2018-04-15(Sun)

新しく生まれる 2018年4月15日の礼拝メッセージ

新しく生まれる
中山弘隆牧師

 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。
詩編51篇7~14節


 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書3章3~15節


(1)新しく生まれる必要
 ここに、ニコデモと言うユダヤ人の指導者がイエスのもとに来たときのことが記されています。
 3章2節に「ある夜、イエスのもとに来た。」とありますが、彼は人目をはばかって夜こっそりと訪ねてきました。彼はイエスの弟子になりたいという願いを持っていましたが、ユダヤでは統治権をもつ議会の議員の一人でありましたので、公表を差し控えておりました。彼はいわばイエスの隠れた弟子でした。しかしイエス様が十字架の死を遂げられたときには、ニコデモはアリマタヤのヨセフと共にローマの総督ピラトの所に行って、イエス様の死体を引き取り、新しい墓にイエス様の死体を納めました。
 「ラビ、わたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(3:2)
 このように彼なりにイエスに対する信仰を表明しました。イエスはこの表明を一応受け入れた上で、さらに一歩進めて次のように仰せになりました。
 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 これはニコデモの最大の関心が「神の国の到来」であったことを表しています。と言いますのは、イエスの神の国宣教に先立って、洗礼者ヨハネによる「悔い改めの洗礼」が宣教され、イスラエルの人々の間に、今の世界を終わらせる新しい世界すなわち神の国の到来に対する期待が非常に高まっていたからです。この状況がニコデモとイエスの会話の背景になっています。
 そこでイエス様は、「だれでも新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。その言葉には、「あなたはわたしが神から遣わされた者と言うのか。それではあなたがわたしを本当に理解し、わたしの居るところにあなたも居るためにあなたは新しく生まれなければならないのだ。」と言う意味が含まれています。
 イエス様のこの言葉を聞いて、ニコデモは大変驚きました。なぜならば、彼は神の国が到来するということは、人間の住んでいる社会環境や政治体制が改革され、そのような領域に神が介入されることであると考えていたからです。
 それに対して、イエスは「神の国がわたしの宣教と共に始まっているのを「見る」ことができるためには、あなたを取り巻く環境が新しくなることではなく、あなた自身が新しく生まれなければならない。」と言われたのです。
 イエス様はこの点を強調して三度も繰り返されています。特に7節はこのことを強調しています。
 「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。」(3:7)
 この「新たに生まれなければならない」と言うギリシャ語の表現は「絶対に必要である」という意味の「必然性」を現しています。
 ニコデモはイエスのこの発言を聞いて、ますます驚き、「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と反論しています。
 しかし、ここで「新しく生まれる」というイエスの言葉には、「上から生まれる」と「再び生まれる」の両方の意味が含まれていますので、イエス様は「上から生まれる」と言う意味で使用されています。上から生まれるとは、「神によって生まれる」と言う意味です。

(2)聖霊の働き
 5節で、「だれでも水と霊とによって生まれなければ」とイエス様は言っておられますが、水は「洗礼の水」を意味し、霊とは洗礼を受けるときに与えられる「聖霊」を意味しています。
 従いまして、イエス様が新しく生まれると仰せになった意味は、人が聖霊を受けることによって神から生まれると、言う意味であることが分かります。
 それゆえ、人は聖霊を受けることによって新しく生まれるならば、神の国を見ることができると、仰せになりました。ここで、「見る」と言う言葉は、目で見るという意味と、気づく、理解する、経験するという意味の両方がありますので、イエスは「理解する」、「経験する」という意味で使用されています。
 それでは、人は聖霊を受けることによってどのよう仕方で、神の御前で新しく生きるのでしょうか。聖霊とは父・子・聖霊の三位一体の神でありますから、人は聖霊の働きを自分の目で確かめることは不可能です。8節でイエス様は次のように言っておられます。
 「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。」(3:8)
 風は吹いてくる場合、その通り道を見ることができませんが、風の作用を人間は自分の体に受け、風の効果を体で体験することができます。そのように、聖霊が人間に与えられることによって、人は新しい命を受けるのです。
 この点について、英国の詩人ワーズワースが、詩の一節で次のように歌っています。
 「天から快い息がわたしの体に吹いてきたとき
 内側ではそれに対応する、穏やかな、創造的なそよ風を
 わたしは感じた。
 自らが創造したものを越えて、優しく渡りくる
 命に満ちたそよ風を。
 それは被造物を悩ませる 有り余る活力の大嵐となった。
 知られずにはおかれない偉大な力。
 長く続いた氷結を破り、春の希望と約束をもたらす嵐。
 活発な日々、品位と思慮、名誉な分野での手腕
 清い情熱、美徳、知識と喜び
 音楽と詩歌との聖なる人生を、約束し希望をもたらす。」
 この詩は、そよ風がわたしたちの頬に吹いてくる様子は、わたしたちの内側で、聖霊の風が吹いてきていることを象徴しています。頬にそよ風を受けて、命が蘇生するように、聖霊がわたしたちの中に与えられるとき、わたしたちは聖霊を通して自由と生命の働きを経験し、人生に希望と喜びが湧いてくる体験を歌っています。
 ワーズワースは、春を呼ぶ嵐が氷に閉ざされた長い冬を終わらせ、生命の活動を開始させるように、聖霊がわたしたちの中に吹いてくるとき、長く続いた罪による束縛と歪みと闇からわたしたちを解放し、わたしたちの人生に春のような希望をもたらすと歌っています。
 氷結により閉ざされた人生とは、人間が神から離れ、自分の中に閉じこもり、自分の思いに支配されていることを意味しています。自分の思いと衝動に駆られて自由奔放に生きることは、正に不自由な人生です。その人生は過ぎ行く人生であり、暫定的であり、無に向かう人生です。
 それに対して、神との交わりの中で、神の義と命と光を受けて、人間が行動することは、人間に与えられた本当に自由の働きです。そしてその働きの実は永遠に存続するのです。
 このことを主イエスは次のように仰せられました。
 「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(3:6)
 肉は過ぎゆく影のような存在であり、そこに将来性はないのです。それに対して霊は永遠に存続し、真に生ける存在です。
 肉とは肉体と言う意味ではなく、生まれながら人間です。つまり、アダムの子孫としての人間です。霊とは神の御子イエス・キリストを信じることにより、主イエス・キリストの中に自分の存在と生き方が与えられている新しい人間です。

(3)新しい人間の三つの根拠
 つまり、わたしたちが生まれながらの人間として生きている限り、わたしたちは罪に支配され、死に向って行く人生を歩みます。従って、生まれながらの人間が住んでいる世界は過ぎ行く世界で、その世界の終局は破滅です。それゆえ、義と命と自由に満たされた永遠の世界に生きるために、人は新しく生まれなければならないと、イエスは仰せられました。新しく生まれることの根拠は三つあります。
 第一の根拠は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事の中で、わたしたち人間は、主イエスの義と贖いと命と聖を与えられた新しい人間、罪を赦されて神との人格的な交わりの中に入れられた人間、すなわち神の子と呼ばれる人間にされていると言うことです。
 さらにその新しい人間は主イエスの中に保存され、人の目には隠されていると言うことです。つまり、わたしたちの新しい存在は、神が主イエスの中で創造し、保存されていると言うことです。わたしたちの新しい存在は主イエスの中にあると言うことです。
 第二の根拠は、主イエスを信じることによって与えられる聖霊の働きにより、わたしたちは主イエスと結ばれ、主イエスの中に保存されている新しい人間として、神の御前に日々生きると言うことです。このことはわたしたちが新しく生まれたことに他なりません。
 わたしたちの一回目の誕生は肉的な人間の誕生です、それに対して主イエス・キリストを聖霊の働きによる信仰を以て、信じることにより、人は霊的な人間として誕生するのです。この二回目の誕生が霊的な人間の誕生です。
 第三の根拠は、主イエスは日毎にわたしたちに出会い、御言葉を通して、わたしたちのなすべきことを命令されます。またわたしたちの方でも日毎に祈るとき、主イエスは出会って下さいますので、主イエスの命令を実行することによって、主イエスの命が聖霊を通してわたしたちの中に働き、わたしたちは実行できるのです。
 勿論わたしたちの実行は極めて不十分でありますが、それでも実行できることにより、神のみ前に生きることを体験します。そして感謝と喜びに満たされます。
 その体験を通して、わたしたちは復活の主イエスに導かれているのです。それゆえ、わたしたちはこの地上の生活の中で、既に永遠の神の国の中で生きています。しかし、それらの良き業、愛の業は再び主イエスの中に保存され、わたしたちの中には蓄積されません。わたしたち自身はいつまでたっても富むことのない貧しい者です。
 結論として次のように言えます。この世界で生きている限りは、わたしたちの中に罪の思いと力が働いております。それはアダムの子孫としてのわたしたちの実情です。わたしたちの中に働く罪と闇の力に対して、わたしたちは神に祈り求めることによって、主イエスの義と命を受けて、戦い、克服し、後ろに投げ捨てながら、主イエスに従って行くことによって、神の御前に生きるのです。
 それゆえ、わたしたち人間はだれでも過ぎ行く世界と、いつまでも存続する世界の両方の中にいます。わたしたちは地上で生活している限り、二つの世界に属しています。それゆえ、わたしたちは、「既に」霊的世界の中で生きていることと「未だ」霊的な世界で生きていないと言う緊張関係の中で生きています。
 この緊張関係は、わたしたちの新しい存在は自分の中ではなく、主イエスの中にあると言うことから由来しています。言い換えれば、わたしたちの新しい存在は自分自身の中にはないと言うことです。常に自分自身は貧しい者であると言うことです。常に祈り、主イエスに求めなければならないと言うことです。
 そのようにして、復活の主イエスに導かれ、またわたしたちの側で主イエスに従っている生き方が、わたしたちは霊的に生きている、神の御前で生きていると言うことです。わたしたちは主イエスが再臨されるときに、わたしたちが復活されることによって、主イエスの中に保存されている新しい自分が現れるのです。これが救いの完成です。そしてこの希望は聖霊による希望です。
要するに主イエスと結ばれている者は、日々復活の主イエスと出会うことによって、この地上の生活の中で神の国の命に生きるのです。これは最終的に到来する神の国の先取りとして生きることです。



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2018-04-08(Sun)

心の平安 2018年4月8日の礼拝メッセージ

心の平安
中山弘隆牧師

 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
イザヤ書55章1~3節


 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書11章25~30節


(1)呼びかける神
 始めに、人類の創造者であり人類の歴史の支配者であります神は、つねにわたしたち一人一人に呼びかけられる神様です。
 わたしたちが人生の途上において、様々な困難に遭遇し、行き詰まり、孤独であり、不安の中にあることをご存知ですので、わたしたちの近くに来られて、呼びかけて下さいます。わたしたちの側でも悩みながら、闇の中を手探りして慰めと平安と希望を見つけるため、自分の心を神の声のする方向に次第に向けるようになります。
 それは自分で神を思うことでありますが、同時にクリスチャンに出会ったり、自分で教会の礼拝に出席したりすることでもあります。 これはもうずっと以前の話しですが、わたし自身がその人に会って聞いたことです。岐阜県の山間部にあります田瀬教会に糸川という婦人がおられました。その方のご主人は世界第二次大戦のとき、軍隊に召集され、戦争が終わっても帰還されませんでした。戦死したという知らせはなかったのですが、多分戦死し、戦場にそのまま放置されていたのでしょう。
 その方のご婦人は大変よく働く、気丈夫な人であると近所の人々から見られていました。女性一人で農業をし、二人の子供の教育と、お年寄りの世話をしておりましたので、皆に感心されていました。それでも、ご本人はこれから先、どうして生きていったらよいのか分からなくなり、自分から力が抜けていく寂しさと不安に襲われるときがありました。そのような折りには、仕事中に畑の片隅で人に見られないようにして泣いておられたそうです。
 その時、東京から空襲で焼け出され、村の中学校の英語の教師に赴任し、同時に牧師としてその村で開拓伝道を始められました梶内重信先生と出会われました。たまたま先生は中学校の校長先生に伴われて、村の人たちに新任の挨拶周りをされました。
 そこで、「わたしはキリストによる心の平安以外には、皆様に差し上げるものは、何もありません。キリストによる平安をもって、学校では英語の教師として、教会では牧師として、一生懸命に働きますので、どうぞよろしくお願いいたします。」と挨拶されました。
 その場に居合わせた糸川さんは、「そうだ。わたしに最も欠けているものは心の平安なのだ。何とかして自分にも心の平安が欲しい。」と強く感じられました。
 しかし女性一人で農業を営んでいる者にとって日曜毎に教会に出席するのは大変なことです。週日に夜遅くまで働いて、片付けなければならない仕事が多くあります。そのようにして毎日曜の朝、教会に出席しておられるのを見ておられた義父から、体が持たないから教会を休むようにといわれました。
 糸川さんは、自分の体を心配してそう言ってくれる舅さんに「教会に出席して、心に平安を与えられることが、自分の力になるのです。」と答えられ、礼拝を休まれることは一度もなかったそうです。
 苦難に打ち勝つ心の平安を与えられたその方は、二人の息子さんを立派に育て上げ、しかも信仰を受け継ぐようになられたので、「神様のなさる業は、何と素晴らしいのでしょう。」と仰いました。その顔の輝きをわたしは今でも思い出します。
 古代キリスト教会の指導者でありましたアウグスティヌスは、告白録の中で、人間の魂は神に造られているので、神の中に平安を見いだしたとき、わたしは初めて真の平安を得ることができました、と神に向かって告白しています。
 神様が与えてくださる平安は、ここにも少し、あそこにも少しあるという部分的で相対的な平安ではなく、わたしたちの心と存在の全体を包む絶対的な平安なのです。

(2)神の平安
 本日の聖書の御言葉は生ける主イエスのわたしたちに対する呼びかけです。11章28節以下で、このように仰っています。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28~29)
 主イエスの目から見るならば、人はたとえどんなに強がりを言っていても、本当は自分の重荷を負いきれず、疲れ果てている者と映るのです。どれほど活力に溢れた人でも、休息をとらなければ倒れてしまいます。
 聖書で定められています安息日とは、一週間の中でその日に仕事を休むように命じられているだけではありません。そうではなく、わたしたちが休み、わたしたちの中に神様が働いて下さることなのです。そうすることにより、わたしたちはリフレッシュできるのです。これが安息日の意味です。
 旧約聖書のイザヤ書55章1節以下で、神はこう仰せになっています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。…なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」
 神様は無限の愛をもって、わたしたち人間を愛し、わたしたちに豊かな命を与えて下さるのです。それは金を出して買う必要はありません。またそれを得るために働く必要もありません。必要なことは神のみ許に来て、神の御言葉を信じ、受け入れることです。
 このように旧約聖書で呼びかけられた生ける神は、今や御子イエスが真の人間となり、御子イエスにおいて神ご自身の性質を、完全に示して下さいました。さらに、わたしたちのために御子イエスの中に実現して下さった霊的生命、すなわち永遠の生命と自由とを、今やわたしたちに与えて下さるのです。それゆえに、主イエスはわたしのもとに来なさい、と招かれるのです。
 実に主イエスこそ、わたしたちのすべての状態を理解しておられる唯一の方です。なぜならば、主イエスはわたしたち以上に、人生の重荷を背負い、試練に出会い、わたしたち以上に、人生の残酷さ、恐ろしさ、悲哀といった一切のものを味わい尽くされたからです。しかもその中で、父なる神から命と自由を与えられ、父に信頼し、従うことによって、すべての試練に勝利されたのです。
 そのような方であればこそ、重荷と試練とに負け、嘆き、悲しんでいるわたしたちをご自身のことのように理解できるのです。それゆえ、わたしたちを「あるがままの姿」において受け入れて下さるのです。だから、休ませてあげようと仰せられるのです。
 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。」(11:29)
 それでは主イエスはどのようにして、わたしたちに休みを与えられるのでしょうか。それはわたしたちの負うべき軛を交替させる方法によってであります。
 軛とは畑を耕す鍬を、牛や馬に引っ張らせるため、首に付ける横木のことです。最初、軛という言葉を使用した人は、ユダヤ教の律法学者でありました。彼らは聖書の中で、律法と呼ばれています神の戒めを、人間の負うべき軛であると教えました。
 彼らは、「もし人が律法の軛を負うならば、人がそれまで負わされていたこの世の専制君主の圧迫と、この世の様々な思い煩いの軛から、解放される。」と主張しました。
 最初、これを聞いた人たちは、それによって自分の精神が鼓舞され、人生に高い理想が与えられたことを喜び、勇気を出しました。しかし後に律法学者の要求する軛を負う道は偽りの道である、と気づくようになります。
 その理由は、神様の意志である律法を律法学者たちは、自分の力で実行することができると主張し、自らの功績を誇り、実行できない人たちを見下げていたからです。それでは律法学者たちの教えは、最初から間違っていたのでしょうか。決してそうではありません。彼らがこの世の圧迫や思い煩いの中で嘆息している人々を、解放するために、神の支配に従う生活を勧めたのは正しいかったのです。
 彼らの出発点は霊によって始めたので正しかったのです。しかし最後は肉で仕上げる結果となってしまいました。
 「霊」とは人知を超えた神ご自身の意志と働きのことです。「肉」とは生まれながらの人間の思いと働きのことです。つまり、律法の命令は、神様の霊的な力を受けることによって実行すべき事柄であるのに、彼らは人間の力で実行しようとしたからです。
 それに対して、主イエスは豊かな霊的生命を与える方として、わたしたちに主イエスの軛を負わせられるのです。ここで、主イエスの軛は負いやすいと仰せられる理由は三つあります。
 第一に、それは人間生活に、全面的で絶対的な平安をもたらす真の神の軛であるからです。
 なぜならば、それは主イエスがわたしたちの責任をわたしたちに代わって背負い、わたしたちの罪のために十字架の死を引き受けられ、同時に死に至るまで、神の裁きに従順であったことにより、わたしたちが神の御前で生きるときに必要な義を、わたしたちのために達成して下さったからです。そのようにして神はわたしたちが御前に新しく生きる道を主イエスによって備えられました。
 それゆえ、わたしたちが信仰によって主イエスと結ばれるとき、わたしたちは平安を与えられ、神との人格的な交わりの中に入れられるのです。
 わたしは、主イエスに直面し、主イエスを信じたとき、人生の最大の決断をせざるを得ませんでした。それまでは、自分は自分の人生に対して忠実でなければならないと考え、自分の人生の主人公として生きてきましたが、その結果、人間の責任の総体を問われる神の御前で、すでに破産者であることを知りました。
 同時に、主イエスがわたしの人生に再生の道を開いて下さったことを知りました。それゆえ、わたしが自分の人生に対して忠実であろうとするなら、自分の人生の主人公の座をイエスに明け渡さなければならないと思い、主イエスを信じました。そのとき自分の人生にとって一番大切な決断をしたと思いました。
 さらにそれだけではなく、最後の審判において神様から問われることはこれ以外にないと思いました。自分は最後まで主に従って行けるかどうか分からない甚だ弱い人間ですが、自分の将来は主イエスの御手の中にあるのだ、と思うと平安でした。その時の心境は何処までも続く家並みの平凡な夕暮れの空に、十字架の光が射していて、明日の約束を語っているように感じました。
 第二に、主イエスはわたしたちに軛を負わせられるに当たって、先ず主イエスご自身がその軛を負って下さり、軛を負うわたしたちと共に歩んで下さるからです。
 第三に、主イエスの軛を負う者の中に、聖霊を通して、主イエスの霊的生命が働くからです。


(3)主イエスに従いつつ学ぶ
 最後にそれでは主イエスに従う人生とは何を意味しいるのでしょうか。わたしたちの全生涯を通して、否それだけでなく死ぬときにも主イエスに従うのです。主イエスと共に死ぬのです。
 そのことによって主イエスと共に復活する確かな希望が与えられます。使徒パウロはローマの信徒への手紙14章8節で言っています。
 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
 これが主イエスの軛を負うわたしたちの人生です。



2018-04-01(Sun)

わが主よ、わが神よ 2018年4月1日イースター礼拝の礼拝メッセージ

わが主よ、わが神よ
中山弘隆牧師

 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」
詩編110篇1~4節


 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
ヨハネによる福音書20章24~29節


(1)死に打ち勝つ希望
 わたしたちは人生を歩む中で、非常な苦しみを経験します。苦しい時期を過ごすと、人は四苦八苦すると言いますが、この言葉は本来仏教用語であり、四つの根本的な苦しみと、八つの大きな苦しみを意味していました。四つの根本的苦しみとは生、老、病、死であり、すなわち生きる苦しみ、老いの苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみです。これらから分かりますように、人生そのものが苦しみであると言う考えが、仏教思想の根底にあります。それは人生全体を苦しみにしている根本原因が死であると言うのです。哲学者たちも死によって限定され、死に向っていく人生を人はいかに主体的に生きるかと言うテーマを哲学の最大問題としています。心理学者たちも、自己の死を受け入れる在り方に関心を向けています。
 このような死の問題は、この世界に生を受けた人は誰も避けて通ることはできません。死の影はどのような楽天的な生き方をしている人にも気づかないうちに忍び寄って来ます。しかし、死の恐ろしさは心理的な不安よりもむしろ、人間として自己の責任を担い、良心的に、道徳的に生きようとする勇気と希望を失わせることです。
 このような人間存在そのものが持っている矛盾は、わたしたちが神によって死人の中から復活させられて、神の御前に永遠に生きるときにだけ解決されます。
 それゆえ主イエスの復活はわたしたちが死を越えて生きるという希望と勇気の根拠です。

(2)恐れる者の中へ
 しかし、わたしたちは神が人間を復活させられると言うことを信じることは甚だ困難です。そういうことはありえないと思います。一旦死んだ人がどうして生き返ることができるのか。もし生き返ったとすれば、その人は本当に死んだのではなかったのではないか。本当に死んだ人が生き返ることは絶対ありえないと考えます。
 イエスの弟子たちもイエス様の復活を最初は信じられませんでした。なぜなら、イエス様は十字架について死に、すでに三日も経過しており、生き返ることは不可能であったからです。
 ヨハネによる福音書20章19節は、次のように言っています。
 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
 この時、弟子たちはイエスを殺したユダヤ人を恐れて、隠れている家の戸を閉め内側から鍵をかけ、人が入れないようにしていました。このような恐怖の中にある弟子たちの所に、復活の主イエスが入って来られたのです。すべての人間が死の恐怖の中に閉じ込められているように、弟子たちも死の恐怖から逃れることのできない状態にありました。
 正にその中へ復活の主イエスが入って来られたのです。「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉を語られました。実に復活の主イエスは神の祝福をもって、弟子たちと再び出会われました。
 しかし、弟子たちはイエスの亡霊を見ているのではないかと恐れました。なぜならば、弟子たちのいる家の戸は全部厳重に内側から鍵をかけてあったので、生身の人間は絶対に入ることはできなかったからです。それにも拘らず家の中に入って来たこのイエスの姿はきっと亡霊に違いないと考えたのです。
 他方、復活の主イエスは弟子たちがそのように考え、戸惑い、恐れていることを知っておられ、彼らの疑いを取り去るため、ご自分の体をお見せになりました。
 20節でこのように記されています。
 「そう言って、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」
 このように弟子たちは十字架に付けられて釘の傷跡が残っている手と、槍で突かれて大きな傷跡のある脇腹を見たとき、自分たちの目の前に立っておられる方は、実際に身体を持っておられること、しかもその身体はあの十字架について死んだイエスが復活された身体であると、分かったのです。その時、弟子たちは十字架の死を遂げられたイエス様が、本当に復活されたことを信じることができ、大いなる喜びに満たされました。
 従いまして、イエスの復活と言う事実は、人間がこれまで見たことも経験したこともない全く新しい事態です。それは人間の力では全く不可能なことが今やイエスの身に起こったということです。従って、それこそ人知を遥かに超えた正に神の事実です。
 聖書はこれを神の事実として言い表すために、イエスが復活したと言う表現をせず、父なる神がイエスを復活させられたと、表現しています(ローマ8:11;エフェソ1:20)。この点、原典のギリシャ語では非常に明瞭になっています。実にイエスの復活は父なる神の創造的な力によって出現しました。イエスの復活は神の事実です。そこに天地創造に優る神の大いなる力が現れています。
 言い換えれば、イエスの復活の中で新しい世界、しかも人間が神の御前に生きるという神的な世界が既に開始したのです。

(3)疑う者の中へ
 次に、復活の主イエスは十二弟子の一人であるトマスに現れて下さいました。彼は最初の日曜日の夕方、主イエスが他の弟子たちに現れられたとき、その場に居合わせていなかったので、主イエスの復活を信じておりません。他の弟子たちは、「わたしたちは主を見た」(ヨハネ20:25)とトマスに知らせても、トマスは納得せず、「あの方の手に釘の傷跡を見、この指をそこに入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言い張りました。
 このようにトマスは自分の疑問を率直に言い表していますが、彼は他の弟子たち以上に疑い深い性質であったと言うのではありません。彼は非常に実直な人で、多少物わかりが遅い方で、自分が確信できるまでは人より時間が多くかかるのです。また、トマスはイエスに対する忠誠心の強い人で、今もイエスに対する忠誠心を持っており、主イエスの復活を信じたいと思いながら、どうしても自分としては納得できなかったのです。自分の目で見、自分の手で触り、イエスの復活を検証するまでは信じないと断言しました。
 復活の主イエスはそのようなトマスを愛し、トマスがいるところに来てくださいました。それは主イエスが復活された最初の日曜日から数えると八日目です。すなわち、次の日曜日の夕方です。その時の状況は依然として前回と同じでした。弟子たちはユダヤ人を恐れ、鍵をかけた家の中に隠れていました。
 しかし今回、トマスは他の弟子たちと一緒でした。それを知っておられた復活の主イエスは弟子たちの所に再び来られたのです。そこに、トマスに対する主イエスの深い愛と熱意が現れています。
 弟子たちのいる家に入って来られ、「あなたがたに平和があるように」と神の祝福をお与えになると、直ちにトマスに向かって仰せになりました。27節に記されています。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 このようにトマスの疑いと彼が自分の信念を持った人間であることを、復活の主イエスは承知の上で、トマスの挑戦を受け入れ、トマスに確かめる機会を提供されたのです。
 それではトマスはどうしたしょうか。提供された機会を十分に利用したでしょうか。否、彼はイエスの姿を見ただけで、もうイエスの体に触れて検証しようとは思いませんでした。
 トマスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言うイエスの言葉に応答して、イエスを信じたのです。そして次のように言いました。「わたしの主、わたしの神よ」(20:28)
 これはトマスの信仰告白でありますが、同時に全キリスト教会の信仰告白なのです。
 それではトマスはどのようにして信じたのでしょうか。
 第一に、トマスは復活の主イエスに出会って、自分の確かさを放棄しました。彼は自分の手で触ることが最も確かな方法であると考えていたのですが、それよりももっと確かなものがあることを知ったのです。それは十字架の上で人類の罪の贖いのために死なれたイエスは復活して生きて働いておられると言う神的な現実です。
 この現実の前では、人間の確かさは全く無力なのです。トマスは最早自分の確かさに頼ることなく、主イエスの復活の確かさに頼りました。
 第二に、それは人間の罪を赦し、人間に新しい永遠の命を与え、信じる者を神の御前に生かす神の確かさです。主イエスはトマスが神の御前で生きるようにして下さったという主イエスの確かさです。 
 そして主イエスの確かさに寄り頼んで生きることが、自分は主イエスにどこまでも従って行こうと、いう決意と行動を伴う信仰です。
 イエスは十字架の上で、わたしたちの責任を担って、死んでくださり、わたしたちが神の御前で生きるために復活されたのです。それゆえ、復活の主イエス「ご自身」が、わたしたちの「救い」なのです。そういう方として主イエスは人類の救い主となられたのです。
 なぜならば、父なる神は主イエスの中に、神の御前に生きる新しい人間を創造し、復活した主イエスを神の国の支配者とされたからです。その結果、人はだれでも主イエスに従うことによって、神の御前に生きることができるのです。
 第三に、復活の主イエスと出会うことにより、わたしたちは礼拝すべき神と直面します。
 復活の主イエスは地上におられたイエスと同じ方でありますが、地上におられたイエスの生涯は人間としての制限の中にありました。それゆえイエスは真の神でありましたが、神の力は制限された範囲内で主イエスを通して現れました。しかし今や復活されたイエスは閉ざされた部屋の中に自由に入って来られるだけでなく、すべての信仰者の中に、しかも同時に臨在し働き導かれるのです。正にそれは神としての力によるのです。それゆえ、このようなイエスの全能の前で、弟子たちは初めて主イエスを神として礼拝しました。
 主イエスの神としての働きの前で、トマスは「わが主よ、わが神よ」と告白しました。これはまた主イエスに対する祈りであります。

(4)信じる者
 それゆえ、主イエスを信じる者は、主イエスに対して祈ります。主イエスに祈ることによって、信仰が不動のものとなります。そして主イエスの命令を実行します。そのことを通して主イエスの命が信仰者の中に働きます。実に愛の業を実行することによって、主イエスの中にある救いが信仰者の生活の中で具体化されるのです。
 もう一つ大切なことは、復活の主イエスは出会われる者に「聖霊」を与えられる方であるという点です。
 弟子たちの場合にそうでしたが、主イエスは出会われるすべての人に聖霊を与えられます。そして、「聖霊の働き」により、人は主イエスに対する信仰が与えられ、復活した主イエスの確かさが分かり、神の国の支配者としての主イエスの働きが分かるのです。
 聖霊は信仰者に主イエスの御言葉を理解させ、主イエスに従うように促す方です。言い換えれば、聖霊は主イエスを信じる者を、神が主イエスの中で既に創造された新しい人間として生かすのです。
 しかし、聖霊と復活の主イエスは「異なる方」です。それでも主イエスの働きと聖霊の働きは不可分離に結びついています。それゆえ、聖霊は「救い主」である主イエスの働きの「共同者」です。
 さらに、神としての主イエスの働きは、人知を超えた神秘です。それゆえ、人は疑うのです。そもそも、わたしたち人間にとって、信仰とは常にその中に疑いの要素が「混入」しています。
 正に、そのような疑いを捨て、わたしたちが主イエスに祈り、主イエスに従い、愛の労苦を喜んで実行するのは、聖霊がわたしたちを信じさせ、そのように促し、励ますからです。



2018-03-25(Sun)

御子イエスの死 2018年3月25日の礼拝メッセージ

御子イエスの死
中山弘隆牧師

 あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、我らの父祖にお誓いになったように。
ミカ書7章18~20節


 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
マルコによる福音書15章33~41節


(1)歴史の中で起こった神の救いと啓示
 本日は神の御子イエスの十字架の苦難と死とを覚えて礼拝を献げています。聖書の信仰とは神が御子イエスの十字架と復活によって実現された人類の救いを信じることです。同時に御子イエスが救い主であることを信じるのです。これが聖書の信仰です。
 しかも重要な点は、イエス・キリストに対する信仰は決して神話から由来しているのではありません。イエスは架空の人物ではなく実在された方です。今から約2000年前に、ローマ帝国が支配していたパレスティナに住んでいた神を信じるイスラエル人やユダヤ人の間で、イエス様は生まれ、育ちました。
 神の民であるイスラエルやユダの人たちは、すでに約1500年に亘る信仰の歴史を持っており、その間に神が約束された救いと神の国の到来を待望していたのです。遂にその時が満ちて神は御子イエスを神の民のもとに遣わされました。
 イエス様はご自分が神の唯一の御子であるという自覚を以て語り、行動されました。神の権威を以て、神の国の到来を語り、神の国を受け入れるように要求されたのです。そのイエスによる神の国の宣教活動の頂点と完了が、イエスの十字架の死による人類の罪の贖いです。同時に父なる神が御子イエスを復活させ、天地万物に対する父なる神の支配権を御子イエスに委任されことです。その結果、御子イエスは「主」となり、今や「神として」働いておられるので、名実ともに人類の「救い主」となられたことです。
 それゆえ、旧約聖書の中で約束された神の国は、復活者である主イエス・キリストの「恵み深い支配」の中で今や、決定的に開始しています。さらにその救いの完成は歴史の「終わりの日」に確実に到来します。
 それゆえ、今日わたしたちが主イエスの支配の中で、主の恵みを受けながら、救いの完成に向かって行く人生を歩むこと、これがクリスチャンの人生です。
 それではどうすれば可能なのでしょうか。正にそれはわたしたちが礼拝の中で、御言葉を聞くことと、聖餐を受けることによって主と出会い、主イエスの働きを体験することによってです。
 それゆえ、今や主イエス・キリストはご自身が地上の生涯で、父なる神について語り、父なる神から与えられた使命を果たすために、行動されたすべてのことを通して、今日のわたしたちと出会われる方なのです。
 本日の聖書の箇所は、まさに神の御子イエスが人類の罪を贖うため、十字架の苦難と犠牲の死をどのように全うされたかを証言しています。
 聖書はイエスと共に二人の犯罪者が十字架につけられたと、マルコによる福音書15章24~27節で言っています。
 「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。」
 このような十字架の光景は歴史的な事実を物語っています。イエスは処刑された犯罪者と共に、しかも『ユダヤ人の王』として、言い換えれば「救い主」として、十字架に架けられたと証しています。
 確かにイエスの十字架は当時の歴史の視点から見れば、祭司長や律法学者や他のユダヤ教の指導者たち、さらにローマの総督ピラトが表舞台に現れています。ユダヤ教の指導者たちはイエスがユダヤ教を根本から破壊する危険人物であると判断し、ユダヤ教を守るためにイエスを殺害する計画を立て、それを実行したのです。他方、ローマの総督はユダヤの民衆がメシアのもとに結集し、ローマ帝国に反乱を引き起こすことを恐れ、イエスを十字架の刑につけたのが、歴史的原因であるように見えます。
 しかし、イエスの死によって引き起こされた新しい状況はユダヤ教の指導者たちやローマの総督が全く予想していなかったことです。
 それは人間が自分たちの力と計画によって歴史を動かしているように見えても、実際に歴史を支配し、その流れの中でご自身の目的を実現される方は活ける唯一の神だからです。
 真理と命の源泉であり、その所有者である神様こそ、人間と世界に対する絶対的な自由をもって行動される歴史の唯一の支配者です。
 人間はそのような主権者である神の恵み深い目的によって、創造された者たちです。それにも拘らず人間は自分たちの創造者に感謝せず、自分たちの思いと力に頼って生きた結果、罪の力の奴隷にされてしまいました。
 この悲惨な人間の状況は人間を創造された神の意志に反しています。それゆえ神様は人間が神を知り、自ら進んで神に従い、神の真理と命に生かされる新しい人間とするため、言い換えれば神の子たちとするために救いの新しい道を設立されたのです。

(2)人類とご自身を結び合わされた神の御子
 実に、イエス・キリストの誕生と生涯、十字架の死と復活と言う歴史的事実は、人間に対する神の意志と行動によって出現しました。この「特殊な歴史」の意味は神ご自身が人間と決定的に関わって、人間の救いの道を備えられたことです。
 先ず、神の御子が人間となられたイエス・キリストの存在と生涯は、神が人間と決定的に関わられたと言う事実それ自体です。
 イエス・キリストは神の御子であるゆえに、父なる神の意志を知り、それを実行し、父なる神に完全に従われました。それゆえイエスは「神の御前に生きる唯一の人間」となられたのです。
 他方、イエスは神の御子であるゆえに、神としてわたしたち人間に向かって、神の御言葉を語り、ご自身の性質によって、父なる神の性質を完全に啓示されました。それゆえ、イエス・キリストは「わたしたちと共におられる神」なのです。
 
(3)ご自身を与える神の愛
 そのような神の御子イエスの生涯の歩みの「完成」として、人類を罪の束縛から解放するため、神は御子イエス・キリストにおいて「人類の罪」を裁かれたのです。
 実に、御子イエスはこの神の裁きをゲッセマネの祈りにおいて、「アッバ、父よ、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」(マルコ14:36)と祈られたとき、父なる神の意志を最終決定的に受け入れられました。そして十字架の死において、ご自身を永遠に人類に与えることを決意されたのです。
 正にそれは神の御子が罪人であるわたしたちとどこまでもご自身を連帯化させ、罪人の責任を一身に引き受けてくださったことによるのです。罪の全くない神の御子が罪人に代わって「罪を取り去る正しい死に方」をされたことによるのです。
 その結果、人間の罪は神の御前で完全に取り去られました。それゆえ人間は「主イエスの中」で、神の御前に生きる新しい人間」となったのです。
 つまりわたしたち罪人は、御子イエスの死によって、御子イエスと共に神の御前で、死にました。その結果、わたしたちの罪は神の御前で取り去られました。同時に、わたしたちは御子イエスの復活により、神の御前に生きる新しい人間とされたのです。
 言い換えれば、わたしたちの「存在の中心」はわたしたちの中から、御子イエスの中へ移されたのです。従って、わたしたちは復活の主イエスに従うことによって、新しい人間として生きるのです。
 
(4)御子の叫び
 次に、十字架の上での御子の苦しみは何であったのでしょうか。マルコによる福音書は次のように言っています。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これはアラム語です。当時のユダヤ人はアラム語を話していました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。
 ああ、何と言う悲しみと苦しみに満ちた言葉でしょうか。人は極度の苦しみを経験するとき断腸の思いと言いますが、イエスの場合はそれより遥かに恐ろしい苦しみです。
 この叫びはイエスが祭司長や律法学者やその他の群衆から嘲笑され、恥にさらされたと言う苦しみを表しているのではなく、実に神との交わりから切り離され、虚無の中で孤独な死を迎えられた恐ろしさを表しています。
 イエスは御子として、つねに父なる神との交わりの中で、父なる神の真理と力を受け、命と喜びに満たされ、父なる神の御心を行い、父なる神と「一体」となって歩んで来られた方です。その方が今や父なる神から完全に切り離されたのです。それは全くの暗闇です。
 それは人類の罪を負った結果です。聖書はイエスがこの叫びを発せられた時、ちょうど闇が全地を覆っていたと伝えています。そのとき「シロコ」という砂嵐が発生し、太陽は隠されてしまったのでしょう。しかし、イエスの心中はもっと暗闇に包まれていました。これが人類の罪のために裁きを受けられたイエスの姿です。
 しかも驚くべきことは、御子イエスは父なる神に従順であったのです。イエスの他に一体誰がそのような状況の中で、なお神を信じ、神への従順を貫くことができるでしょうか。誰も不可能です。
 きっと普通の人間は誰でも神に反抗し、神を呪う言葉を吐いくでしょう。しかしそのような人間を神は裁くことはできないのです。なぜならば、神の裁きは人間に対して神の正しさが貫徹することであり、その結果人間が正しい人間とされることであるからです。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの悲痛な叫びは、神を「わが神」と呼んでいます。神から見捨てられたと言う状況の中で、「わが神」と言う言葉は正にイエスの心の底から発せられた「信頼の言葉」です。この言葉は次の三つの事柄を告白しています。
 第一に、御子イエスはわたしたちに代りわたしたちの罪を告白し、罪に対する裁きである「死」をご自身で引き受けられたことです。
 第二は、御子イエスは神の正しい裁きを通して神の義がご自身の中に貫徹するとき、神はわたしたち人間に神の義を与え、新しい存在と永遠の命をすべての人に与えられると信じておられたことです。
 第三は、御子イエスは十字架の死においても、否、死においてこそ、ご自身が神の御子であるゆえに、父なる神との「意思の交流」を保ち、「父なる神の意志」と「イエスの意思」は完全一致しました。
 それゆえ、御子イエスは自分のすべてを父なる神の御手に委ねられました。十字架の死において、最後の息を引き取るときにも父なる神に従順であり続け、孤独と虚無の死のどん底において、なお御子イエスは「父の意思と一体」であったのです。
 ヨハネによる福音書19章30節は、このときイエスは「成し遂げられた」と言われたと伝えています。
 この御言葉には、たった今自分が救い主の使命を果たし終えたという感無量の思いが込められています。
 なお、マルコによる福音書ではローマ軍の百人隊長の「告白」を伝えています。彼はイエスの十字架の一番近くにいて、そこで起こった一部始終を監視していました。その彼が「本当に、この人は神の子だった」と深い感動をもって証言しています。
 彼はローマ軍の百人隊長として、これほどまでのイエスの精神力を目撃して、この方こそ神の御子であると思ったのです。同時に、これほどまで痛みと恐怖に圧倒されながら、ご自身を人類のために与え尽くされたイエスの愛に接して、これほど深い愛は人間の愛ではなく、正に神の愛であると信じました。
 神の御子イエスがわたしたち罪人をこれほど深く愛して下さり、ご自身をわたしたちと結び合わされた十字架の死ほど尊い現実は他にはありません。神の御子がご自身をわたしたち人間と結び合わされたという「存在的な恵み」は、決して過ぎ去りません。  
 死も生も、あらゆる力も主イエスの愛から、わたしたちを切り離すことはできません(ローマ8:38、39)。



2018-03-18(Sun)

主の呼びかけ 2018年3月18日の礼拝メッセージ

主の呼びかけ
中山弘隆牧師

 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
サムエル記上3章1~10節


 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
ヨハネによる福音書3章31~36節


(1)神と対面した預言者たち
 今日わたしたちは聖書が神の言葉であると告白していますが、その根拠はどこにあるでしょうか。それは神様が旧約聖書の時代に預言者たちを選び、また新約聖書の時代には使徒たちを選び、彼らに神の言葉を語られたからです。それだけでなく彼らが聞いた御言葉を民に語れと命じられたからです。
 その御言葉は、先ず神の民の礼拝の中で語られて来ました。さらに他の様々な機会にも神の教えとして語られて来ました。そのようにして神の言葉は、民の信仰生活を導き、支えて来たのです。従って、神の言葉は人類の長い歴史を貫いて伝承され、伝承の最後の段階で、聖書の中に保存されるようになりました。
 特に、旧約聖書は預言者たちの語った言葉だけでなく、信仰生活に関する様々な教え、イスラエルの歴史の記録と解釈、そしてイスラエル文化の記録から構成されています。
 そのように、旧約聖書の長い歴史を通して多くの預言者が立てられました。従って、預言者たちの召命はそれぞれ異なっています。
 イザヤの場合に、彼は神殿の礼拝に出席していたとき、神殿の奥にある至聖所を垣間見て、神聖と荘厳さの中に存在される神のビジョンを見ました。
 このビジョンは聖霊の働きによるのです。このため、イザヤは御言葉をもってご自身を現される神を「聖なる神」と呼んでいます。 預言者エレミヤの場合は、青年エレミヤが自分の心の中に働く神から出る道徳的で内的な力に促されて、背信の民イスラエルに向かって神の言葉を語りました。
 またエレミヤを促し、神の言葉を語らせたのは聖霊の働きです。
 
(2)サムエルの召命
 一方サムエルの場合には、彼がまだ少年であった頃に預言者として召命を受けました。それまで彼は一度も神の言葉を聞いたことはありませんでしたが、御言葉に仕えるための教育を祭司エリから受けていたのです。もちろんサムエルは幼くても神に対する信仰を持っていました。
 サムエルは信仰の篤い母ハンナによって、乳離れした時から神殿に連れて来られ、祭司エリのもとで、礼拝の務めについて学んでいたのです。神について学び、イスラエルをご自身の民として選ばれた神様の恵みに応答するには、民はどのような生活をしなければならないかを教えられていました。つまり、少年サムエルは、神との人格的な交わりに入るための準備期間を過ごしていたのです。
 ついにその時が来ました。それはサムエルが何歳のときであったかは定かではありませんが、たぶん12歳頃であったと思われます。聖書はこのように語っています。
 「まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」(3:3)
 当時シロの神殿に、神と民との「契約の箱」が安置されていました。それはアカシヤ材で造られ、金の膜で覆われている箱です。後の時代になって、エルサレムに移されたのです。特にその箱の蓋は、純金で造られており、イスラエルの罪を贖う「贖罪所」と呼ばれています。それはイスラエルの神である主ヤーウェの王座と見なされており、主がそこに臨在されると信じられていました。
 しかし、神様は万物の創造者でありますから、自ら欲せられる場所には、どこにでもおられる活ける神です。そして御言葉によって、人間との関係を造り出し、その関係を通して人間を生かす命を与えられる方です。
 ここでサムエルに神の御声が聞こえてきたのは、契約の箱の蓋で「贖罪所」と呼ばれている場所です。彼はたった一人で契約の箱が安置されている神殿で寝ていました。その時刻は神殿を照らす灯がまだ消えない内でしたので、多分夜明けが近づいていた頃でした。
 「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて、エリのもとに走っていき、『お呼びになったので参りました。』と言った。」(3:4~5)
 このとき、主はサムエルに御言葉をもって呼びかけられましたが、サムエルは自分が主から呼ばれたとは理解できず、日頃から身の回りの世話をしていた年老いた祭司エリが呼んだのだと思いました。
 祭司エリは目が悪く、殆ど見えない状態でしたので、自分に助けを求めていると考え、風のように素早く行動し、彼の部屋に行きました。他方、祭司エリの方では、少年サムエルが夢を見て、エリに呼ばれたと勘違いして、走って来たのだと考えて、次のように言いました。
 「わたしは呼んでいない。自分の部屋に戻ってお休みなさい。」(3:6)と優しく諭しました。
 不思議にもこのようなことが三度続け様に起こりましたので、ようやく祭司エリは事の重大さに気づき、主がサムエルを呼ばれたのだと悟ったのです。そこで、神の言葉に応答する仕方をサムエルに教えました。
 「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております。』と言いなさい。」(3:9)と教えました。
 このようにしてサムエルは神と出会ったのです。その時の様子を聖書は次のように記しています。
 「主は来て、そこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』」(3:10)
 神がサムエルの名を呼ばれたということは、神がサムエルの所に来られ、「人格的」に「出会って」おられることを意味します。聖書は主がサムエルのところに来て、そこに立たれたと説明しています。
 神は天地の創造者であり、万物を超えた方であります。それゆえ人間の目には見えない方です。同時に、人間の耳にも神の声は聞こえません。なぜなら、神と人間との間には、絶対に越えられない無限の隔たりがあるからです。
 しかし、神は御自身の神としての威力によって、無限の隔たりを超え、人の心に直接、御言葉を語られるので、人は御言葉を理解できるのです。これは神から出る「聖霊の働き」によるのです。さらに聖霊もまた神ご自身です。活ける神はそのように御言葉を語り、人と人格的交わりを持たれる方です。
 また預言者イザヤが見たビジョンは、聖なる神が人間と他の被造を超えた神であり、無限に高い天に住まわれる方ですが、同時に天から下って来て、人間の心の中に臨在し、語り、働かれる方であることを示しました。イザヤ書57:15はこの点を強調しています。
 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ57:15)
 さらに、聖書はまた次のように言っています。
 「神を知らぬ者は心に言う。『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行なう者はいない。」(詩編53:2)
 なぜならば、見えない神はもともと存在しないのだと高慢な不信仰な人間は考えるものです。しかし、神様は「神性の力」によって、人間の心の中に臨在し、人格的に出会われることがおできになります。それは最早否定することのできない確かさで、人の心にはっきりとわかるのです。
 世界で初めて宇宙船で月面に着陸したアーウイン飛行士は、そのとき神の臨在を身近に感じたと言っています。彼はふと足元の石を見たとき、それが彼の求めていた岩石で地球が発生した時代の様子を伝えている貴重な岩石であったからです。
 サムエルの場合には神が語られる言葉があまりにも彼の心に明らかでしたので、祭司エリが呼びかけていると勘違いしたほどでした。
 さらにこのように人間と出会われる神様は、そこにおいて人間が信仰をもって応答することを要求されます。サムエルは祭司エリから教えられた通りに、神の呼びかけに答えて、「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(3:10)と言いました。そのとき、神様はこれから祭司エリとイスラエルの民全体に下そうとしておられる神の審判を語られたのです。
 次に、サムエルは自分に語られた神の言葉が祭司エリの二人の息子に対する審判でしたので、それを祭司エリに伝えるのを恐れていました。しかしエリはサムエルに隠さずに語るよう要請しました。
 エリはこのとき既にサムエルに語られた神の言葉を信じようと心で決めていたと思われます。それゆえ、神の御言葉が自分の二人の息子たちに対する審判であっても、謙遜に受け入れたのです。次のように告白しております。
 「それを話されたのは主だ。主が御目に適うとおりに行われるように。」(3:18)
 ここに祭司エリの神に対する従順と信仰者としての高貴さが現されています。彼は神に背いている自分の二人の息子を今までに何度も訓戒してきましたが、息子たちが祭司としての務めを忠実に果たすようにすることは不可能でした。息子たちが余りにも悪過ぎたからです。しかし「自分の思いではなく、神の御心が行われますように」と神の審判に謙遜に服従した祭司エリの信仰は本物です。
 なぜなら、神が審判において、ご自身の正しさを貫徹されることによって、審判の向こう側に必ず人間の救いがあるのです。このことを信じるのが聖書の信仰の特徴です。

(3)御言葉を聞く姿勢
 次に、わたしたちが心に留めなければならない点は、神はサムエルに呼びかけ、神の言葉を語らうと計画しておられましたが、そのためにはサムエルの側で答える態度を身に着ける必要があったということです。そのために一定の訓練の期間が必要であったのです。この点わたしたちの場合も同じです。
 人は教会に来て礼拝に参加しなければ、神の言葉を聞くことはできません。しかし教会に行っても自分の願っていることが何も得られないので、自分はもう教会に行くのを止めようと思う人が残念ながらいます。それはまだ神と出会っていないので神との交わりの中で自分の人生を生きることの幸いがまだ分っていないからです。
 それゆえ神の言葉を聞き、それに応答することができるためには、或る期間に予備的な体験を経なければなりません。偉大な音楽を理解するためには、長い期間に亘って音楽を学び、音楽の素晴らしさを体験する必要があります。
 信仰の場合にも、神の言葉を聞くためには、礼拝を続けて守っていますと、そのあいだに神の恵みを体験し、いつの間にか神の言葉を聞く態度が身に着くようになります。
 サムエルの場合には、神様がサムエルの名前を呼ばれました。この聖書の記事を読んだ人は、もし神様が自分の名前を呼んでくださるならば、神様と対面していることが分かるのだろうと想像するかもしれません。
 しかし、わたしたちの場合は、自分の名前を呼ばれなくても、神様は自分のことを全部知っておられると思うとき、それは自分の名前を呼ばれていることと同じ内容なのです。
 人は孤独の中で悩んでいるとき、本当に自分を理解してくれる人がいたらどれほど慰められるだろうかと想像するものですが、神様はわたしたちを一番よく理解しておられる方なのです。このことに気づくとき、わたしたちは信仰に近づいています。
 神様が主イエスを通してわたしたちに直面しておられるという霊的現実こそ、わたしたちが自分の人生を生きる上で、一番頼りになる基盤であることに気づくこと、まさにこれが信仰です。
 そしてこの神の確かさをわたしたちの心に「銘記する方」は、聖霊なる神です。聖霊の働きはわたしたちに主イエスを信じる信仰を与えます。聖霊の働きである「信仰」によってわたしたちは主イエスの語られる御言葉を理解するのです。さらに主イエスの語られる御言葉を実行するための力である「主イエスの命」は、聖霊を通してわたしたちの中に働くのです。



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埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

MAP
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定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
三芳教会のご案内
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●年間行事予定

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