2018-02-18(Sun)

神の贖罪愛 2018年2月18日の礼拝メッセージ

神の贖罪愛
中山弘隆牧師

 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
エゼキエル書33章7~11節


 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ルカによる福音書15章11~24節


(1)神への帰還の根拠
 本日の聖書の箇所の小見出しに、「放蕩息子のたとえ」と記されています。この話は皆様が良くご存知です。しかし、この話は何回読みましても新鮮であり、そこに尽きない神の愛と恵みが溢れていることをわたしたちは知らされます。なぜなら、この譬え話を作られた主イエスの思いと内的生命がこの中に込められているからであり、この譬え話は今も生きて働いておられる主イエスと不可分離です。
 実にこの話は非常に簡潔に述べられていますが、そこに神と人間の実際の姿が現わされています。この点をわたしたちは熟読玩味することが大切です。
 この親にしてこの子ありと言われるように、親の良い感化を身に受けて、頼もしい社会人になる青年もいますし、どうしてこの親からこのような不出来な者が育ったのかと首をかしげる青年もいます。
 この譬え話の青年は前者ではなく後者です。彼は甚だ利己的であり自分の欲望に駆られて、長年父に育てられたにもかかわらず、父のことが全く分かっていませんでした。子に対する父の深い愛情だけでなく、父がいかに正しく、公平であり、真実な尊敬すべき人であるかが分かっていなかったのです。多くの雇人に対する父の態度と処遇の仕方の善い面を見ようとはせず学ぼうともしませんでした。
 この息子は、楽しく過ごすことだけを欲し、地味に働くことの喜びを知ろうともせず、享楽的な夢を追い求め、心の底まで世の誘惑に染まっていました。そのため、自分に将来貰うようになっている財産を早く欲しいとねだって分けてもらい、家を出て親の目の届かない地方に行ってしまいました。
 そこで自分のしたい放題のことをし、遊女や悪友と楽しく、可笑しく過ごすうちに、親から貰った財産を食い潰してしまいました。しかも悪いことは重なるもので、その地方にひどい飢饉が起こり、忽ち彼は路頭に迷うようになったのです。
 その町にいる或る人のところに行って雇ってもらいましたが、その人は彼に豚を飼育する仕事を与え農場に送りました。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物であり、豚の飼育に携わることは最も大きな屈辱なので、彼は自分の哀れさが身に染みるように感じました。
 さらに、その雇い主は無情な人で彼に賃金も食料も一切与えませんでした。それでもだれも自分を助けてくれませんでしたので、このままでは自分は飢え死にしてしまうと直感しました。
 この恐ろしさの中で、彼は初めて「われに返った」のです。父の家では多くの雇人が有り余るほどのパンを得ている。それと比べると、自分の雇主は何も与えず、自分は只働きを強いられていることに気付きました。そのとき彼の父に対する見方が一変したのです。
 まことに父は正しい、公平な、情け深い人である。また我が侭で無知な自分に対してもどれほど寛容であったことか、利己心に凝り固まっていた悪い息子にも良くしてくれた。この父の愛を自分は裏切ったのだ、と今やっと気付いたのです。
 同時に、もう息子と呼ばれる資格は自分には全くないが、父に対して罪を犯したことをどうしても告白したい。そして父の憐れみと真実さに寄り頼み、息子としてではなく、雇人の一人にしていただきたいと、願ったのです。これは父が正しく、愛と憐み深い人であることが今や本当に分かったので、心の底から父に信頼し、自分の願いを申し上げたいと思ったのです。
 これが悔い改めるということです。この青年は自分の罪がいかに深いかを知りましたが、それでも絶望しませんでした。なぜなら、希望の唯一の支えは父がどういう方であるかに、すべてがかかっていると気づいたからです。
 もし彼がこの期に及んでまだ自分を言い張るとすれば、死の外には何もないという絶望の中で、自殺するより他に方法はありません。或いは自殺できないときは、他の人を殺して自分も死のうと考えるのです。しかしそれでは自分の罪を悔い改めたことにはなりません。なぜなら絶望と悔い改めとは正反対であるからです。
 それゆえ、この放蕩息子が悔い改めることができたのは、専ら正しい、真実な憐み深い父が存在するからです。彼は最早自己を主張せず、自分に頼らず、父に対して犯した自分の罪を告白し、赦しを乞い求め、父の憐みにより、召使いとして置いてもらいたいという一心で、即座に立ち上がり、家に帰ってきました。
 その途上でも、この思いを反復しながら歩きましたので、体は痩せ衰えていましたが不思議な力が働き、帰郷できたのです。

(2)神の贖罪愛
 他方、父親は家を出て行った息子に対する愛情を放棄することはありませんでした。息子は自分の罪に束縛されて、闇の中に消え去り、自分の前から失われてしまった。今はもう死んだのも同然であると思いながら、なお息子を憐れみ、息子が滅びてしまうことを望まなかったのです。
 自分はお前を赦している。息子よ、家に帰れと、自分の一番奥の心が叫ぶのです。これは裏切られても変わらない愛であり、憐みであり、「贖罪愛」であります。それゆえ、息子が帰ってくることを父親は期待し、待っていました。
 ある日に遠くを見ていると、こちらに向かって近づいてくる息子の姿が見えるではありませんか。とっさに父親は深い憐みの情に突き動かされ、走り寄り、息子の首を抱いて、接吻しました。
 その場で、息子は跪き、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」(ルカ15:21)と言いました。これが息子の罪の告白と悔い改めです。
 そこで、息子の気持ちを父は即座に理解し、喜びが全身から沸き起こり、息子を受け入れ、自分のもとに置き、新しい人生を生きるために必要なものすべてを、しかも即座に与えました。それが晴着を着せることであり、指に指輪をはめることでした。
 ここで、「晴着」は息子の更生を意味しています。死んでいた者が生き返ったことを意味しています。言い換えれば「救い」を意味しています。「指輪」は「養子」にしたことを意味しています。
 父親は今や、帰ってきた息子を見て、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。」(ルカ15:24)と言って喜び、祝いの宴会を開きました。肥えた子牛の上等の肉を料理し、上等のぶどう酒を出し、歌を歌い、ダンスをして、皆で喜びました。この父親の喜びを、悔い改めた息子はもちろんのこと、同席した人たちも共にしたのです。
 ところで、この祝会の主役は、悔い改めた息子ではなく、慈愛深い父親です。それゆえ悔い改めて、救われ、新生し、新しい人生を始めた息子は脇役なのです。ここで父の気持ち、そして悔い改めた息子の気持ちを、心に手が届くほど鮮明に、具体的に描写しておられる主イエスは「父なる神」について、語っておられるのです。
 父なる神は罪人が神のもとに立ち帰ることを何よりも欲しておられます。神は預言者エゼキエルを通して、呼びかけられました。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33:11)。
 そして神様は「立ち帰る道」を備えられました。それが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いであり、罪人に対する罪の赦しです。さらに信じる者に、キリストの復活により達成されました「神の義」を無償で授与することであり、キリストの中に「神の御前に立ち帰った新しい人間」を創造されたことです。
 従って、罪人が罪を赦されて、神の御前に新しく生きるための客観的な根拠として、神様は主イエス・キリストの十字架の死と復活により、キリストの中に新しい人間を創造されたのです。
 さらに罪人が新しい人間として生きる具体的な方法は、主イエス・キリストが復活して、すべての人間の主権者、救い主となられたことです。
 その主イエスが罪人と出会い、罪を赦し、主イエスを信じる信仰を与え、主イエスの命令を与え、命令を実行する霊的生命を与えて、新しい人間として生きるように導いて下さるのです。 

(3)主イエスの支配の中で
 それでは、ここで示されている悔い改めを実行し、父のもとへ立ち帰った者とは誰でしょうか。それこそ、わたしたちクリスチャンです。クリスチャンとは、主イエス・キリストを信じることによって罪を赦され、本心から悔い改めた者です。神から失われていた者を神様が主イエス・キリストによって見つけ出してくださったのです。死んでいた者を生き返らせらせてくださったのです。そのことを神様は何よりも喜ばれるのです。
 この神の喜びを身に受けて、クリスチャンは悔い改めたのです。ここにクリスチャンの喜びがあります。この譬え話の眼目は正に「神の喜び」です。同時に悔い改めて、神の許に立ち帰り、神との人格的な交わりの中に入れられた者の限りない「感謝」です。
 従って、悔い改めとは人間の生き方、心の向きを逆転させることです。それは最早自分が自分の主人公ではなく、自分の主人公を主イエスとして、主イエスに従うことです。神のもとから離れる方向に歩んでいた者が、神のもとへ向かって歩み出すことです。
 なぜならば罪のない神の御子イエスが人類の罪を背負い、人類に代わって神から裁かれ、罪の責任である死を全うされました。この神の究極的な一回限りの裁きによって、人間のすべての罪は御前に取り去られましたので、神は人間の罪を赦されるのです。人間がどれほど罪を繰り返しても、神は常に赦されるのです。
 さらに人間が神の御前に生きるに必要な義を、主イエスは神の裁きを受け入れ、死に至るまで従順であったことにより達成さいました。そして主イエスは御自身の義を信仰者に無償で授与されます。
 従って、主イエスの十字架の死による罪の赦しと、復活による義の授与により、信仰者は神の御前に立ち帰り、主イエスの命令を実行することによって、御前に生きるのです。
 従って、神様は主イエスの十字架の死によって人類の罪を究極的にしかもただ一回限り裁かれましたので、わたしたちの自己中心的な生き方には最早将来性はないという判決を下し、あなたは自分自身に寄り頼んで生きてはならないと命じられたのです。
 さらに、神様は人間の救い主として与えられた主イエスに寄り頼み、あなたは主イエスに従い、その命令を聞いて実行しなさい。そこに「あなたの未来」が開けているのだと、仰せられたのです。
 この恵みの霊的現実を別の角度から表現すれば、復活し、人間の主権者となり、生きて働いておられる主イエスは、信仰者の中に働き、信仰者を導いておられるのです。それゆえ主イエスに従うことが新しい将来に向かって生きることです。
 このように神との人格的な交わりに入れられたクリスチャンは、「神と和解させられた人間」です。従ってクリスチャンは最早「罪のない人間」となったのでは決してありません。常に罪を犯す弱い者です。それにも拘らず、罪を赦され「神の子たち」とされており、神の子たちとして歩むことが可能です。この可能性の根拠は主イエスによって生起した「贖罪の出来事」です。
 それゆえ、クリスチャンは古い人間と罪を自分の背後に背負っている人間です。最早自分自身に頼ることは禁じられている人間です。常に主イエスによって神を見つめ、神に向かって生きることが新しい人間、神の子たちとされているクリスチャンの行動です。
 しかし問題は復活の主は今や神として、信仰者の中に働いておられますから、肉眼には見えない方です。その御声は人の耳には聞こえません。それにも拘らず復活の生ける主イエスを人は「信仰」を通して確信できるのです。
 正にその信仰は主イエスが与えて下さる聖霊による信仰のです。さらに、主イエスの十字架の死において啓示された神の「贖罪愛」は、聖霊を通してクリスチャンの心に常に注ぎ込まれているのです。



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2018-02-11(Sun)

命の言葉 2018年2月11日の礼拝メッセージ

命の言葉
中山弘隆牧師

 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。
ヨハネによる福音書4章46~54節


(1)主イエスの教えと行為
 本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書に記された病人の癒しでありますが、この記事はマタイによる福音書とルカによる福音書にも記されています。
 最初に、イエスはガリラヤ地方で神の国が今やご自身の宣教活動を通して開始しつつあると、告げられました。ところで、神の国とは神の支配を意味します。従いまして、神の国は人間が神の御心に自ら喜んで、進んで、従うことであります。そうする時に神の国はこの地上において始まると教えられました。
 そこで先ず、イエスは人間が実行すべき神の意志と神の国における人間の生き方を、山上の説教において明らかにされました。次に、わたしたちが神の意志を実行することができるために、イエスは新しい命が与えられることを、ご自身の行為をもって示されました。
 なぜならば、旧約聖書の段階では、人間が実行すべき神の意思は示されていたのですが、それを実行する命と力がまだ与えられていなかったからです。従って、新しい命が与えられることが、神の国の到来にとって不可欠です。
 この新しい命はイエスの宣教活動の中で、先ず病人の癒しを通して示されました。この点に留意しますと、わたしたちはイエスによる病人の癒しやその他の奇跡を単にそのことだけに興味を持ち重要視するのでなく、聖書が意図しているように、神の国の到来という神の恵み深い支配に一層注意を向けることが大切です。
 ここに記されている奇跡は、主イエスを通して到来している神の支配が人間の生活を変革する力を持っていることを証しています。
 さらに、これらの事柄は当時の人々にとって事実であっただけでなく、初代教会のクリスチャンにとって、この物語は復活の主イエスの働きを示すものとして有効でありました。それゆえ、今日のわたしたちにとっても、復活の主イエスの働きを示しています。

(2)イエスの愛と力
 ヨハネによる福音書では危篤の状態になった人は、王の役人の息子であったと語られています。王とはイエスが誕生された時代のヘロデ大王ではなく、四人息子の一人のフィリポで、大王の領地の四分一領主でありましたが、ヘロデの名称を継承していました。
 このヘロデ王の役人とは、ローマ兵の百人隊長であったと思われています。ルカによる福音書では、異邦人の百人隊長と記されています(ルカ7:2)。ともかく大切な点は、そのような異邦人の百人隊長がイエスに助けを求めたのです。ヨハネによる福音書4章47節では次のように記されています。
 「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」
 そのとき、イエスは言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(4:48)
 この言葉は息子を助けて頂きたいとの切なる願いをもってイエスの所に馳せ参じた役人に対して、一見冷たい態度のように見えます。そうではありません。病を癒し、命を救うと言うことは正に神の業でありますので、神に対する真の信仰が必要であるからです。
 信仰とは「しるし」を見て信じると言うのではなく、イエスを通して神が恵み深い支配者として、自分たちの悲惨な現場に共におられることを信じることです。
 この役人は、信仰を要求するイエスの言葉に応えて、イエスご自身を信じました。そして「主よ、子供が死なないうちに、おいで下さい」と申しました。その時、主イエスは仰せになりました。
 「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」(ヨハネ4:50)
 実に癒しの力は、神の御子イエスが人間の切実な問題に自ら関わって発せられた御言葉によるのです。イエスの地上のおける肉体は有限であり、過ぎ去るべきものでありましたが、そこにおいて発せられた御言葉は神の意志であり、神の行為であり、永遠なのです。さらに永遠な神の言葉は今日復活の主イエスを通して働いています。
 ここで重要なことは、この百人隊長が自分の人生で最大の危機に面して、自分の力ではどうすることもできないという行き詰まり状態となり、絶望していたとき、イエスに最後の望みをかけたということです。望みをかけただけでなく、イエスのもとに来たということです。そしてイエスに出会ったと言うことです。
 イエスの深い憐れみと限りない熱い愛に触れたのです。そのことによって、自分の不安と苦しみをイエスがすべてご自分の上に担い、解決してくださることを知ったのです。
 それゆえに救いはイエスご自身の意志と力によるのです。最早それ以外の何ものによっても救いは不可能です。今、イエスはそのような方として、自分と対面しておられることが分かりました。彼はそのような方としてイエスの御言葉を聞き、信じて、帰路につきました。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」(4:50)
 ここでのイエスの発言は、百人隊長と出会っておられるイエスがいかなる方であるかを、はっきりと示しています。この霊的現実の威力を察知して、百人隊長はしるしや不思議な業を見てイエスを信じるのでなく、自分と対面しておられるイエスご自身を信じることが本当の信仰であると強く意識しました。
 これが主イエスに対する聖書の信仰です。確かに人はすぐにそのような信仰に達することはできなくても、イエスを求め続けているならば必ず信じるようになります。例えば月が地球の周りを回っているのは目に見えない万有引力によります。もし引力が働かないとすれば、猛烈な速さで動いている月は遠心力により、地球から離れて遠くに飛び去ります。同じように目に見えない主イエスの「霊的引力」に捕らえられ、人は自分と出会っておられるイエスご自身が神の力を持っておられることを信じるようになります。
 この百人隊長は自分の目でイエスを見て知るだけでなく、イエスと出会って、イエスの「生ける人格」を意識したとき、目をつぶっていても感知できるイエスの存在と人格の「威力」を知りました。
 これが信仰です。別の視点から言えば「聖霊の働き」による信仰です。聖霊が人間の心に働きイエスに対する信仰を起させるのです。
 そのとき、イエスは仰せになりました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」この言い方は、非常に特殊な意味を持っています。つまり、イエスがこう言われるとき、それと同時に「あなたの息子が生きる」という事態が発生すると言う意味なのです。
 これまでそのような言い方をした預言者は誰もいませんでした。預言者は確かに神の名によって語り、神はこう仰せられると前置きして預言しました。それと比べるとイエスの違いは一目瞭然です。
 それはイエスを通して今、神が「あなたの息子は生きる」と仰せになっている霊的現実を表しているのです。文法的な面から言えば、「生きる」というギリシャ語の動詞の現在形は、日本語とは異なり、「生きつつある」と言う意味です。それは継続や繰り返しを意味しています。従いまして、イエスの「生きる」という言葉の現在形は、ギリシャ語の「生きつつある」という普通の意味でないことは明らかです。それは「あなたの息子は生きる」というイエスの発言と同時にそのようになるという意味での全く特殊な現在形なのです。この用法は新約聖書の中で「イエスだけ」が用いられています。この点が、神の言葉を語りました預言者たちとの相違点です。
 この状況はイエスが語られる言葉を通して、神がイエスと共に語っておられることを示しています。イエスが父なる神と一体となって、語り、働いておられるのです。
 それゆえに百人隊長の息子は癒されました。この言葉を聞き、信じて、家に帰った百人隊長は、癒された息子を見たのですが、「きのうの午後一時に熱が下がりました」という僕たちの報告により、「それはイエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻である」(4:53)ことが分かりました。
 それゆえ「彼もその家族もこぞって信じた」(4:53)のです。この記事と並行しているルカによる福音書では、百人隊長が次のようにイエスに対する信仰を告白しています。
 「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(ルカ7:7)
 これが主イエスに対するクリスチャンの信仰です。天地万物を創造し、生かし、裁き、救う威力を持っておられる唯一の生ける神が、一旦欲し、決断してくださるならば、ただそのことにより、人間は癒され、救われるのです。そして困窮の中にある人間のもとに来て、その苦しみを自ら担われた御子イエスによって、神は人間を生かす御言葉を語られるのです。
 その理由は、主イエスが父なる神を愛して、父なる神に対する絶対の従順をもって地上の人生を歩まれたことにあります。それゆえ、父なる神は主イエスに神の救いの全権を委ね、イエスを通して、救いの言葉を与えられるのです。

(3)今日の主イエスの働き
 イエスはこの百人隊長の信仰を見て、驚かれました。ルカによる福音書では、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(ルカ7:9)と仰せになりました。
 それはこの百人隊長が、「ひと言おっしゃって下さい。そして、わたしの僕を癒してください。わたしは権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行けと』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(ルカ7:7~8)と言ったからです。このように彼はイエスの御言葉の持つ権威と威力を信じました。
 イエスのこの驚きの背後には、イスラエルの中に百人隊長のような信仰を持つ者が実際少ないことを見て、嘆かれたイエスの悲しみが感じられます。確かに、イエスに従った最初の弟子たちは皆、イスラエル人でした。しかし、大部分のイスラエル人はイエスを信じなかったのです。彼らはイエスを信じるために、「しるしや不思議な業を見ることを要求しました。」
 マルコによる福音書では、ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論を仕掛けたとあります。それを見て、イエスは心の中で深く嘆かれ、次のように仰せになりました。
 「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(マルコ8:12)
 人はイエスご自身と出会い、イエスの中に罪人を愛し、救おうとする神の決意と力が働いていることを知るとき、イエスご自身以外の何のしるしも不必要なのです。
同時に神はわたしたちがイエスと出会うことにより、イエスと一体である神を信じることを求めておられるのです。実に神はイエスを通してわたしたち一人一人に、「あなたは生きる」と仰せになっているのです。わたしたちが困難の中で、生きる方法が見つからず、八方塞がりになり、絶望するとき、神は「あなたは生きる」と仰せになるのです。
 この言葉によって、わたしたちは実際に絶望に代わって希望が与えられます。どのような困難によっても打ち砕かれず、一つの道が行き詰まれば、他の道が開かれるのです。そのようにして、逞しく生きることができます。神はわたしたちの全体を知り、支えてくださいますから、もうだめかと思っても道が開かれるのです。
 このことによって、わたしたちは常に主イエスの十字架の死による罪の赦しのゆえに、神との人格的な交わりの中に入れられていることを知ります。主イエスを通して、わたしたちは神と対面するとき、神はわたしたちの心の中に臨在しておられるのです。同時に復活の主イエスもわたしたちの中に臨在し働いておられるのです。
 わたしたちは主イエスに対して祈り求めるとき、常に主イエスと出会います。主イエスによって、わたしたちは神と出会うのです。



2018-02-04(Sun)

湧き出る命 2018年2月4日の礼拝メッセージ

湧き出る命
中山弘隆牧師

 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ/大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ/主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
詩編46篇2~12節 


 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
ヨハネによる福音書7章37~39節


(1)共にいます神
 本日の礼拝で、詩編46編を通して神の恵みと御心を知りたいと思います。この詩編は預言者的精神の充満した霊的な賛美の歌であります。宗教改革者ルターは福音的信仰を見事に表明した多くの讃美歌を作って、宗教改革に勇気を与えました。特に讃美歌21の377番は有名です。
 「神はわが砦 わが強き盾、 すべての悩みを 解き放ちたもう。
悪しきものおごりたち、邪な企てもて 戦を挑む。」
 という歌詞は、「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対することができようか」(ローマ8:31)という使徒パウロの福音的確信とともに、詩編46編から強い感化を受けています。
 ルターは宗教改革を起す前に、福音による魂の救いを経験しましたが、その前の時期に詩編の研究に専念し、霊的な強い影響を受けました。そのようにして彼は次第に福音の光に導かれてきたのです。その体験からルターは詩編を聖書の信仰を言い表しているものとして重要視しています。
 このように詩編46編2節の言葉である「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」という聖句は、信仰者が依って立つべき基盤です。
 信仰生活とは、主イエスに出会って、主イエスの内にすべての人間の救いと自分の歩むべき人生が備えられていることを知り、主イエスを信じて、主イエスに従っていく人生です。
 主イエスはわたしたちと出会い、わたしに従って来なさいと呼び掛けて下さいます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34~35)と招かれます。
 これは誰でも自分の力で自分の救いを獲得しようと欲するならば、自分と自分の命を失う。しかし自分の新しい命は既に主イエスの中に与えられていることを知って、自分が主イエスと結ばれている者であることを認め、主イエスに従うならば、既に与えられている命と自由をもって神の御前に生きることができるという約束です。
 確かに、信仰生活は決して平穏無事な人生ではありませんが、どのような困難と試練とに出会っても、そこを通り過ぎることができるのです。神は恵み深い真実な方ですから、どのような困難な時にもわたしたちを決して見放されることはありません。
 パウロはコリントの信徒への手紙一で、次のように言っています。
 「神は真実な方です。--試練と共に、それに耐えるよう逃れる道をも備えてくださいます。」(コリント一、10:13)


(2)神の主権と導き
 次に、この詩編は三つの部分から構成されています。
 第一の部分は2節から4節までです。ここでは自然界における生成、発展、消滅の過程において働いている神の無限の力を賛美しています。それゆえ天変地異にも恐れないと言っています。
 第二の部分は5節から8節までです。ここでは歴史の中に働く神の支配と導きを賛美しています。
 第三の部分は9節から12節までです。ここでは歴史の終末において神の国が実現することを告白しています。神の国とは、人類と世界の創造と、そして人類を罪から解放する神の救済の目的が実現した永遠の国です。そこにおいてすべてのものが神を賛美するのです。
 先ず、第一の部分の3節以下で次のように神を告白しています。
 「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」(46:3~6)
 これは巨大地震と大津波による天変地異が起こってもわたしたちは動揺しない。神はすべての災害の中でも唯一の支配者であり、御自身の目的を実現される方なので、長期的に見れば災い転じて幸いになると確信するからです。
 勿論、災害大国である日本も東北沖の巨大地震と大津波により、実に多くの人命と生活基盤が一瞬のうちに奪われました。言葉では到底言い表せない大きな不幸を前にして、誰でも神様なぜでしょうか、という心の悲痛な呻きを感じ、悩むのは当然です。
 しかし、どれほど信仰深い人であってもその理由を説明することはできません。その訳はただ神様だけがご存じです。それにしても、神様が恵み深い唯一の支配者であることは確かです。このことを神様は主イエスの到来により示してくださいました。
 つまり、神様は人間を御前に生かすために、人間の罪を解決する必要があり、御子イエスが人類の罪を担い、神様は御子イエスを裁くことによって人類の罪を御前から取り去ってくださいました。その結果、神様は御子イエスを死人の中から復活させ、復活の主イエスを人類の救い主として、わたしたちに与えて下さったのです。
 今やわたしたちは御子イエス・キリストの福音の言葉を通して、この生ける主イエスと出会うのです。そのことによって自分が神様から愛されていることが分かるのです。同時に神様は主イエスを通して、天地万物を支配しておられることも分かるのです。
 それゆえ、神の深い愛と神の支配を知る者は、神様がわたしたちのすべてのことをご存知であり、すべてのことを通して、ご自身の目的を実現するために働いておられることが分かるのです。それゆえ、神はわたしたちが様々な困難に耐え、それらを乗り越える道へと導いてくださいます。
 同時に神は人間のなすべき使命を与え、またそれを果たす力と知恵を与えてくださいます。ここにわたしたちの本当の未来が主イエスを通して開かれているのです。
 次に、5節からは神の歴史支配を賛美しています。
 「大河とその流れは神の都に喜びを与える。いと高き神がいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことはない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。」(46:5~7)
 旧約聖書では、神の都とは神殿のあるエルサレムの町を指していますが、新約聖書ではキリスト教会のことです。
 その中に霊的な生命の大河を神は流れさせてくださるので、世界の歴史がどのような状況になっても、教会は福音の伝道と神の愛の証の業を継続し、前進させることができるという確信の表明です。
 実に、人間を生かす生命は神から与えられます。こうした意味で預言者エレミヤは、神を「生ける水の源」(エレミヤ2:13)と呼んでいます。これは主イエス・キリストの到来により、一層確実になりました。なぜならば、神は人間を生かす命を主イエスの中に創造されたからです。実に、神の命は主イエスの命なのです。
 本日の聖書の箇所でありますヨハネによる福音書7:37~38で主イエスはこのように仰せになりました。
 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
 これは主イエスご自身が、「生命の泉」となってこの地上に住む人間のただ中に来られたことを証する御言葉です。同時に、信仰によって主イエスと結びつく者は、生命の豊かな供給を主イエスから受けるのです。その結果、主イエスの生命はクリスチャンの中から溢れ、他の人々に向かって流れ出るというのです。
 ヨハネによる福音書は主イエスの御言葉を解釈して、「これはイエスを信じる人々が受けようとしている“霊”(聖霊)について言われたのである。」と言っています。
 主イエスを信じることにより、聖霊がわたしたちの心の中に宿り、聖霊が主イエスの復活の命をわたしたちの中に注ぐのです。また聖霊は心の中に神の愛を注ぐのです。その愛は主イエスの中で示された人類の罪を贖う神の「贖罪愛」です。神からこのような大きな恵みが与えられているという霊的現実を、わたしたちが本当に知りますならば、大きな感銘を受け、神に従わざるを得ません。
 さらに、クリスチャンを通して外に向かって流れ出る主イエスの命の大河は、周囲の人々の中に活力と英知と希望を生み出します。 神のこの恵みの偉大さを思うとき、わたしたちは尽きぬ感謝と喜びに満たされます。
 実に、神の愛が人間の中に働くとき、その愛は人間が共同体や国家を形成するために必要な正義と公平と憐みとして働きます。具体的に言えば、次のようになります。
 クリスチャンは教会の礼拝から、家庭や職場や、学校や地域の仕事に遣わされて、そこで働きます。その生活も神の支配下にあります。それゆえプロテスタントの信仰理解では、「召命」ということはクリスチャンとして「職場で働く」ことを意味しています。
 
(3)歴史を導かれる神
 歴史における神の支配は、教会と国家との二つの領域において働いています。もちろん教会と国家とは別の領域でありますが、二つの円は同心円なのです。同心円の中心は神であり、主イエス・キリストです。このことを預言者たちは明らかにしています。
 「人よ、何が善であり、主が何を求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
 この神の意志に人間が応答することによって、歴史は神の御手によって新しく展開するのです。預言者イザヤは神の民イスラエルと国家の存亡にかかわる危機の中で、神を信頼し、神への従順を貫く必要を強調しました。
 「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。」(イザヤ30:15)
 アッシリア帝国の攻撃にさらされ、イスラエルの二つの国家である北イスラエル王国は滅び、もう一つのユダ王国はまさに風前の灯の状態になりました。このときユダ王国は嵐に襲われた森の木々が騒々しい音を立て激しく揺れ動くように、恐怖と混乱に陥りました。溺れる者わらをも掴むという有様でエジプトと同盟を結び、アッシリアの攻撃から国家を防衛しようとしました。
 しかしそこには歴史の支配者が神であるという信仰は全く働いていませんでした。神はユダ王国が自分たちの知恵と力によってはこの難局を打開することできないと警告されました。
 「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものに過ぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。」(イザヤ31:3)
 確かに歴史は人間の活動の場所であり、人間の様々な計画と行動が大きな流れを作り出しています。しかし本当の意味で歴史を支配しておられる方は神様です。
 
(4)神に従う人生
 最後に、神様は人間が神を信頼し、思い煩いを捨て、神の御心を尋ね求め、神に従うことを求めておられます。預言者イザヤは「共にいます神」の導きを次のように預言しました。
 「わが主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく、あなたの目は常に、あなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ。ここを歩め、右に行け、左に行け、』と。」(イザヤ30:21)
 この預言は今日、主イエスによって実現しています。それゆえわたしたちは主イエスを通して語られる神の御声に聞き従って歩むとき、神の定められた人生を歩むことができるのです。
 神様は常に一人一人の歩みを恵み溢れる時としてくださいます。



2018-01-28(Sun)

危機に面して 2018年1月28日の礼拝メッセージ

危機に面して
中山弘隆牧師

 祭司と預言者たちは、高官たちと民のすべての者に向かって言った。「この人の罪は死に当たります。彼は、あなたがた自身が聞かれたように、この都に敵対する預言をしました。」エレミヤは高官たちと民のすべての者に向かって言った。「主がわたしを遣わされ、お前たちが聞いたすべての言葉をこの神殿とこの都に対して預言させられたのだ。今こそ、お前たちは自分の道と行いを正し、お前たちの神、主の声に聞き従わねばならない。主はこのように告げられた災いを思い直されるかもしれない。わたしはお前たちの手中にある。お前たちの目に正しく、善いと思われることをするがよい。ただ、よく覚えておくがよい、わたしを殺せば、お前たち自身と、この都とその住民の上に、無実の者の血を流した罪を招くということを。確かに、主がわたしを遣わし、これらのすべての言葉をお前たちの耳に告げさせられたのだから。」高官たちと民のすべての者は、祭司と預言者たちに向かって言った。「この人には死に当たる罪はない。彼は我々の神、主の名によって語ったのだ。」
エレミヤ書26章11~16節


 人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」
使徒言行録27章21~26節


(1)ローマへの道
 使徒言行録は主イエス・キリストの復活の証人として立てられた使徒たちがキリストの福音を伝えた行為の記録であります。使徒たちは復活の主イエスと出会い、福音の内容について啓示を受け、同時に復活の主イエスから福音宣教を命じられました。
 復活の主イエスは使徒たちの中に働いて、使徒たちの福音宣教を導かれるのです。同時に主イエスは信仰者に聖霊を与え、聖霊は信仰者に主イエスの意志を知らせ、信仰者が主イエスに従うように促されるのです。従って、使徒言行録に記録されている使徒たちの働きは、復活のイエス・キリストの働きと聖霊の働きとによるものです。
 当時すでに、東方でキリスト教に接したクリスチャンたちが商売やその他の仕事で、ローマに移住した人たちがおり、彼らは自分たちで礼拝を守っていました。当時すでにキリスト教会がローマに存在していました。しかし使徒言行録は使徒たちによって福音がローマに伝えられたときキリスト教が正式に全世界に宣教されたと見做しています。
 本日の聖書の箇所は、使徒パウロによって、福音が正にローマにもたらされようとしている場面を語っています。
 「わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。」(27:1)
 このようにしてパウロは福音のために鎖につながれて、ローマ皇帝の前に立つことになりました。これはまことに不思議な神の導きです。以前からパウロは世界に福音を広めるためには、ローマの教会が宣教の拠点となる必要を認識していましたので、彼はローマに行く前に、コリントの教会からローマの信徒に手紙を送っています。その手紙の中で、次のように言っています。
 「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」(ローマ1:10)
 今や遂に祈りが答えられ、このような形でパウロはローマで伝道する道が開かれました。
 ことの発端は、エルサレム神殿にいるパウロを見たユダヤ人たちが騒ぎ出し、エルサレムが大混乱に陥り、彼はローマの守備隊によって助け出された事件です。ところがユダヤ人たちはエルサレムを混乱に陥れた張本人としてパウロをローマの総督に訴えました。彼らは総督に高額の賄賂を贈りましたが、パウロは賄賂を贈りませんでしたので、総督はパウロが無実であることを知りながら、裁判を引き延ばしていました。その内に多くの歳月が過ぎ、ついにパウロは皇帝に上訴しました。と言いますのは、パウロが自分の家柄により、ユダヤ人でありましても、生まれながらにしてローマ市民権を持っていたためです。その結果、ローマに行くことが決まりました。
 当時のローマ皇帝は悪名高き暴君ネロです。彼の前にパウロは囚人として出ましたとき、それはまことに劇的な出会いでした。
 この世の栄華と権力の象徴であり、また悪の象徴であるネロ皇帝は、福音のために鎖につながれたパウロを見て、軽蔑と同時に恐れを感じたことでしょう。愛と善意のために謙遜と苦難の中にあるパウロがキリストの力をもってネロ皇帝の前に現れたのです。その後しばらくして、キリスト教の大迫害が起こり、パウロやペトロは殉教しました。
 それから250年間も続いた迫害の時代を経て、キリストの贖いの霊的力が遂にローマ帝国の武力に勝利し、コンスタンティヌス皇帝がクリスチャンとなり、ローマ世界はキリスト教化されました。
 それに致しましても、福音がローマに到着した道は、この世の権力者によって鎖につながれた囚人が辿らなければならなかった道です。それは正に十字架の道でした。

(2)嵐の航海
 次に聖書はローマへの道がまた嵐の航海であったと、伝えています。
 「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航海し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた。」(27:7~8)
 ここで、パウロの一行が逆風に出会って、航海したという出来事は、パウロの福音宣教の生涯に対する一つの比喩として見ることができます。彼は多くの点で、恵まれた立場にありました。良い家系に生まれ、生まれながらにしてローマ市民権を持っており、輝かしい精神と鋭敏な魂が備わっていました。
 しかしこれらの有利な点だけではなく、彼の一生には幾多の逆風が吹き荒れました。彼はクリスチャンになる以前には、鋭敏な良心の呵責に悩んでいました。いわばそれが逆風でした。クリスチャンになった後はキリストの贖いにより、心に深い平安が与えられ、内面の嵐は静まりましたが、今度は福音を宣教するときに、それを阻む外側の嵐が吹き猛りました。
 同胞のユダヤ人たちがどこに行っても彼に反対し、騒動を引き起こしたからです。また古代の旅行は非常に大きな犠牲を要求しました。特に、彼の持病が悩みの種でした。さらに友人たちにもしばしば失望させられました。このような逆風が彼に吹き荒れたのです。
 しかし、同様の事が誰にでも当てはまります。順風の間は、すべての点で事がうまく運ばれます。しかし、遅かれ、早かれ、困難な時が必ず来ます。だれでも健康でありたいと願いますが、そういうわけにはいきません。だれでも経済的安定を望みますが、生活がひっ迫することがあります。すべての人は平和な世界を願っていますが、その幸いを享受できるとは保証されていません。このように人生の中にしばしば逆風が吹きます。
 ところで、逆風はパウロとその一行がローマに到着するのを阻むことはできませんでした。航海者は逆風を利用して航海する術を心得ているように、人は人生の不運から益を得ることを学ぶのです。
 この点、パウロは良い例です。彼は自分の持っている弱さを嘆かず、その中で神を賛美しました。彼を悩ました持病はいわば肉体に刺さっている棘であり、彼はそれを取り去っていただくように主イエスに祈りました。しかし主は次のように仰せになりました。
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリント二、12:9)
 それ以来、彼は自分の弱さを受け入れました。そして「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント二12:9)と言っています。
 彼はそれによって自分を「舞台の主役」にしたいという野心から解放され、自分を越えて、「無私な立場」に立って行動することを学びました。人間にとって大切なことは、何が起こるかではなく、むしろそれに対してどのように対処するかです。
 彼はキリストの恵みにより、「自分を越えたキリストの思い」をもって、人生の種々の境遇に対処できた人です。このことを彼は「キリストにあって生きる」と言う言葉で表現しています。
 「生きているのは最早わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)
 人はキリストにあって、自己の栄枯盛衰を越えることができるという事実が、人を「真に自由」にし、そして「人間的」にするのです。
 自分の歩んできた人生を振り返って、もしもう一度生まれ変わってきたとしても、自分は同じ人生を歩むだろうと、言い切れる人は少数でありますが、時々そのような人と出会うことがあります。
 そのような人は「人生の運命」を愛する人だ、と言われますが、しかし本当の意味でそう言えるのは、キリストにあって歩む人です。「キリストにあって」神に歩ませていただいた人生が、自分にとって最善の人生であることを悟った人がそう断言できるのです。

(3)キリスト者の自由
 使徒言行録27章には、逆風を支配したパウロの秘密を知る手掛かりが記されています。
 第一に、パウロは嵐と逆風の危険を避けるために可能なあらゆる手段を講じています。
 三回の世界伝道旅行を経験した彼は「晩秋」の航海の危険性を十分に知っていました。それゆえ、航海を来年の春まで延期するように提案したのです。
 「皆さん。わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりではなく、わたしたち自身にも危険と多大な損失をもたらすことになります。」(27:10)
 このように警告をしています。従いまして、逆風に抗して航海すると言いうことは、決して初めから無謀な冒険を試みることではなく、知恵を働かせて、逆風の条件を少しでも改善するために最大の努力する必要があります。しかしそれでもなお、事態が悪化し、逆風を受けるようになることがあります。ここでは、パウロの提案が聞き入れられませんでした。それは百人隊長がパウロの意見よりも、船長や船主の意見を信用したからです。
 その時、「南風が静かに吹いてきたので、人々は望み通りに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく、『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き下ろしてきた。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。」(27:13~15)
 さらに、18節から20節にはこのように記されています。
 「しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具までも捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。」(27:18~20)
 第二に、このような絶体絶命の窮地の中で、パウロは自己を越えたキリストの精神の持ち主であることの特性を示しました。それは敗北と死に直面しても「混乱すること」を拒むのです。
 それゆえ、パウロは船の中で立ち上がりました。このような危機の中で、一人の人間がその危機を乗り越えて、自分の周りに人々を結集させるということは、何と素晴らしいことでありましょうか。
 兵隊や水夫や乗客や船主に取り囲まれたパウロの光景は、何と頼もしい者として全員の目に映ったことでしょうか。
 「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」(27:22)
 パウロと共に船に乗っていた人々は既に絶望していたのです。そのような人々に向かて、「元気を出しなさい」と言うことは、あたかも首に縄をかけられている死刑囚に、喜びなさいと言うのと同じで、全く不可能なことです。しかし、これがパウロの言った内容です。事態が崩壊する瀬戸際で、「静かにして落ち着いている」ことができるのです。実に驚くべきことです。
 その理由は、自己の思いではなく、自己を越えたキリストの思いに立っているからです。その時、破局から救い出す神の力を受けているのです。そこに死の中から人を復活させる神の力が働いているのです。
 第三に、このような神の力を受けて、パウロはまた非常に現実的な手段を取りました。すなわち、皆に食事をとることを勧めました。
 そうすることがこれからの事態の推移の中で、自分たちの命を救う唯一の方法であることを教え、彼自身がパンを取り出し、神に感謝して食べ始めたのです。それにならって皆が食事をしました。この嵐の中で、神に感謝して食事することが自己を越えた者が取った行動です。
 結局、船は小さな島の浅瀬に乗り上げ、船首は激浪によって破壊されました。それでも泳げるものは自分で岸まで泳ぎ、泳げない者は破壊した船の板に載せられて岸まで無事運ばれたのです。
 パウロがこのように、自己を越えて、キリストの思いによって、考え行動したことが、実際ローマに到着することを可能にしました。
 実にこの確信の根拠は神の言葉です。
 「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならい。神は、一緒にいるすべてのものを、あなたに任せてくださったのだ。」(27:24)

 パウロはこの神の意志を知り、信じ、それに寄り頼んで行動したのです。その結果、危機から救出されたのです。



2018-01-21(Sun)

メシアの祝宴 2018年1月21日の礼拝メッセージ

メシアの祝宴
中山弘隆牧師

 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」
出エジプト記16章13~16節


 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。
マルコによる福音書6章34~44節


(1)神の国
 本日の聖書の箇所マルコ6:30では次のように書いてあります。
 「さて、使徒たちはイエスの所に集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」
 この箇所の前提は、イエスが弟子たちを神の国の宣教に派遣されたことですが、先ずイエスは弟子たちの中から12人を選んで、神の国宣教のための使徒とされたことから始まっています。
 3:13~15に記されていますように、選ばれた12人を「使徒」と名付け、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」と使徒たちの使命が説明されています。
 使徒たちの使命は、第一に、「イエスのそばに」いて、イエスの言葉と行動の一部始終を見、神がイエスを通して語り、神がイエスと共に救いの業を実行される神の出来事の「証人」となるためでした。 
 このことからも分かりますように、「神の啓示」はイエスの公生涯を通して最終決定的に生起した「一回限り」の「歴史的な出来事」です。それゆえその出来事の証人として使徒たちが果たす役割はすべての人間の救いに関わるものであり、非常に大きいのです。
 なぜなら人類の救いの中心と、神の啓示の中心が、実は御子イエスの地上の生涯であるからです。従って御子イエスの側に居て、イエスの言動を自分たちの目で確かめる立場にあった使徒たちの任務は、人類の救いにとって、重大な意義を持っています。
 第二に、使徒たちの使命は「神の国の福音」を宣教することです。そのため御子イエスは彼らを派遣されたのです。
 ところで父・子・聖霊の三位一体の「神の御子」が人間となられたイエスこそ、人類の救い主として神のもとから遣わされた方です。そこで救い主の使命は何であったかと言えば、「神の国の実現」です。
 「神の国」とは要約すれば神が人間に与えられた「救い」であり、人間が神の御前で生きる場所です。但し神の国の直接の意味は、人間に対する恵み深い神の支配のことです。言い換えれば、神が人間にご自身を啓示し、人間を罪から贖い、人間に神の霊的生命を与えられることにより、人間が喜んで、自発的に神に従い、神の御心を実行するようになることです。
 この点に関しまして、マルコによる福音書は冒頭で次のように記しています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)
 この簡潔な言葉から分かりますことは、「神の国」とは「神の子イエス・キリストの福音」が語っている「霊的現実」です。御子イエス・キリストによって建設された国であります。
 従って、使徒たちが最初に神の国の福音宣教に遣わされた時点では、神の国が主イエスの十字架の死と復活によって樹立され、本格的に開始する直前の福音を宣教するためでした。
 他方、使徒たちが主イエスから与えられた使命は、御子イエスの地上の全生涯を通して実現した人類の救いを証言するためでしたので、使徒たちの語った最終的な福音は、御子イエスの十字架と復活による主イエスの支配が中心となっています。

(2)神の国は近づいた
 次に、「救い主」としての公生涯に入られた当初の御子イエスの宣教の内容が1:14~15に記されています。
 「(洗礼者)ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」
 これから分かりますことは、神の国は「到来した」のではなく、今まさに到来が「間近に迫っている」という状況です。しかしこれは旧約聖書の救いの歴史が開始されてからもう2千年以上も経過していましたので、今や救いの時が「満ちた」のです。それゆえ、イエスは時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて「神の国の福音」を信じなさいと、イエスの宣教を聞く人たちに「信仰」を要求されました。
 さらに「時が満ちた」ということは、神の遣わされた人類の救い主イエス・キリストがすでに公生涯を開始されたと言うことと密接に関係しています。なぜならば、神の国はすでに「御子イエスの中に」存在していたからです。その理由は、父・子・聖霊の交わりの中で働く「御子の存在」がマリアから「人間性」を自らの上に取り入れ、人間イエスとなられた「御子の受肉の神秘」に関係しているのです。
 従いまして、人間としてイエスの自覚は、誕生の当初から「神である御子として」の自覚であります。その理由はイエスが誕生の時から、父なる神がイエスの人格の中に内在し、イエスの父としてイエスと出会っておられたからです。その父との出会いの中で、ご自身が神の御子であると言う自覚が、誕生の当初からイエスの心に芽生えたのです。
 そのような「父・子の交わり」の中で成長し、救い主の公生涯を始められた御子イエスは父なる神を完全に知っておられたのです。この点が御子イエスはわたしたちと全く異なる所以です。従って、イエスはユダヤ人との論争の中で次のように仰せられました。
 「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えて下さるのは、わたしの父であって、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と言っている。あなたがたはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じく偽り者となる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。」(ヨハネ8:54~55)
 実に、この御子イエスの自覚と証は、御子イエスの中で神の国が既に開始していることを示しています。従いまして、イエスは神の国の到来について、次のように仰せられました。
 「神の国は、見える形では来ない。--実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21)
 神の国はあなたがたの間にあるのだ、という「間」を意味するギリシャ語は「エントス」ですが、あなたがたの「中」にあるというギリシャ語の「エン」とは意味が違います。この区別は非常に重要です。というのも、「間」という言葉は御子イエスがわたしたち人間の間を行き来しておられる状況において、イエスは神の国が既に「わたし」の中に「存在する」のだ。それゆえ、神の国はこういう仕方で「あなたがたの間にあるのだ」と仰せられたからです。
 従いまして、神の国が近づいていますが、未だ神の国は人間の中では開始していませんでした。それゆえ神の国が開始するためには、御子イエスが十字架の死によって人類の罪を贖い、父なる神が御子イエスを復活させ、天地万物の主とされることが必要でした。
 その時に初めて、主イエスを信じる者に「聖霊」が与えられ、聖霊を通して信仰者は御子イエスが地上の生涯で実行し、達成された神の救いと啓示を理解するようになるのです。そのとき初めて神の国は「信仰者の中」に存在するようになるのです。
 視点を変えれば、復活の主イエスが神として信仰者の中に臨在し、信仰者を導かれることが、主イエスの支配でありますので、その時に初めて神の国が本格的に開始するのです。
 このような状況の中で、イエスは差し迫っている「神の国」に生きる信仰者の生き方について教えておられます。同時に、イエスの教えはイエス自らその教えを実行しておられる方として教えておられます。この点がユダヤ教の律法学者とは異なり、イエスの教えの特異性であり、イエスが救い主であるという証拠です。

(3)五千人の給食
 さて、話を最初に戻しますと、イエスは神の国の宣教から帰ってきた使徒たちを休養させるために、ガリラヤ湖を船で渡り、対岸にある山地の寂しい所に行かれました。しかし、それを知った人たちは先回りをして、イエスが到着されたとき、すでに五千人もの群衆が集まっていました。それはイエスが神の国を宣教しておられるとき、多くの病人たちを癒される「神の力」が現れたからです。
 次に、群衆を見られたイエスの様子が記されています。
 「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(6:34)
 イエスは神から離れ、悲惨な状況の中で、慰めも希望もない群衆を深く憐れみ、神の愛をもって、神の救いを語り、神の国について教えられました。
 その内にかなりの時間が経過し、弟子たちは会衆が自分で里や村に行って何か食べ物を買うことができるように、今すぐ会衆を解散させてくださいとイエスにお願いしました。
 それに対してイエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と仰せになりましたので、弟子たちは驚き、「わたしたちが彼らに二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」(6:37)と尋ねたのです。それに対するイエスの応答は次の通りです。
 弟子たちが持っていた「五つのパン」と「二匹の魚」をイエスのもとに持って来させ、弟子たちに命じて、群衆を組に分け、青草の上に座らせられました。それから天の父に祈られました。
 「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。」(6:41)
 その時、驚くべきことに五千人の人々が食べて満腹したのです。正にこれは奇跡です。パン屑と魚の残りを集めると12の籠に一杯になりました。これは一体どういうことでしょうか。実際に起こったことなのでしょうか。誇張されたり、脚色されたりしていないでしょうか。或いはそこで起こったことは精神的な別のことなのでしょうか。
 この点で解釈者たちの意見は分かれるのですが、この出来事はマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四福音書が伝えていますので、創作した物語ではなく、史実であることは確かです。そして神の御子イエス・キリストの福音と本質的に関係していることも確かです。
 これは御子イエス・キリストが神の力をもって行われた「預言者的象徴行為」と解釈するのが、最もふさわしい解釈であると思われます。旧約聖書の預言者たちは神の言葉を語る使命を与えられた者ですが、また象徴的行為も行いました。それは預言者が自分で考えた演出ではなく、神がそのように行動し、語れと命じられた行為です。それゆえ、預言者の象徴行為は必ず実現したのです。
 イエスの場合も、同様に神の力が働いて、五つのパンと二匹の魚を分配した時、五千人の人々が満腹するほど十分に食べました。
 しかし、ここで象徴されている霊的な事柄は、神の国で人々が享受する「神的生命」であり、御子イエスの中に働いた生命であり、今やイエスの復活により、主イエスの中に働いている「復活の生命」なのです。
 従いまして、この五千人の給食は、神の国の祝宴の象徴であると同時に、また聖餐式の象徴でもあります。今や聖餐式において、復活の主イエスがその場に臨在され、聖霊を通して、ご自身の復活の命を信仰者に分配されるのです。
 このように、今や主イエス・キリストが支配しておられる神の国で、信仰者は聖霊を通して主イエスの復活の命を受け、主イエスの御声を聞き、主イエスに従い、神に仕え、信仰者が互いに愛し合うことによって、神の御前で生きるが可能となりました。
 それに対して、イエスが五千人の群衆に給食を与え、神の国の祝宴の預言者的象徴行為をされたことは、主の晩餐、さらに今日教会で行っている聖餐式につながっています。そしてそれらを一貫して、主イエスの十字架の死による人類の罪の贖いが示されています。
 要するに、このメシアの祝宴の象徴的行為は、御子イエスが自己を犠牲にし、人類の罪を贖うことを父から与えられた最大の使命であると自覚しておられましたことを明確に示しています。



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