イエスの主権は人類の為に十字架の死においてご自身を与えられた犠牲に基づいていることを知るためです。
 父なる神が御子イエスの地上の生涯と十字架の死において、人類を罪の束縛から救われたこと、そして神のみ前に共に生きるようにするため、御子イエスを復活させ、父なる神の主権をイエスに授与されたこと、これを信じることです。イエスの主権を告白し、イエスの命令を実行することによって、平和を実現するのです。
 クリスチャンは自分たちが世界の平和と日本社会の平和を心から祈願していると考えている人が多いのではないでしょうか。しかし本当に心から平和を求めて祈るならば、自分たちは何もしないでも良いと言うことにはなりません。主イエスは山上の説教で次のように教えられました。
 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)
 このようにクリスチャンは平和を実現する使命が神様から与えられています。確かに、クリスチャンは日本の社会の中では少数です。しかし地の塩、世の光としての視点からすれば、弱くても大きな力を発揮することができます。
 それは主イエスに祈り、聖書の御言葉と同時に世界の現状から判断して、主イエスの御心を知ること、御心を実行すること、そして主イエスの支配を周囲の人々に伝えることです。
 確かに、世界や諸国家の中には、多くの争い、対立、敵対によって平和が危機にさらされています。そこには非理性的、非人間的な高慢、貪欲、偽りの宣伝、勢力争い、低俗な悪い欲望の蔓延など困難な問題が山積しています。しかし、主の支配は世界の隅々まで及んでいます。それゆえ主の御心に従うことが、結局問題解決の唯一の道なのです。
 
(3)主イエスの証人たち
 ところで、国家や社会に対する神の主権については、旧約聖書の預言者たちが多くの証をして来ました。従って、今日の国際状況に照らして、最も適切な指針を二、三の預言者の言葉から学びたいと思います。
 一人は預言者エレミヤです。エレミヤは本日の聖書の箇所で、「もし、あなたが真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。」と言っています(エレミヤ4:2)。
 「主は生きておられる」と誓うならば、と言うのは世界の「唯一の支配者」である神の「霊的な現実」の前で、畏敬の念をもって告白し、真実と公平と正義を実行すると言う意味です。そのことが諸国の民に神の平和をもたらすのです。
 もう一人は預言者ミカです。ミカ書6章8節です。
 「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
 それでは社会や国家の営みにおいて、「正義を行う」とはどういうことでしょうか。それは人間が実行すべき「愛の業」を道徳あるいは社会倫理の領域で具体的に示している「モーセの十戒」を実行することです。「人を殺してはならない、人のものを盗んではならない、偽証してはならない、貪ってはならない。」ということを社会生活面に適用すれば、正義を実行すると言うことになります。
 人を殺したり、盗んだり、偽ったり、貪ったりすることが犯罪であることは誰の目にも明らかです。他方、社会や国家の中で制度や法律によって、有力者や富める者のグループが自分たちの利益を追求するため、合法的に定めた法律により、弱い立場の人たちの生活が無視されるとき、それは正義の業ではなく、不正義の罪です。
 反対に、正義を実行するときに、人々は共存することができます。貧富の格差が生じた場合、税金によってそれを国家が調整し、貧しい人たちに富を還元するならば、貧しくても、健康で明るく生きられるようになり、共に生きる社会となります。現実的には、多少の格差は残るにしても、すべての人が生きられることが正義の業です。
 しかしここで留意すべき点は、正義の業が実行可能となるのは、歴史の唯一の支配者であり、歴史の唯一の審判者である神に対する「信頼と畏敬の念」によるということです。
 ミカはエレミヤと同様に、「へりくだって神と共に歩むこと」が重要であると強調しています。
 もう一人の預言者はイザヤです。
 それにしても国家や民族の存亡に関係する外交や軍事の領域で、国家が自分の力で、国民を守ろうとします。そのため軍備を増強し、また頼りになる国と同盟を結んだりします。
 預言者イザヤは国難の嵐に襲われて動揺し、混乱しているユダ国民や指導者に対して、次のようにエジプトとの同盟に走らず、主を信じて静かにしていることを勧告しました。
 「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」(イザヤ30:15)
 さらに次の31章で言っています。
 「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は、倒れ、皆共に滅びる。」(イザヤ31:3)
 このようにユダ国家はエジプトの同盟に頼ったため、新しく台頭してきたアッシリアの侵略と、その次に突如として出現したバビロニヤの世界制覇の激流に巻き込まれ、遂に国家は滅亡しました。
 日本人への提言をまとめた「日本人のための平和論」と言う題名の本を出版されたノルウェーのヨハン・ガルトゥングさんが次のように警告しておられます。
 「東南アジアは世界で一番危機的な状況に置かれていると言われました。危機を理由に、安倍政権は米国との結びつきを強めようとしている。しかし、危機の根源は米国への従属だと説明しておられます。なぜなら、自分自身は善で、刃向かう者を悪とみなす癖がある『好戦的な』米国に付き従えば、危険を呼び込むとガルトゥングさんは考え、『日本は独立国家たれ』と呼びかけておられます。」
 ところで独立国家になる場合に、自国の防衛は自分たちでする責任があるのですが、その場合にも一番重要なのは、利益の対立を武力によって解決するのではなく、対話によって利益の協調へと変える知恵と努力です。
 さらにもう一つの重要な問題は共存するために、自分たちの国家と異なる他の国家も自分たちの国家と同様に尊重し、理解する努力です。その場合に世界万民に通用する「人間性」に基づいた国家観を樹立することが必要です。安倍政権のように天皇を神として崇め従った「明治政府の国家観」を、今でも世界に誇るべき日本の優れた伝統であると考えていることが今日の「日本の危機の根源」です。それでは日本が世界諸国家の一員として生きることは不可能です。
 イエス・キリストは「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12:31)と命じられました。また、本日の聖書の箇所であるルカによる福音書で、人間は隣人を愛することによって、共に生きること、これが神の意志であると、教えられました。
 このキリストの命令は近隣諸国を「隣人の国家」と見る視点を与えます。隣人がそれぞれの価値観を持って生活しているのと同様に、隣人の国家が自分たちの国家とは異なる国家観をもっていても、自分たちの国家と共に世界の構成メンバーとして「同じ権利」を持っていることを認める視点、この視点が必要不可欠です。
 他方、武力によって自国の安全を守ろうとすることは、結局戦争につながる道です。米国の核抑止力に頼っている日本の安全政策は、日本が核戦争に巻き込まれる最も危険な政策です。
 主イエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)と仰せられました。主イエスの御言葉は、核抑止力に頼ることの危険性に対する警告としてわたしたちは聞かなければなりません。
 最後に、人道に反する核兵器は廃止すべきです。このことを祈るのがクリスチャンの務めです。



2017-07-30(Sun)

人を生かす平安 2017年7月30日の礼拝メッセージ

人を生かす平安
中山弘隆牧師

 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。ハンナは、「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。
サムエル記上1章12~18節
 

 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネ福音書16章25~33節


(1)祈りによる神との出会い
 本日の聖書の箇所は、旧約聖書時代に預言者として、神に召された有名なサムエルの誕生に関する物語であります。
 当時の社会制度として、一夫多妻制が一般的であり、サムエルの父エルカナには二人の妻がいました。一夫多妻制には、夫が二人の妻を公平に愛することは、人間的に難しいことです。夫が一方の妻を他方の妻よりも気に入ると、どうしても嫉妬による争いが二人の妻の間に起こります。外から見れば平穏無事に暮らしている家庭でも、家庭内の人間関係が原因で、様々な悩みがあります。
 この場合に、一方の妻ペニナは息子たちや娘たちに恵まれており、他方ハンナは子供が生まれないと言うハンディキャップがあるので、ハンナに対する露骨な悪意ある態度を取りました。そのようにハンナは苛められていたのです。
 それでもエルカナの家族は神を信じる敬虔な家族であったので、シロの神殿に毎年参詣しました。神殿に行って神に対する感謝と祈願の供え物を祭司によって祭壇に献げた後、神の御前で家族揃って食事をすることが神の恵みを体験する最高の喜びでした。そして最後に祭司の祝福の言葉を受けて家路についたのです。この礼拝がイスラエルの民の信仰生活の中心となっていました。
 それにしても、ハンナの悩みは大きく、神の御前で一緒にする家族の食事のときは泣いて何も食べませんでした。食事のときが終わるとすぐにハンナは祭壇の前に行って、泣きながら祈ったのです。この事は1:10~11節に書いてあります。
 「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみをご覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決して剃刀を当てません。』」
 ここで生まれる子の頭の毛を決して剃らないと言うのは、ナジル人として神に奉げるという意味ですが、その制度が民数記6章1~20節で細かく律法によって定められていました。ナジル人とは特別の誓願をして神に献げられた人のことであり、誓願の期間中は酒を少しも飲まず、頭の毛は剃らないことが命じられています。サムエルの場合は生まれる以前に母親によって献げられましたので、生涯に渡ってナザレ人とされました。
 ハンナはこのように自分の悩みのすべてを神に打ち明け、神の助けを祈ったのです。声を出さないで長い間、唇だけを動かして祈っていました。そばにいてハンナの様子に注目していた祭司エリは彼女が酒に酔っていると勘違いし、「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」と勧告したほどハンナは祈りに熱中したのです。
 そこで、彼女は「祭司様、わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んでおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎだしておりました。」(1:15)と答えました。この言葉を聞いて、祭司エリはハンナが本当に信仰をもって神に祈り、祈りを通して神との交わりが与えられていたのだと、悟りました。それゆえ「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」(1:17)と彼女を祝福したのです。
 「それからハンナは食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。」と聖書は伝えています(1:18)。
 このように彼女は神様に祈り求めることによって、生ける神ご自身と出会ったのです。そして神様はわたしの祈りを聞いていてくださると感じ、その場で神の御心は自分の思いを遥かに超えた聖なる意志であることを知り、神の御心が自分の中に実現することは、自分が生きる本当の意味であり、一番幸いなことであると悟りました。
 そして、わたしに男の子を授けてくださるならば、その子をナジル人として神様に献げようと決心し、そのことを神様に申し上げたのです。するとどうでしょうか。途端に彼女の心は平安と慰めに満たされたのです。
 再び元の生活へ戻って行きましたが、最早以前の暗い気持ちは消え去り、神様の御心が実現することを信じながら、神に従っていく彼女の心は常に明るく輝いたのです。
 この旧約聖書の信仰は、主イエス・キリストの到来と、主イエスの人格と言動を通して、特に主イエスの十字架の死による人類の罪の贖いと復活を通して、一層明瞭になり、完全な信仰となりました。
 なぜなら、主イエスご自身の存在と働きそのものが、罪人に対する神の愛であり、罪の赦しであり、罪人を神の御前に生かす神の恵みだからです。主イエスを信じることが生きる力を発揮するのです。
 それゆえ、人智を超えた知恵と力を持ってこの世界を支配しておられる神、しかも人間と異なって完全に聖なる方、道徳的に全く正しい、恵み深い神に対して、今やわたしたちは神に祈ることが可能となりました。神の御前に自分の思いと悩み、苦しみを正直に打ち明けるならば、神様は喜んで聞いてくださり、御心に適った方法で、生きる道を開き、わたしたちを導いて下さるのです。
 これは何と有難いことでしょうか。神様は主イエス・キリストにおいて、今やわたしたち一人一人に対して、いかなる人間、親、友達、信頼できるどの人々よりも、遥かに親しみ易い方なのです。それゆえ、わたしたちは神様に祈ることができるのです。ここにクリスチャンの最高の幸いがあります。この幸いを使徒パウロもフィリピの信徒への手紙で語っています。
 「どんなことでも、思い煩うことはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)

(2)神との交わりの霊的次元
 わたしたちは人生の危機において、誰でも、恐れ悩むのですが、神様はすべてをご存知で、御自分の方から危機に遭遇し悩んでいる者と出会い、神の御心と性質と力と働きを示されます。そして神は御自分がすべての人間の救い主であることを示し、神の導きに従い、御心を行うように命じられる方です。正にその神との出会いと命令がわたしたちを導き、わたしたちの生涯を決定します。
 明治の初めにアメリカ合衆国から日本に来て、キリストの福音を伝えるために、そして日本人が神の救いに与るために、全生涯を献げた宣教師バラ夫妻がいます。バラは29歳、夫人は20歳のとき、ニュークを出航し、アフリカの喜望峰を回って、インド洋に出て、中国の上海に到着しました。そこから乗客45人、船員89人の帆前船に乗り換え、日本を目指して航海しましたが、紀州灘で嵐に遭遇し、船は沈没しそうになりました。
 暴風が荒れ狂い、船内は方々で叫びと悲鳴を上げるパニック状態に陥りましたが、バラは一日中飲み食いせずに、ひたすら詩編107篇28~31節の御言葉を思い起こし、沈思黙考しました。
 その御言葉は、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い、望みの港に導かれて行った。主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」という神への賛美の歌です。
 バラは思いました。自分はこのまま死んでも構わないが、自分たちを送り出した改革派教会の伝道の計画が挫折することが一番の心配となったのです。それゆえひたすら祈ったのです。
 「神よ、この船が恙なく航海できるようにしてください。もし無事に横浜港に着岸できれば、わたしは誓って、身命を惜しまず、忠実に励んで、福音伝道の使命を全うします。」と必死に祈りました。
 その後40年を経た記念会で、彼は言っています。神様がこの誓いを果たさせるために、わたしを紀州灘で救ってくださいました。しかし40年を経ても、今までのことを顧みると、当時の誓いを自分の信仰と愛の業が未熟なため、頓挫した企画もあり、未だその志を果たすには至っていません。このことを思うと恥じ入るばかりですと、述べています。
 夫人は48年間も日本のために尽くし、69歳で天に召され、その墓は日本にあります。しかしバラ宣教師はその後も活躍し、全部で60年間日本の伝道のために尽くされました。牧師として礼拝の説教と牧会とそして伝道のために日本の各地に出かけ、89歳の生涯を終え、天に召されました。
 バラ宣教師は自分がこのようにキリストの恵みと神の愛の霊的現実に生かされているのと同様に、日本人がキリストを信じ、それぞれの魂がキリストの物とされ、日本人がキリストに属する者となり、神の御前に生きるようになるために、生涯を献げたのです。
 
(3)キリストの平和
 最後にキリストは弟子たちに語られました。本日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書16:33で次のように仰せになっています。
 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 ここで、主イエス・キリストはこれらのことを話したのは、「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」と仰せられました。 
ここで重要なことは、キリストの平和とは、わたしたちが平穏無事に暮らせると言う意味ではありません。なぜならば、「あなたがたは世では苦難がある。」と仰せになっているように、クリスチャンはこの世で暮らしている間は様々な困難、試練、苦しみに遭遇します。しかし、その苦悩に際しても、キリストによって平和が与えられるのです。試練に打ち勝つ心の平安が与えられると言う意味です。
 今日のわたしたちにとって一番必要なことは、人間が神様に創造された人間、そして罪から解放された人間として、神に従うことによって、最も人間らしく、逞しく、感謝と心の明るさを持って、謙遜に、そして人を尊敬し、理解し、隣人と共に生きることです。
 このためには、これしか自分の生きる道はないと言う厳しい境遇の中で、嘆いたり、悲観したりせず、それを受け入れ、喜んで自ら進んで、自分の果たさなければならない責任を自覚し、それを果そうと決意し、祈り、苦労し、忍耐しながら実行することです。
 そうすることによって人は神様から与えられる主イエスの命と義とによって、神の霊的現実と愛によって生かされているのです。
 そのとき人は動物や機械とは異なる人間力を発揮するのです。人間はだれでも体と心と魂を持っています。人間は体があので、働き、社会的な様々な人間関係の中で、自分の役割が果たせるのです。その体の働きを管理し支配しているのが人間の心です。従って、心の働きは、知性、理解力、意思、決断と行動、情緒、人間らしい様々な感情です。
 それでは、体と心とが健全であれば、家庭性格や社会生活において、人間力を発揮することができるのでしょうか。決してそうではありません。人間には魂があります。聖書でいう魂とは、人間の最も内部にある自己自身であり、責任を持って行動する主体なのです。実にその主体は人間が神様と人格的な交わりをする器官なのです。
 正に魂は、人間が主イエスを通して、神様と出会い、神の愛と恵みと義と聖に生かされるために必要な人間の器官なのです。それゆえ人間には魂があるゆえに、この世界を越え、神様との直接的、人格的交わりの中で生かされ、生きることができるのです。
 逆に言えば、人間に魂が与えられていると言うことは、人間が神との人格的関係の中で生きなければ、本当の意味で人間らしく生き、人間力を発揮することは不可能なのです。
 主イエスはわたしたち一人一人の魂に、主イエスの平安を与えると仰せられます。わたしたちは礼拝の中で、復活の主イエスの平安がわたしたちの魂に与えられるのです。
 主イエスの平安こそ、わたしたちの全存在に対する神の絶対的な肯定であり、神の赦しであり、悪と誘惑に勝利させる力なのです。
 魂の平安こそわたしたちに人間力を発揮させる霊的生命の泉です。



2017-07-23(Sun)

主を信頼して 2017年7月23日の礼拝メッセージ

主を信頼して
中山弘隆牧師

 イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。
創世記26章23~25節


 人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」
使徒言行録27章21~26節


(1)ローマへの道
 使徒言行録はキリストの復活の証人として立てられた使徒たちがキリストの福音を宣教した言行の記録であります。使徒たちは復活のキリストと出会い、福音の内容の啓示を受け、同時に福音宣教を命じられました。
 復活のキリストが共にいて、使徒たちを導き、聖霊を通して、彼らの中にキリストの生命を与えることによってなされた福音宣教でありました。それゆえ、使徒言行録は復活のキリストと聖霊の働きを記録した書であるとも言えます。
 東方でキリスト教に接したクリスチャンたちが商売や職業などで、ローマに移住した人たちがいて、彼らはそこで自分たちで礼拝を守っていたので、キリスト教会は既にローマに存在していました。しかし使徒言行録は、使徒たちによって福音がローマに伝えられたことによって、キリストの福音が正式に全世界に向かって語られたと見做しています。
 本日の聖書の箇所は、キリストの使徒パウロによって、福音が正にローマにもたらされようとしている場面を伝えています。
 「わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。」(27:1)
 パウロがローマに行くためには、その前に事情があります。彼はエルサレム神殿で礼拝をするとき、ユダヤ人のクリスチャン4人を連れていたのですが、ユダヤ人はパウロがギリシャ人を神殿に連れ込んだと誤解したのが原因で、ユダヤ人たちの怒りを引き起こし、エルサレルが大混乱に陥りました。そのときパウロは、ローマの守備隊に保護されましたが、ユダヤ教の指導者たちはこの混乱を引き起こしたのはパウロであると、ローマの総督に訴えました。しかも彼らはローマの総督に高額の賄賂を贈ったため、パウロの無実を承知しながら、総督はパウロを釈放しなかったのです。しかしパウロはユダヤ人でありましたが、彼の家はローマの市民権を持っていましたので、ローマ皇帝に直訴しました。このようにしてパウロは福音のために鎖につながれて、ローマ皇帝の前に立つことになりました。まことにこれは不思議な神の導きです。
 以前からパウロは福音を世界に広めるため、ローマの教会が福音宣教の拠点となることを見抜いていましたので、彼はローマに行く前にコリントの教会からローマの信徒に宛てた手紙を送っています。その手紙の中で、パウロは次のように言っています。
 「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」(ローマ1:10)
 その彼の祈りが答えられ、このような形で実現しようとしているのです。当時のローマ皇帝は悪名高きネロ皇帝でした。彼の前にパウロは囚人として立ったとき、それはまことに劇的な出会いでした。
 この世の栄華と権力の象徴であり、また悪の象徴であるネロ皇帝は、福音のために鎖につながれたパウロを見て、軽蔑と同時に恐れを感じたことでありましょう。愛と善意のために謙遜と苦難の中にあるパウロがキリストの救いの力をもってネロ皇帝の前に現れたのです。
 その後250年間も続いたローマ皇帝によるキリスト教迫害の時代を経て、遂にローマ世界はキリスト教に教化されるに至りました。

(2)嵐の航海
 次に聖書はローマへの道がまた嵐の航海であったことを伝えています。本日の聖書の箇所では地中海の航海が次のように記されています。
 「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の影を航海し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた。」(27:7~8)
 ここで、パウロの一行が逆風に出会って、航海したという出来事は、パウロの福音宣教の生涯に対する一つの比喩として見ることができます。彼は多くの点で、恵まれた立場にありました。良い家系に生まれ、生まれながらにしてローマ市民権を持っており、輝かしい精神と崇高な魂が備わっていました。
 しかしこれらの有利な点だけではなく、彼の生涯には幾多の逆風が吹き荒れました。彼はクリスチャンになる以前には、敏感な良心の呵責に悩んでいました。それが逆風でした。クリスチャンになった後はキリストの贖いにより、心に深い平安が与えられ、内面の嵐は静まりましたが、今度は福音を宣教するときに、それを阻む外側の嵐が吹き荒れました。
 同様のことが誰にでも当てはまります。順風のときは、自分のすることがすべての点でうまく運ばれます。しかし、遅かれ、早かれ、困難な時期が必ず来ます。だれでも健康でありたいと願いますが、そういうわけにはいきません。だれでも経済的安定を望みますが、不景気の時、失業して生活がひっ迫することがあります。すべての人は平和な世界を願っていますが、その幸いを享受するとは保証されていません。このように人生にはしばしば逆風が吹きます。
 ところで、逆風はパウロとその一行がローマに到着するのを阻むことはできませんでした。航海者は逆風を利用して航海する術を心得ているように、人は人生の不運から益を得ることを学ぶのです。この点パウロは良い例です。彼は自分の持っている弱さを嘆かず、その中で神を賛美しました。彼は肉体に刺さっている棘、言い換えれば彼は持病に悩まされていましたので、それを取り去っていただくように神に祈りました。そのとき主は次のように仰せになりました。
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリント二、12:9)
 それ以来、彼は自分の弱さを受け入れました。そして「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント二12:9)と言っています。
 彼はそれによって自分を舞台の主役にしたいという野心から解放され、自分を越えて、無私な立場に立って行動することを学びました。人間にとって大切なことは、何が起こるかではなく、むしろそれにどのように対処をするかであります。
 彼はキリストの恵みにより、自分を越えたキリストの思いをもって、人生の種々の境遇に対処できた人です。このことを彼は「キリストにあって生きる」と言う言葉で表現しています。
 「生きているのは最早わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)
 皆様も多くの試練と困難の中でも、キリストを信じて、それらに打ち勝つ心の平安を与えられておられると思います。信じることによって、与えられるキリストの平安が、自分を守っていることを知っておられると思います。この点がわたしたちの最大の幸せです。
 人はキリストにあって、自己の栄枯盛衰を越えることができるという事実が、人を真に自由にし、しかも最も人間的にするのです。自分の歩んできた人生を振り返って、もしもう一度生まれ変わってくると仮定しても、自分はこれまでと同じ人生を歩むだろうと言い切れる人は、極めて少数ですがいます。時々そのような人と出会うことがあります。そのような人は「自分の人生の運命」を愛する人だと言えます。しかし本当の意味でそう言えるのはキリストにあって歩む人です。
 なぜならば、キリストにあって神様に歩ませていただいた人生が、結局自分にとって最善の人生であると悟るからです。
        
(3)キリスト者の自由
 この章の前半には、逆風を支配したパウロの秘密を知る手掛かりが記されています。
 第一は、パウロは嵐と逆風の危険を避けるために可能なあらゆる手段を講じています。
 三回の世界伝道旅行を経験した彼は晩秋の地中海航海は極めて危険であることを知っていました。それゆえ、「良い港」と呼ばれるところに辿りついたとき、パウロは航海を来年の春まで延期するように提案しました。「皆さん。わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりではなく、わたしたち自身にも危険と多大な損失をもたらすことになります。」(27:10)
 このように、パウロは警告をしています。従いまして、逆風に抗して航海すると言いうことは、決して初めから無謀な冒険を試みることではありません。知恵を働かせて、逆風の条件を少しでも改善するために最大の努力をすることなのです。
 しかしそれでもなお、事態が悪化し、逆風を受けるようになることがあります。ここではパウロの提案が聞き入れられませんでした。それは百人隊長がパウロの意見よりも、船長や船主の意見を信用したからです。
 その時、「南風が静かに吹いてきたので、人々は望み通りに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく、『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き下ろしてきた。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。」(27:13~15)
 さらに、18節から20節にはこのように記されています。
 「しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具までも捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。」(27:18~20)

 第二に、このような絶体絶命の窮地の中で、パウロは自己を越えたキリストの精神の持ち主であることの特性を示したのです。それは敗北と死の中でも混乱することを拒むのです。
 それゆえ、パウロは船の中で立ち上がりました。このような危機の中で、一人の人間がその危機を乗り越えて、自分の周りに人々を結集するということは、何という素晴らしいことでしょうか。
 「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」(27:22)
 パウロと共に船に乗っていた人々は既に絶望していたのです。そのような人々に向かて、「元気を出しなさい」と言うことは、あたかも首に縄をかけられている死刑囚に、喜びなさいと言うのと同じで、全く不可能なことです。
 しかし、これがパウロの言った内容です。事態が崩壊する瀬戸際で、「静かにして落ち着いている」ことができるのです。実に驚くべきことです。その理由は、自己の思いではなく、自己を越えたキリストの思いに立っているからです。

 第三に、このような神の力を受けて、パウロはまた非常に現実的な手段を取りました。すなわち、皆に食事をとることを勧めました。
 そうすることがこれからの事態の経過の中で、自分たちの命を救う唯一の方法であることを教え、彼自身がパンを取り出し、神に感謝して食べ始めたのです。それに倣って皆が食事をしました。
 この嵐の中で、神に感謝して食事することが、自己を越えた者が取った行動です。感謝こそ自己の動揺を越える自由の現れです。
 結局、船は小さな島(マルタ島)の浅瀬に乗り上げ、船首は激浪によって破壊されました。それでも泳げるものは自分で岸まで泳ぎ、泳げない者は破壊した船の板に載せられて岸まで無事運ばれたのです。以上のことを考えますと、船の全員がパウロに励まされて食事を取ったことが役立ち、そのことが生死を分けたのです。
 パウロがこのように、自己を越えて、キリストの思いによって、考え行動したことが、実際ローマに到着することを可能にしました。実にこの確信の根拠は復活のキリストの言葉です。
 「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならい。神は、一緒にいるすべてのものを、あなたに任せてくださったのだ。」(27:24)
 パウロは聖霊の働きにより、キリストの意志を知り、信じ、それに寄り頼んで行動したのです。それによって破局から救出されたのです。



2017-07-16(Sun)

御言葉の実行 2017年7月16日の礼拝メッセージ

御言葉の実行
中山弘隆牧師

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。
イザヤ書55章8~11節 


 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
マタイによる福音書8章5~13節


(1)聖書の神に対する信仰
 従来の日本社会には、神々を祀る神社や仏に祈願する寺が多く見られますが、それらは聖書の神と根本的に異なっています。
 そのような神や仏は自己の意思と働きを持たず、神や仏としての性質が人間や自然の中に宿っていると思われています。そのような神は人間や動物、木や花、或いは山や川、すべてのものと融合している神々であり、汎神論的な神です。決して人格的な神ではありません。
 それに対して聖書の神は「わたしとあなた」、「我と汝」との対面の中で人間と出会い、交わりを持たれる人格的神です。その交わりの手段が神の御言葉です。さらに、御言葉は人間との交わりの手段だけでなく、実は神ご自身の存在と働きの仕方なのです。
 従いまして、問題は神がご自身を人間に現すために語られる御言葉を人間がどのように聞いたか、そして御言葉に応答して、何を為したかということです。そこに神の啓示と、神の救いが歴史的な出来事となって現れています。
 このような御言葉こそ、世界を創造し、人間を救う神の権威と力を秘めています。預言書イザヤ55章11節では、次のように証されています。
 「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
 このように御言葉は神の目的を表し、しかもそれを実現する神の力と働きなのです。それゆえ、神が永遠に生きる存在であるのと同じく、御言葉も永遠なのです。
 このことをイザヤ書40章8節は証しています。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
 同様に、「神の言葉それ自身」であります神の御子・主イエスも次のように仰せになりました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)。
 ここで、神の御子イエスは、ご自身を神として語っておられます。それゆえ、イエスの語られる言葉が常に生きて働く神の力なのです。イエスの語られる言葉は何と力強い人智を超えた壮大な展望を持っていることでありましょうか。

(2)イエスの御言葉に対する信仰
 本日の聖書の箇所、マタイによる福音書8章5節によれば、ローマ兵の百人隊長の忠実な部下が中風で、ひどく苦しんでいるので、隊長自身がイエスのもとへ来ました。そして部下が癒されるように懇願しました。イエスは彼の切なる願いを知って、「わたしが行って、いやしてあげよう。」(マタイ8:7)と言われました。
 そのとき百人隊長が言った言葉が、記されています。
 「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)
 ここには、イエスを通して、神が働いておられるという信仰と、イエスの語られる御言葉こそ、生きて働く神の言葉であるという信仰が見事に告白されています。この人はイエスを本当に信じていました。
 百人隊長は言葉の持つ権威と効力を、軍人としての立場から、認識していたものと思われます。彼は中間職として、上の大隊長の命令を受け、自分の部隊では部下に命令を与える立場でありましたから、上官の命令が絶対的な権威であることを日頃から熟知していたのです。しかし、その命令の権威は、軍隊の中にだけ通用する権威です。それに対して、イエスの命令は通用範囲のいかなる制限もありません。あらゆるところに通用する権威です。
 クリスチャンの中には、信仰は心の中の問題であり、信仰と政治とは別問題である、と考えている人がいますが、それは神の働きの領域を自分勝手な考えで制限しているだけです。
 さらに神の働きは、社会体制の区別を越えて有効です。資本主義社会であろうと、または社会主義的社会であろうと、或いは民主主義的な現代社会であろうと、国王が独裁的な主権者である古代や中世の社会であろうとも、神の求められる正義と公平と憐みが具体的に実行されるならば、そこに神の働きが現れているのです。
 問題はただ一つ、神の働きはイエスに対する信仰を通して現れるという事実です。なぜならば、主イエスの到来が旧約聖書で約束されていた神の救いの実現であり、神の究極な啓示であるからです。従って、ヘブライ人への手紙はその冒頭で言っています。
 「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1~2)
 このように神は旧約聖書の時代に語られた多くの神の言葉の集大成として、そして御子イエスを通して、究極的な神の言葉を語られたのです。それゆえ、イエスを信じることが、旧約聖書の神を信じることなのです。逆に言えば、旧約聖書の神を本当に信じているかどうかの試金石はイエスを信じるかどうかなのです。
 実に、隊長は神の究極的な言葉であるイエスを信じました。イエスはここで隊長の告白に接して、次のように仰せられました。
 「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」(マタイ8:10~11)
 ここでイエスはイエスの御言葉に対する信仰によってのみ、イスラエルの民であれ、異邦人であれ、人は誰であっても神の国に入ると、仰せられました。言い換えれば、人はだれでもイエスに対する信仰によって救われると言われたのです。
 しかしここで注意が必要です。神の力によって病気が癒されると言うことは、体だけのことではなく身も心も魂も全部救われると言うことなのです。それゆえ、イエスの言葉に対する信仰を言い表した百人隊長に、イエスは仰せになりました。
 「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」(マタイ8:13)
 ここで、「あなたが信じた通りになるように。」と言うギリシャ語の原文は、「あなたが信じたよう通りに、なれ。」と言う命令形なのです。
隊長はこのイエスの命令を信じたのです。
 わたしたちはどうでしょうか。きっと、皆様は信じておられるでしょう。正に、イエスの命令を信じることが、生ける神と出会い、神を信じることなのです。
 この点をヨハネによる福音書はもっと強調しています。ヨハネ4章50節で次のようにイエスは仰せになりました。
 「『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」
 ここで、「あなたの息子は生きる」とイエスが言われた言葉は特別の表現の仕方です。「生きる」という言葉はギリシャ語の文法で「動詞の現在形」です。しかし、それは普通の現在形の意味ではなく、特別の意味を持っています。つまり、イエスがこの言葉を口から発せられると同時に、「あなたの息子は生きるのだ」と言う意味です。言い換えれば、イエスの発言と同時に、その言葉を通して、神の力が働くので、「あなたの息子はまさに今生きる」と仰せになったのです。
 このとき百人隊長は、息子に対して発せられたイエスの御言葉を信じました。それゆえ、イエスは彼に仰せになっています。「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」
 彼はこの御言葉を頂いて、帰って行きました。言い換えれば、御言葉に従って、行動したのです。信じるとはイエスの御前から生活の場に帰って行くことが必要なのです。そうすればイエスの御言葉の威力と働きが体験できるのです。家にたどり着いたとき、イエスが御言葉を発せられた「ちょうどその時、僕の病気は癒された」と言う事実が判明しました。これは正に驚きです。イエスの御言葉に対して、わたしたちもこの隊長と同じように行動することが重要です。それではわたしたちはそのようにしているでしょうか。
 誰でもイエスの御言葉を聞いて、御言葉は必ず実現すると信じて行動するならば、その人は神の力を体験し、そして知ることができます。

(3)クリスチャンに対するイエスの命令の意味
 最後に、クリスチャンに対するイエスの命令の意味について、聖書から学びたいと思います。主イエスの命令は単なる命令ではなく、その中に命令を実行することのできる力を持っています。この点が、イエスの命令の特徴です。
 ところで、クリスチャンの場合に、主イエスの命令とは何でありましょうか。使徒パウロは主イエスの律法は、「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言う一句に集約されると教えました(ガラテヤ5:14)。また使徒ヨハネは、イエスの命令を次のように要約しています。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12)
 それゆえ、わたしがあなたがたを愛したように、隣人を愛しなさい、あなたがたは互いに愛し合いなさい、という主イエスの命令は、その命令と同時に、実行を可能とする「神の愛」が、「わたしたちの中」に働きます。このことを信じて実行することがわたしたちの生き方です。
 ところで、イエスの命令である神の愛の実行は、教会の中だけでなく、一般社会の中でも、実行する必要があります。その場合には、社会が必要としている神が命じられた道徳律を満たすことが重要なのです。この点を軽視しては、家庭や社会の中で、神の愛を実行することはできません。クリスチャンが教会の中でクリスチャンらしい振る舞いをしていましても、社会で通用しないのであれば、その信仰は未熟です。信仰は善良で、親切で、人に寛容であり、人の誤りを赦し、正直で、責任を果たし、社会でも人から信頼される人間を造り出します。

 しかし、神の愛がクリスチャンに働く場合、それ以上のことが実行でるし、実行しなければなりません。その意味で主イエスは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは天の国に入ることはできない。」(マタイ5:20)と仰せられました。
 ファリサイ派や律法学者が代表しているユダヤ教では、自分の能力と努力によって律法の命じる業を行い、それを自己の功績としました。そして人は自分の功績によって神の救いを得られると信じています。また愛の対象を「自分たちの仲間」に限定しました。さらに貪欲は罪ではないと主張し、富を得ることを人生最大の目標としました。

 それに対して、主イエスはクリスチャンが神の御心に従い、神の栄光を現そうという一心で、善い業を行いなさいと命じられます。また主イエスは「敵を愛しなさい。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせておられる」と仰せられます。さらに、「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。あなたたがは、神と富とに仕えることはできない。」と言われます。
 因みにマタイによる福音書の「天の国」とは、他の福音書では「神の国」です。さらに、パウロの手紙では「復活の主イエスが支配される国」です。コロサイの信徒への手紙はこの点を明瞭にしています。
 「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13~14)
 それゆえ、復活の主イエスが支配される神の国に移されたクリスチャンは神に従い、隣人を愛する「自由」が与えられているのです。今や主イエスの支配は御言葉と聖霊とを通して、この世界の中に特にキリスト教会の中に、そしてクリスチャンの中に働いています。このように主イエスを通して働く御言葉の力は何と壮大なことでしょうか。
 しかしクリスチャンが自分に与えられている自由を使用して、イエスの命令を実行するためには、主イエスの命令を「自分の心」で直接聞くことが必要なのです。つまり、わたしたちと日々出会われる復活の主イエスを、わたしたちは「聖霊によって」見つめて、御言葉を信じ、実践することがクリスチャンの生き方です。



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