2017-09-17(Sun)

キリストの思い 2017年9月17日の礼拝メッセージ

キリストの思い
中山弘隆牧師

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
イザヤ書42章1~4節


 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙一 2章10~16節


(1)神を知る唯一の道
 わたしたちの信仰生活が、常に喜びと力に満ちているためには、何が必要であるかを日ごろから心得ていなければなりません。例えば、神様を頭で理解しているだけでは、まだ神様の恵みを体験しているとは言えません。また、神様は天地万物の創造者なる唯一の神である。そして人間は神様の恵みの対象として人格を持つ者として創造されている。それゆえすべての人間は神の前で平等である、と信じているだけではまだ不十分です。
 それでは神を知るということはどういう状況でしょうか。それは神が恵み深い主権者であることを、自分の生き方を通して体験し、知っていることです。なぜならば、主イエス・キリストを通して与えられる神の救いを信じ、主イエスの恵みの中で生きることによって、人格的な神を知ることができるからです。
 言い換えれば、神様がわたしたち人間にご自身を完全に示されたのは、神の御子が人間となってこの世界の中に来られた主イエスを通してであります。それゆえ、神の御子イエス・キリストを抜きにしては、人間は神を知ることはできません。この最も大切な点について、神の御子イエスは仰せになっています。マタイによる福音書11:25~27は、その御言葉です。
 「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
 ここで、神の御子イエスは父なる神を知ることは、すべてご自分に委ねられていると、仰せになっています。なぜならば、子を知る者は、ただ父だけであるからです。
 第一に父と子との関係は真に神秘で、深い真理です。御子イエスが父との出会いの中で、お互いに知り、知られているという事実は、人智を超えた神の神秘です。わたしたちの近寄りがたい神秘です。実にイエスが神の御子であると言う自覚は、この神秘の中にあります。

 それゆえイエスは神を「わたし自身の父」と呼ばれました。他方わたしたちクリスチャンが父なる神様に祈るときには、「わたしたちの父」と呼ぶように教えられました。これが教会の礼拝でのクリスチャンの祈りです。注目すべきことは、イエスは父なる神様に向かって、クリスチャンのように「わたしたちの父よ」と言って祈られることは全くありません。ここに御子イエスの特徴、特異性が現れています。
 第二に、それゆえわたしたち人間が神を知ることができるのは、御子イエスがわたしたちに「ご自身の父」を現わしてくださるからです。
 ところで、神から遣わされた救い主である主イエスの尊い姿は、人類の罪の贖いのためにご自身を犠牲とされた十字架の死において現れました。しかし、生まれながらの人間はイエスのこの姿の本当の意味を理解することができません。これを見た群衆は異口同音に主イエスを嘲笑しました。
 「おやおや、神殿を打倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(マルコ15:29)と侮辱しました。
 また、イエスに敵対していた祭司長や律法学者たちは、勝ち誇ったように、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコ15:29~32)と、嘲笑の言葉をイエスに投げかけました。
 使徒パウロはコリントの信徒への手紙一、1:18節で言っています。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 これはどういう意味かと説明致しますと、主イエスの十字架の死は人類を罪の束縛から解放するために、正に神ご自身が実行してくださった神の行為です。それゆえ十字架の言葉は、主イエスの十字架の深い真理を告げ知らせている神の言葉です。
 聖書では、神の救いを知らせる言葉を「福音」(喜びにあふれた知らせ)と言いますが、その中心は「十字架の言葉」なのです。御子イエスは生前にご自身の使命である十字架の死の意味を弟子たちに教えられました。
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)。つまり、人類の罪を贖うために、御子イエスは人類の罪をご自身の上に担い、人類に代わって、人類の罪に対する神の裁きを受けられたのです。この深い真理を十字架の言葉が語っているのです。
 従いまして、イエスの在世当時は、イエスが弟子たちに教えられた十字架の死の意味を弟子たちはまだ理解できませんでした。しかし、イエスが死人の中から復活されたとき、復活の主から再び十字架の意味を教えられたのです(ルカ24:25~27)。同時に、復活の主イエスは弟子たちに聖霊を与えられました(ヨハネ20:22~23)。
 それゆえ、復活の主イエスの栄光の光の中で、主イエスの十字架の苦難が理解されたのです。今や主イエス・キリストの十字架の死と、復活の証人であるキリストの使徒たちが、キリストの福音、すなわちキリストの十字架の言葉の宣教を全世界に向かって開始したのです。
 ところで、十字架の言葉は、聖霊を受けなければ、人は理解できません。聖霊によらなければ信じられないのです。しかし、福音が語られるところには、復活の主イエスが共にいますので、聖霊を与えて下さいます。それゆえ福音を信じることができるのです。
 このことにつきまして、コリントの信徒への手紙一、2:11は次のように教えています。
 「人の内にある霊以外には、いったい誰が、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神を知る者はいません。」
 ここにある人がいると致しますと、その人を人格として完全に知っている者はその人の内にある霊だけです。その人の心の奥深くまで知ることのできる者はその人の霊以外にはありません。同じように、神様を知ることのできる者は、神の霊すなわち聖霊だけであります。因みに、聖霊は父なる神の霊であると同時に、御子である主イエス・キリストの霊なのです。聖霊は父と子とから出るのです。これを神学的に表現すれば「流出する」と言います。
 人間が理性を働かせて、なぜ自分は世界の中に存在しているかを思索し、人間を存在させている神を推理しましても、それによって実在する唯一の神に到達することは不可能です。なぜならばそれは人間の理性が考え出した有神論や唯一神論などの神概念であり、本当の生ける神様ではありません。
 要するに、御子イエスの地上における神の国宣教活動を通して、神の救いの事業が開始しました。その間、御子イエスの教えと、力ある業を通して、罪人に対する罪の赦しと、罪の束縛からの解放による病の癒しが与えられ、神を信じ、神に従う「神のみ前に生きる新しい人間」の生き方が開始しました。
 言い換えれば、神の救いは、御子イエスの十字架の死と復活の出来事を通して、主イエスご自身の中で実現したのです。そしてわたしたちの救いは主イエスの中に保存されているのです。その結果、神様はわたしたち人間の罪を常に赦し、わたしたちと出会って下さるのです。
 それゆえ、次のように言うことができます。死人の中から復活された主イエス・キリストが今や神として、信仰者一人一人の中に、臨在し、働いてくださるようになりました。同時に、主イエスによって聖霊が与えられました。そして聖霊は神としての復活の主イエスの働きを信仰者一人一人が理解できるようにされるのです。
 尚、その上に聖霊は復活の主イエスの霊的生命と神の愛を信仰者の心に注がれますので、クリスチャンは主にどこまでも従って行く生き方が可能になりました。その結果、復活の主イエスはわたしたちを日々罪から清め、日々新しく生かし、救いの完成へと導かれるのです。

(2)キリストの思いを抱く者
 以上のように、わたしたちを日々新たに生かす神の恵みは、父・子・聖霊の「共同の働き」であり、神様がわたしたち人間にご自身を与えられることです。もちろん、わたしたちがこのように神に愛され、神の子たちと呼ばれましても、依然としてわたしたちは人間であり、神になる訳でありません。そうではなく、わたしたちの中に復活の主イエス・キリストが臨在され、同時に聖霊を媒介として、わたしたちをキリストと結び合わせ、キリストとの人格的な交わりの中に永遠に保ってくださるのです。それゆえわたしたちは死によってもキリストから切り離されることは最早ないのです。
 そのように生き、また死ぬクリスチャンの価値は、地上においても、天国においても、主イエスとの人格的な交わりの中で、自分の中に主イエスの働きを受け、聖霊の促しを受け、神の愛の働きである善い行を実行し、他の者を赦し、共に生きるために、共に重荷を担うのです。この生き方を通して、わたしたちは主イエスの性質を映し出すのです。
 このような者としてわたしたちは、自分の心の中心に神の御子・主イエスを迎え入れ、わたしたちの思うこと、語ること、なすことのすべてを主イエスが支配され、わたしたちの思いと言葉と行動が変えられ、清められ、高められて行くのです。このことをパウロは「キリストの思い」を抱いている(コリント一、2:16)と、説明しています。
 そのように復活の主イエスご自身がわたしたちの中に働いておられるので、同時にわたしたちに与えられている聖霊の内的促しにより、主に従って行くのです。これこそ神が与えられる「自分の本当」の人生を歩むことです。

(3)聖霊によって主イエスを見つめて
 最後に、全生涯に渡って主イエスに従い、主イエスに結ばれて、主の命令を実行し、主の業を行なった使徒パウロが自分の中に働かれる主イエスの性質と姿を注視しながら、愛とは何かをコリントの信徒への手紙一、13:4~7で語っています。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 生ける復活の主は「情け深く、忍耐強い」方です。罪深い者、信仰の成長の遅い者に対して、主は期待を持って、忍耐して待っておられるのです。
 なぜなら、自身の十字架の贖いにより、どんな罪人に対しても、罪の束縛から自由になり、神の愛に応える新しい生き方を可能にされているからです。たとえ信仰の成長が遅くとも、必ず神の御心に沿う正しい業をするようになる日の来ることを確信しておられるからです。
 他方、罪深い人間は何よりもまず、「利己的な人間」であり、「自分の利益や名誉」を求める者です。そして、「ねたんだり」「自慢したり」「高ぶったりします」。パウロは自分と対面しておられる主イエスの心には、そのような思いや態度は一片のかけらもないことを知らされています。罪人のそういう思いや、態度に対して、主イエスははっきり「ノー」と言われます。なぜならば、人は誰でも主イエスの十字架の死によって、イエスと共に死に、罪に束縛されている古い自分、生まれながらの自分に死んでいるからです。
 しかし、だれでも自分自身を顧みれば、古い自分は依然として自分の中に残っています。それにも拘らず、わたしたちは罪に束縛されている古い自分を後ろに投げ捨てることができます。
 それはわたしたちの中に与えられている聖霊の促しによるのです。この世の誘惑が襲う度に、何度でも古い自分に背を向け、キリストの中に与えられている新しい自分に顔を向けて前進するように、聖霊が促すからです。
 つまり、わたしたちの中に与えられている聖霊の働きは、主イエスの恵みに答えて、自ら進んで主イエスに従う信仰者の「新しい主体」の働きとなっています。わたしたちは愛の業を完全には実行できなくても、常に実行するようになるのが、聖霊の働きです。
 最後にパウロが言うすべてに「耐える」という言葉は、「しっかりとしていて困難や試練に動揺されない芯の強さ」「堅忍不抜」という意味です。それこそ、聖霊による愛の働きです。



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2017-09-10(Sun)

あふれ出る愛 2017年9月10日の礼拝メッセージ

あふれ出る愛
中山弘隆牧師

 その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。
ゼカリア書14章8~9節


 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカによる福音書10章25~37節


 今日の日本を取り巻く国際状況の中で、平和を維持することが、緊急の課題となっています。特に、北朝鮮が核武装を完成する時が間近に迫っていると予想されるので、米国と日本と韓国は北朝鮮の核武装を未然に防ぐため、経済と軍事の両面の圧力を強化する政策を取っています。これは一つ間違えば戦争になりかねません。
 しかし、わたしたち信仰者には歴史の難題に対処する唯一の視点が与えられています。それは主イエスの主権が結局は歴史の流れを支配するということです。
 それゆえ、信仰的視点に立って平和を維持するため、近隣諸国とどう付き合えばよいかについて考えなければなりません。

(1)では、わたしの隣人とは誰かですか
 本日の聖書の箇所で、主イエスはわたしたちに隣人とは誰であるかを教えられました。ここでユダヤ教のある律法学者が、神の定められた律法をどのように解釈するかについてイエスに論争を仕掛けたことが記るされています。
 先ず、律法学者はイエスに向かって、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と議論の火蓋を切りました。イエスはそれを受けて立ち、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」といって、問いを相手に返されました。これは律法の神髄は何か。律法の根本目的は何かという問いであります。
 それに答えて、律法学者は律法全体を二つの戒めによって、要約しています。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と律法に書いてある、と答えました(ルカ10:27)。
 この第一の戒めは、敬虔なユダヤ教徒たちが毎日唱和している信仰告白、すなわち申命記6章4~5節に含まれています。
 「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
 また第二の戒めである「隣人を自分自身のように愛しなさい」という聖句は、レビ記19章18節からの引用です。
 このように律法全体はこの二つの戒めの上に立脚していると答えた律法学者に対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカ10:28)と仰せられました。
 このイエスの言葉から分かりますことは、永遠の生命は「神と隣人とを愛する」ことに他なりません。但し、ここで神を愛するとは「神に従う」ということであり、隣人を愛するとは、「神の愛」をもって隣人を愛することです。実に神と隣人とを愛する者は、終末において到来する神の国の生命に、今この地上の生活においてすでに、その先取りとして生きるのであるとイエスは仰せられました。
 しかし、律法学者は隣人に対する愛について、条件を付けることによって実質的に隣人愛を拒もうとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うたのです。
 ここには隣人愛の対象を制限することによって、隣人愛の義務を軽減しようという意図が明瞭です。あからさまに言えば、隣人愛を自分たちの仲間だけに限定しようとしています。そして最小限に縮小すれば、律法学者やファリサイ派の人たちが自分の隣人です。しかし、彼の意図は律法を与えられた神様の意志に反しています。

(2)溢れ出る愛
 これに対して、主イエスは善きサマリヤ人の譬え話をされました。しかしこの譬え話は、例話でありますので、人がその通りに実行すべき性質の物語です。従いまして、イエスがここで示された隣人愛は、民族の枠を越えて働く愛です。「あなたの助けを必要としている者は、どの民族に属していようとも、あなたの隣人である」と言われたのです。
 要するに、イエスは「与えられた時と場所で、活きて働く愛をもって、あなたが助けることのできる者は、誰であっても、あなたの隣人なのだ」と教えられています。
 30節で、「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」と話されました。
 この種の事件は当時頻繁に起こっていました。エルサレムの町からエリコの町までは、約30キロの急な下り坂道です。徒歩で約8時間も掛かかる長い坂道です。しかも岩ばかりの荒涼とした道がどこまでも続いており、追い剥ぎが出没する悪名高き道路でした。それでも幹線道路でありましたので、人々は危険を冒してもそこを通らねばなりませんでした。
 31節、32節で祭司とレビ人が登場してきます。彼らは神殿での当番が終わり、次の当番までの間、郷里に住むためエルサレムから下っていったのだと思われます。ちょうどその時、追い剥ぎに襲われて、半殺しになって倒れている同胞の側を通りました。
 祭司は神殿で民衆に律法を教える立場にある宗教家です。それゆえ隣人の災難には誰よりも同情心があるだろうから、自分を必ず助けてくれるに違いないと重症の被害者は期待しました。それにも拘わらず祭司は見て見ぬふりをしてそこを通り過ぎていきました。
 彼は自分の身にも危険が迫ってくることを恐れ、足早に立ち去ったのです。また、神殿に仕えているレビ人も同じように、そこを通り過ぎてしまいました。もしわたしたちだったらどうするでしょうか。身の危険を感じてとっさに立ち去るでしょうか。それとも途中で思い返して、気の毒な旅人を助けるために引き返すでしょうか。
 その後、サマリヤ人の旅人が近づいてきました。彼は商人でエリコからエルサレムへ上る途中でした。残念ながら強盗に襲われたユダヤ人にすれば、サマリヤ人から助けを期待することはできません。
 なぜならば、サマリヤ人はユダヤ人がバビロンに捕囚されていた時期に、祖国に残ったユダヤの貧民階級で、彼らはその期間に他民族と混血してしまったからです。その後、バビロニヤ帝国に代わって覇権を掌握したペルシャ帝国がユダヤ人を解放しましたので、彼らは祖国に帰還しました。そのとき、帰還したユダヤ教の律法学者エズラによって、サマリヤ人は純粋のユダヤ人でないという理由で、ユダヤ教から追放されたのです。それ以来、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲で、彼らは互いに敵対していたのです。
 ところが、このサマリヤ人は普段自分たちを軽蔑し、差別しているユダヤ人が瀕死の状態で倒れているのを見ると、人ごとのように思わず、あふれでる深い同情の念に突き動かされました。
 「ところが、旅をしていたサマリヤ人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油と葡萄酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」(10:33~34)
 「憐れに思い」というギリシャ語は、実に深い意味があります。それは「心の一番奥から出る思いと感情」に突き動かされ、行動することです。人の災難を自分自身の災難のように同情し、助けることです。しかもその人を助けようと「自分で決心する」ことです。そして直ちに実行することです。
 これは人間の行う最も高貴な決断であり、本心から出た行為なのです。サマリヤ人はこのように堅く決心して、これまで全く面識の無い人を、宿屋に連れて行って、介抱し、まるで身内の者のように世話をしました。
 さらに、翌日宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚をわたし、介抱してくれるように頼みました。この額は数日分の宿屋の料金に相当すると言われています。そして、もし余分に掛かった費用は自分がエルサレムを出発するときに支払いますと約束しました。
 考えてみればこのサマリヤ人の献身ぶりは、並大抵の親切ではありません。実に溢れ出る愛であります。法外とも言うべき親切であり、しかも無償の愛です。出し惜しみする施しではありませんし、ひも付きの援助でもありません。心の中から溢れ出る豊かな愛です。
 そこには主イエスが山上の説教の中で、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。誰かが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」(マタイ5:40~41)と教えられたその積極性があります。言い換えれば自ら喜んで与えようとする自発性が、このサマリヤ人の親切な行為の中で働いています。
 それでは、人はなぜそのような愛を実行できるのでしょうか。それは決して単なる義務感から実行しているのではありません。神様がわたしたちを愛して下さっていることを知っているからです。
 クリスチャンは主イエスがわたしたちを救うために、十字架について死に、ご自身の尊い命をわたしたちに与えて下さったことを、知っているからです。さらに神様は聖霊を通して、「復活の主イエス」の命と「神の愛」をわたしたちの心に注いで下さるからです。

(3)発想の転換
 次ぎに、「わたしの隣人とは誰であるか」という律法学者の発想に対して、善きサマリヤ人の譬え話をされたイエスは、「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(10:36)と問いかけ、「その人を助けた人です」(10:37)と律法学者が答えますと、イエスはこう命じられました。
 「行って、あなたも同じようにしなさい」。実に、イエスの発想は「助けを必要としている人の隣人になる」ということです。
 ここに発想の転換があります。「わたしの隣人はだれか」という視点から、「わたしが隣人となる」という視点への発想の変換です。
 わたしはこの譬え話を読んで大いに感じますことは、平和を守るためには、すなわち戦争を防止するためには、わが国が中国や韓国、北朝鮮、ロシアや東アジア諸国の隣人となることの必要性です。
 戦時中の日本の天皇は明治政府により神として祭られ、国民は天皇の臣民として生きることが誇りであり、他方、他民族を蔑視しました。それは他の民族、国家に対して隣人、隣国という考え方の欠如の現れです。それは日本の天皇が本当の神ではなかったからです。
 今や真の神であり、世界万民の主権者となられた主イエス・キリストは、すべての民族が互いに隣人であると仰せられました。つまり、神のあふれ出る愛に生きる民族にとって、自分たちの助けを必要としている民族が自分たちの隣人であると仰せになりました。
 この観点に立つならば、わたしたちは他の民族や他の諸国家との共存の道を自ら選び、切り開くために、神から与えられる英知を働かせることができます。
 日本は米国の核の傘によって、近隣諸国の攻撃から自国を防衛しようと言う政策を平和維持の基本方針にしていますが、それは甚だ認識不足です。なぜならば、もし核戦争になったら最新式の核兵器を持っている米国が勝利すると一般的に考えられているのは、多分本当でしょう。しかし、米国自身も甚大な被害を受け、米国と軍事同盟を結んでいる日本もその巻沿いになり、日本の国家はこれまでにない大きな被害を受け、国家存亡の危機に直面します。
 しかし、わたしたちは絶望することはありません。万民の主権者である主イエスは人類の歴史の中に、これまでも、今後も神のあふれ出る愛を注ぎ、破滅の道を回避するようにして下さるからです。



2017-09-03(Sun)

主にある喜び 2017年9月3日の礼拝メッセージ

主にある喜び
中山弘隆牧師

 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
詩編16篇5~11節


 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
フィリピの信徒への手紙4章4~8節


(1)最初の信仰者たち
 キリストの使徒パウロは、キリストの福音を世界の諸民族に宣教するために、世界伝道旅行を三回行いました。二十数年に渡る伝道の生涯で、多くの困難と迫害に遭遇しながら、小アジアからギリシャそしてローマに至る各地にキリスト教会を設立しました。それらの教会は、主にユダヤ人キリスト者ではなく、異邦人のクリスチャンから構成されていました。
 それゆえ、パウロは「ペトロには割礼を受けた人々(ユダヤ人)に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々(異邦人)に対する福音が任せられている」ということが、エルサレムで開催された使徒会議(使徒言行録15:1~21)で承認されたと、言っています(ガラテヤの信徒への手紙2:7~8)。
 ところでキリスト教の信仰は、旧約聖書の信仰の成就ですので、旧約聖書で信じられている唯一の神様を信じ、礼拝し、神様に従う生活をすることです。しかし、旧約聖書の時代は、神の救いが約束されている時代であり、救いは未だ実現していませんでした。
 神の救いは御子イエスの地上における「神の国」の宣教と、人類の罪を贖うために献げられたイエスの「十字架の死」と、死人の中からイエスが「復活した」ことを通して成就しました。
 それゆえ使徒たちは次のように「イエス・キリストの名」による救いを証言しています。
 「イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。他のだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4:10~12)
 ここで問題は、イエス・キリストが世界万民の救い主であり、ユダヤ人も異邦人もイエス・キリストを信じることによって、共に神の救いを受けるという福音を特に異邦人が喜んだということです。しかしユダヤ人は旧約聖書の時代から救いはユダヤ人に約束されている以上、異邦人が神の救いを受けるには、割礼を受け、モーセの律法を守るユダヤ人の生活をしなければならないと主張しました。このように、ユダヤ教徒はキリスト教に反対し、迫害したのです。
 もう一つの問題は、救い主として、世界万民を支配し、救いに導いておられる主イエス・キリストは復活して、今や神の力を持って働いておられる方なので、主イエスを信じるには、その「霊的現実」を「信仰」によって認識する必要があるのです。しかし、この点も復活の主イエスは福音の宣教と共に臨在し、聖霊を与えられるので、主イエスを信じることができるようにされています。
 それゆえイエスは信仰とは幼子のように単純に信じることである(マタイ18:3)と教えられました。また、神の救いの福音を聞いて喜んで信じる者が本当の信仰なのだ(マタイ13:44)と仰せになりました。このようにパウロの語る福音の宣教を聞いて、喜んで、単純に、信じた人たちが異邦人のクリスチャンたちです。
 パウロは協力者シラスとテモテを伴う二回目の伝道旅行で(使徒言行録15:40;16:1~3)、ギリシャに初めて足を踏み入れたとき、一番初めに伝道する場所として、フィリピの町を選びました。そして従来の伝道方針に従い、先ず神を信じている者が礼拝のために集まるユダヤ人の会堂を探しましたが、フィリピの町には見つかりませんでした。しかし、信者はフィリピにもいるはずですから、安息日に信者が集まる「祈りの場所」を探し、川辺にそれを見つけ、集まって来た人たちに福音を語ったのです。
 「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」(使徒言行録16:14)
 ここでリディアは小アジアのティアティラ市出身で紫布の商人であったと記されています。ティアティラは紫の染料で有名な町です。リディアはその町と関係の深い有能な商人であったと思われます。
 彼女はこれまでユダヤ人が信じている神が真の神であることを知り、彼らの清い道徳生活は神の祝福と働きによることを認め、ユダヤ人と一緒に神を礼拝していた異邦人でした。彼女はそのように神を信じていたのです。他方、自分もユダヤ教徒になり、ユダヤ教の様々な戒律に縛られた生活をすることには同意していませんでした。
 今、これまでの自分の求道生活を顧み、自分が心から神に求めているものが何であるかを思い巡らし、真剣にパウロの話を聞いたのです。ここに神の導きが現れています。
 「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」と聖書は説明しています。
 このように、神様はキリストの復活の証人である使徒パウロを通して、キリストの福音を語らせ、同時に聞く者の心に聖霊を与え、熱心に聞くようにされたのです。
 リディアは福音の言葉を真剣に聞いているうちに、自分がこれまで知らずして求め探していたものが実はここにある。それは主イエス・キリストである。「主イエス」こそ、自分の罪を赦し、新しい命を与え、神の御前で清く、正しく生きるようにしてくださる「真の救い主」であると思いました。
 さらにこの思いの確かさは自分の力による確かさではなく、正に神によって与えられる確かさであることも分かったのです。その時彼女は「神」を信じることと、「主イエス・キリスト」を信じることは不可分離で、両者は調和しており、「一つ」になっているのだと直感し、主イエスを信じました。そしてパウロの勧めにより、主イエス・キリストの名によって「洗礼」を受けました。
 「そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた。」(使徒言行録16:15)
 このように、使徒たちは、キリストの福音を語り、信じる者には、直ちに洗礼を施したのです。そのようにして福音を広めて行きました。これは非常に重要なことです。ここに主イエスの臨在と働きがあるのです。そして、洗礼を受けたとき、聖霊が与えられるのです。
 
(2)主イエスのために共に仕える
 それゆえ、リディアは感謝と喜びに満たされて、神の救いを伝えているパウロたちの伝道に、信徒として協力することを申し出ました。しかも聖霊による神の愛と熱意に溢れてパウロたちを説得しました。このことは使徒言行録に記されています。
 「そのとき、『私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください』と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。」(使徒言行録16:15)
 これは実に大胆な申し出です。自分の家をパウロたちの宿として提供し、さらに自分の家をキリスト教の集会のために解放しましょうと申し出ました。これにはパウロたちも驚きました。この申し出は単なる一時的な感激や月並みの感謝ではなく、純粋に主イエスの愛に応えることから発せられています。全く主イエスに対する感謝と主に従い、主に仕えるために、パウロの伝道に協力することを自発的に決意したのです。
 パウロたちが主イエスのために、自分のすべてを献げて、福音伝道に従事していることに感動し、心からその生き方に共鳴したので、そのように大胆な決断を致しました。
 そして彼女は自分の知っている人たちを集会に誘い、伝道のために大いに力になったのです。このようにして、パウロたちはリディアの家を礼拝と伝道のために使用することができましたので、異邦人を対象にした伝道が前進しました。フィリピの町は大都会ではありませんでしたが、それでも着実に教会は発展し、地方における福音宣教の強力な拠点となったのです。
 このようにパウロは、フィリピ教会の信徒たちの働きを深い信頼を持って受け入れ、それ以後他の所で福音伝道の労苦を担い、奮闘しているときに、いつもフィリピの人たちのことを祈りの中で覚えました。また自分たちもフィリピの人たちに祈られ、お互いの心繋がりを主イエスによって生涯保ちました。

(3)フィリピの信徒への手紙
 最後に、パウロは世界伝道の多忙な生活の中で、諸教会に多くの手紙を書き送りましたが、最後の手紙はフィリピの教会に宛てた手紙です。それゆえこの手紙はパウロの遺言ともいうことができます。その後まもなくローマでネロ皇帝によるキリスト教の大迫害が起こり、パウロはペトロと共に殉教しました。
 その前に、パウロは三回目の世界伝道旅行の帰路に、キリストの弟ヤコブが代表者になっているエルサレム教会に、異邦人教会からの愛と感謝の援助献金を送り届けました。その際、エルサレム神殿に入りましたとき、パウロの伝道に敵対しているユダヤ教徒に見つかり、大混乱となり、パウロはローマの兵隊に助けられ、総督の駐屯地に保護されました。しかし、ユダヤ教当局がパウロを訴えたために、パウロはローマ皇帝ネロの裁判を受けることになり、ローマに護送されました。こういう経緯でローマに監禁されているとき、パウロはフィリピにいるクリスチャンたちに手紙を書いたのです。
 この手紙は「パウロの遺言」となった手紙ですが、同時に主イエス・キリストを信じる者たちの「喜びの手紙」です。実に、パウロの喜びは、フィリピの信徒たちが主に結ばれて、迫害に耐え、信仰の生涯をしっかりとした態度で歩んでいるということです。
 言い換えれば、クリスチャンたちは、主によって救われ、主に従うことによって神のみ前に生きていることの確信と感謝から、自分たちは最早自分のものではなく、「主イエスのもの」であるという深い思いを持っています。自分たちは「主のために生き、主のために死ぬ」ということがクリスチャン共通の生き方なのです(ローマ14:8)。そのような生き方がまたクリスチャンの絆を深めます。
 それゆえ彼はフィリピの人たちに「喜びなさい」と勧めています。
 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。--どんなことでも、思い煩いはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(4:4~7)
 ところで、「主において常に喜ぶ」ということは、困難と苦しみの中で、それらに「打ち勝つ喜び」なのです。
 どうしてそんな喜びがクリスチャンの心から湧き出るかと言いますと、それは主イエスの福音を聞いて、主イエスを信じるとき、死人の中から復活された主イエスの存在と働きの「生ける霊的現実」が分かるからです。実にクリスチャンの喜びはこの点にあります。
 「あなたがたは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(1:29)
 このように、キリストの恵みは、ユダヤ教徒の迫害、さらにこの世の権力者の迫害の中でも、それに脅されてもたじろがず、信仰を堅持する霊的な力を主イエスが聖霊を通して与えられるのです。
 さらに、苦しみの中でも、喜んでいることができるのは、迫害にたじろぐことなく(フィリピ1:28)、対処できるクリスチャンの姿を神はご覧になって喜んでおられるからです。実に神様の喜びが力となるのです。それゆえパウロは「祈ること」を勧めています。
 「どんなことでも、思い煩うことは止めなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)。さらにパウロの最後の勧めはこれです。
 「兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」
 この勧めは、クリスチャンはこの世の人から孤立するのではなく、「心を広くして」(4:5)、この世の中に見られる真実で誠実なこと、善意と愛、寛容なこと、その他のすべて価値あることを尊重し、クリスチャンも実行することが神の御心であると心得ることです。
 なぜなら神は世界万民のための恵み深い支配者であるからです。



2017-08-27(Sun)

主に従う 2017年8月27日の礼拝メッセージ

主に従う
中山弘隆牧師

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
マタイによる福音書7章24~29節


 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
マルコによる福音書1章35~39節


(1)最初の弟子たち
 本日の礼拝では、本年度の教会の標語であります「主に従う」ことがどのような幸いであるか、また神様が喜ばれる人間の生き方であるかを聖書から、学びたいと願っています。
 特に本日の礼拝は修養会を兼ねて行いますので、礼拝の中で証を澤田喜美姉妹がしてくださいます。礼拝に引き続いてしばらくの間、話し合いの時を持ち、皆様が主に従っていくことを自分の祈りと体験を通して理解したことを話し合い、互いに励ましを受けるようにと願っています。
 福音書や使徒たちの手紙を読みますと、クリスチャンとは神の御子イエスから見いだされ、呼びかけられて、御子イエスの弟子となり、生涯を通して従った人たちです。
 ガリラヤの湖で漁をしていたシモンと兄弟アンデレをイエスはご覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われとき、すぐにイエスに従いました(マルコ1:16~18)。
 同じ湖で少し離れたところに、ヤコブと兄弟ヨハネも船の中で網の手入れをしていました。「わたしに従って来なさい」とのイエスの呼び掛けに応え、すぐ従ったのです(マルコ1:19~20)。
 あるいは、通りを行かれるとレビが収税所に座っているのをご覧になり、「わたしに従って来なさい」と言われたので、直ちに立ち上がりイエスに従いました(2:14)。
 しかし、イエスの福音を信じない人達がイエスから離れ去って行った時に、イエスは「あなたがたも離れて行きたいか」と尋ねられたので、彼らは「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6:67~69)と言って、イエスの許に最後まで踏みとどまりました。
 このように、弟子たちは生涯を通してイエスに従った人たちです。
 あるいは、イエスによって罪の赦しによる救いを与えられた徴税人ザアカイの場合は、日常生活の中で弟子としてイエスに従いました。イエスに見いだされ、罪を赦されたザアカイは悔い改め、隣人に対する溢れる愛の行為を喜んで行いました。
 それを見てイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子(わたし)は、失われた者を捜して救うために来たのである。」と仰せられ、ザアカイの決心を大変喜ばれました(ルカ19:9~10)。
 他方、ガリラヤ地方に住んでいた多くの女性は、罪の赦しを語られるイエスの説教を聞いて、自分が神様から罪を赦され、神に愛されていることを知り、喜んで神に仕えるためにイエスに従い、エルサレムまでついて来た人たちです(マルコ15:41)。
 そして人類の罪を贖うために、御子イエスが十字架の死を全うされた有様を目撃し、三日目に死人の中から復活したイエスに出会いました(マタイ28:8~10)。
 それでは、このように御子イエスに捜し出され、御声を掛けられ、弟子とされた使徒たち、さらに一般的な弟子となったたちクリスチャンの使命は何であるのでしょうか。この点をマルコによる福音書は説明しています。
 「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:14~15)
 このように使徒たちを初めとして、イエスに従った最初のクリスチャンたちは、神の御子イエスの地上における生涯の証人なのです。自分の罪による闇の力に束縛され、魂の苦悩の中で絶望していた人々がイエスの言葉と行為によって癒されたことの証人なのです。
 イエスの罪の赦しの言葉を聞いて、信じたとき、神様から実際に罪を赦され、自分を神様が受け入れて下さったことが分かりました。御子イエスを通して、神様が自分を愛して下さったことを悟ったのです。そして神様が喜んでくださる新しい生き方ができるようになりました。それゆえ、イエスご自身が「神の赦し」、「新しい命」、「神の救い」であるという霊的事実の証人なのです。

(2)神の救いと主イエスの導き
 さらに重要なことは、わたしたち人間と同じように、弱い人間となられたイエスは、全生涯において、父なる神の御心と働きを知り、父なる神の御心を実行し、父なる神に対する従順を全うされたことです。それゆえ、イエスは神の御子であり、神の救いであり、神の啓示なのです。
 イエスは父なる神を「自分の固有の父」として知り、父に祈り、「アバ父よ」と呼びかけられました。そして父と子とは互いに知り合い、互いに相手の中に内住しておられる方であることを啓示されました。父と子との関係の自覚がイエスの祈りの中で表れています。
 「父のほかには子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者の外には、父を知る者はいません。」(マタイ11:27)
 この場合、ルカによる福音書は、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。」と説明しています(ルカ10:21)。
 このように、イエスは御自分が神の御子であり、父なる神を啓示する唯一の存在であると仰せになっています。つまり人は皆、イエスを通して父なる神を知ることができる。イエスによって罪が赦され、神に従う人生を歩むことができると仰せになりました。
 それゆえ、御子イエスは信じる者に永遠の命を与えることができるのです。なぜならば御子ご自身が、永遠の命であるからです。御子自身が義であり、命であり、聖であり、贖いとなられたからです。この神的な事実を使徒パウロは言っています。
 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(コリント一、1:30)
 ところで、御子イエスは使命を達成するために、十字架の死による罪の贖いを果たさなければならなかったのです。イエスは公生涯の最初からその使命を自覚し、父なる神への従順によって全うするため、祈り求めて来られました。しかし、それは至難の業です。真の人間であるイエスが平静な態度で、死を引き受けることは不可能です。ギリシャの哲学者ソクラテスは、「自分が無知であることを自覚している」と言う「真の知恵」を体得し、教えました。しかしアテネの人たちは全く理解せず、議会を招集して、ソクラテスに死刑の判決を下しました。ソクラテスは議会の決議は間違っているが、判決そのものは「法」として尊重されるべきであるという態度をとり、落ち着いて従容として毒杯を仰いで、死に着きました。
 イエスの場合は全く対照的です。ゲッセマネで血の汗を流すように必死で祈られました。「父よ、あなたは何でもおできになります。父よ、十字架の死を避ける道を開いてください。しかし十字架の死が父の御心であれば、御心に適うことが行われますようにと祈られました(マルコ14:36)。
 実に必死の祈りによって、父に従うことを「最終的」に決意されたのです。その結果、ご自身がすべての者のための義と聖と贖いと命になられたのです。同時に、死人の中から父によって復活させられ、父なる神の主権の委任を受け、御子イエスは今や神の力と権威を持って、すべての人間を救いに導いておられるのです。

(3)主イエスに従う者の新しい生き方
 それでは今、復活の主イエスはわたしたちをどのように支配し、救いの完成する永遠の国へ、わたしたちを導かれるのでしょうか。それこそ、わたしたちが復活の主イエスに従うことを通してです。なぜならば、地上の生涯で弟子たちを導きかれた復活の主イエスは、今もなお失われた人々のところに来て、地上の生涯において成し遂げられた救いをもって、語り、赦し、信仰を与え、救いの完成する永遠の神の国へと信じる者たちを導いておられるからです。
 地上におられたときには、神の国がイエスを通して開始しつつあった時期であり、イエスに従った弟子たちはイエスが神であることをまだ信じていませんでした。さらに救いの完成はイエスの十字架の死と復活によって実現したのですから、信仰者が主イエスに従うと言うことは未だ不完全であり、一定の制限があったのです。
 それゆえ、イエスが十字架につけられたとき、弟子たちはイエスを捨てて逃げ去ってしまいました。それは弟子たちが信仰によって御子イエスと未だ結ばれていなかったからです。
 イエスが復活し、主イエス・キリストとなられた今は御言葉を通して、語り、同時に聖霊を与え、聖霊による信仰を与え、聖霊を通して御言葉を理解させ、聖霊を通してご自身の命を与えられますので、主イエスに従う者は、主イエスの命令を実行することができるようになりました。復活の主イエスの特徴は聖霊を与えられる方となられたことです。
 確かに、地上における御子イエスは御言葉を語り、病を癒されたとき、聖霊が働いており、イエスは聖霊の所有者でありましたが、まだイエスと出会う人々に聖霊を与えられることはなかったのです。復活されたとき初めてそれが可能となりました。
 それゆえ復活の主イエスが弟子たちの所に現れ、彼らと出会い、彼らの罪を赦し、彼らとの関係を「回復」されましたので、それは最早撤回されることのない「永遠の関係」となりました。
 実に、復活の主イエスは常にクリスチャンと共にいます「インマヌエルなる神」です(マタイ1:23)。しかも神は怠惰な神ではなく、行動しておられる生ける神です(ヨハネ5:17)。
 それゆえ、わたしたちを導かれる復活の主イエスはご自身の行動とわたしたちの行動を結び合わされています。わたしたちの先頭を進んで行かれる主イエスを見つめて、わたしたちは従っていくのです。その際に、聖霊は主イエスの御姿をわたしたちが「心の目」で見つめることができるようにして下さいます。
 勿論わたしたちの歩みは遅々としていますので、主イエスはわたしたちの歩みに合わせて下さいます。それゆえ、わたしたちは主イエスの命令を「一生懸命」に実行するのです。その「熱心さ」を父なる神は喜んで下さり、神の喜びが聖霊によってわたしたちの心に注がれます。わたしたちは感謝し、喜んで神のみ前に生きるのです。
 このことはわたしたちの生きる意味です。他のいかなるものにも代えられない最高の幸せです。この幸いを自覚し、喜び、感謝するのがクリスチャンの生き方です。それでは、この喜びをわたしたちは自分のこととして知っているでしょうか。一人一人に問われています。なぜならばそれは神様の一番喜ばれることなのですから。
 それゆえ、イエスは山上の説教の締めくくりとして「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と仰せになりました。(マタイ7:24)
 最後に、わたしたちは祈りの必要性を認識し、日々主イエスの前に出て、主よ、御心をお示し下さい。わたしの果たすべき使命をお語り下さい。使命を果たさせて下さいと、祈ることが必要です。
 主イエスはマルコによる福音書では、毎朝早く起き、その日に為すべき事柄を祈ってから、福音を語り、罪の赦しの御言葉を与え、罪の支配に苦しめられている魂を癒されました。
 但し、イエスは夜を徹して祈られたこともしばしばあるし、日中でも祈っておられること多かったのです。この点ルカによる福音書は強調しています。
 「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」(ルカ9:28~29)
 このように御子イエスは常にどこでも祈ることのできた方です。祈りによる父との交わりを常に求めておられたのです。しかし、イエスは弟子たちに、「あなたがたが祈るときには、異邦人のようにくどくど述べてはならない。」と教えられました。
 要するに、イエスの祈りはそこから日々の実行が生み出されたということです。行為が可能となるために祈られたのです。
 それゆえわたしたちも「祈ったこと」は実行するのです。そうすれば「主の命が働く」のです。これが主イエスに従うことです。



2017-08-20(Sun)

霊的な礼拝 2017年8月20日の礼拝メッセージ

霊的な礼拝
中山弘隆牧師

 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
エレミヤ書31章33~34節


 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書4章13~26節


(1)真の礼拝
 今朝は礼拝に関して、聖書の御言葉を共に聞くことを願っています。わたしたちの礼拝が本当の意味で礼拝となるために、どうすればよいかを、主イエスは本日の聖書の箇所で教えておられます。
 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝をする者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(4:23~24)
 それまでは、サマリア人はサマリアのゲリジム山(参照;申命記27:12)で礼拝し、ユダヤ人はエルサレムで礼拝していました。それぞれが旧約聖書に従った正しい礼拝をしていると主張していたのです。確かにサマリア人は、創世記から申命記までの五つの書を聖書とし、それに基づいて自分たちは正しい礼拝を行っていると考えていました。この問題に対して、主イエスは神の権威をもって次の解答を与えられたのです。
 神はユダヤ人やサマリア人の民族的な枠を超えた普遍的で霊的礼拝を求めておられるという全く新しい内容です。そして、神は霊であるから礼拝する者も「霊と真理」をもって礼拝なければならないと仰せられました。
 ここに実に重要な意味があります。人の目にはいかにも敬虔らしく見える礼拝を満足しているとしても、自分の思いや言い伝えによって礼拝している限り、それは決して神の望まれる礼拝ではないと、主イエスは仰せられたのです。
 主イエスが「神は霊である」と仰せられたのは、神は人間のように身体をもっておられる方ではないから、人間の目には「隠れた神」である。しかし全能の力をもって働いておられる生ける神であり、ご自身の意志をもって語り、ご自身の力をもって行動する「主権者」であると言う意味です。
 それゆえ、神はどこにでも、存在し、働いておられる。ユダヤ人は礼拝する場所がエルサレムである、サマリア人はゲリジム山であると言っているが、そうではない。神が臨在されるところで、人は礼拝しなければならないと仰せられました。そしてまた仰せになりました。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたは、この山でもエルサレルでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(ヨハネ4:21)

(2)唯一の礼拝の場所
 それでは、父なる神はどこに臨在されるのかと言う問題が、非常に重要です。それこそ主イエス・キリストがおられる場所なのです。
 第一の理由は神が主イエス・キリストを通してご自身を完全に示されるからです。主イエスによって決定的に永遠に表されるからです。
 第二の理由は、人が神を礼拝するために神の御前に出るには、人間の罪が贖われなければなりません。旧約聖書では、それは動物の犠牲の血による罪の贖いでした。エルサレム神殿で一番聖なる場所は「至聖所」と呼ばれており、そこに大祭司が年に一度だけ入り、その中の贖罪所の上に、犠牲の動物の血を注ぎかけるのです。このようにイスラエルの民の罪を贖うことが礼拝の中心でした。
 しかし動物の血は人格を持っていませんから、人間の罪を贖うことはできません。あくまでもそれは罪の贖いの象徴でした。ヘブライ人への手紙は、次のように言っています。
 「いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じ生け贄によって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。」(ヘブル10:1)
 これはどういう意味か少し説明致しますと、旧約聖書時代の幕屋における礼拝は、モーセがシナイ山で神から授けられた律法により、規定されていました。これは後にエルサレム神殿の規定となります。しかし、そのような規定は終わりの日に神が与えられる真の礼拝の「影」であり、「実体」ではなかったのです。それは真の礼拝の到来を約束するものでした。今や主イエスによって人類の罪の贖いが、ご自身の十字架の死によって成就しましたので、真の礼拝が可能となったのです。
 ここで主イエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理とをもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」と仰せになっています。(4:23)
 実に真の礼拝ができるために、神の永遠の御子が歴史的な人間となり、真の神・真の人である「御子イエス」として、サマリアの婦人と出会い、語っておられると言うことは、旧約聖書が約束している人類の罪の贖いの時が、そこで開始していたのです。
 しかし具体的に言えば、イエス・キリストの十字架の死による人類の罪の贖いと、死人の中からの復活と、引き続いてイエスが神の右の座に着かれたことによって、真の礼拝が可能となったのです。
 第三の理由は、御子イエスにおいて真理が実現し、現れたと言うことです。ヨハネによる福音書は特に「御子イエスの真理」を福音の中心として強調しています。
 「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(1:17)
 ここで、ヨハネによる福音書がいう「真理」とは決して正しいと言う抽象的な概念ではありません。そうではなく、全知全能の神が御子イエスの十字架の死によって人類の罪を贖われた方法は、あくまでも神が「ご自身の性質に対してどこまでも忠実」に行動されたことです。そのようにして真理が現れたのです。
 つまり、人類の救いのために、人類に代わって、人類の罪を引き受けられた「御子イエスに対する神の裁きの中」で、「わたしたちすべての者の中」に「神の意志が貫き、実現した」のです。それゆえ父なる神に全く従順であったイエスの死において「真理」が実現しました。
 それゆえ真理とは、御子である主イエス・キリストの存在と行為の中に現れた「人間を生かす命と恵みに溢れた」霊的現実です。その「霊的力」を、ヨハネによる福音書は「真理」と呼んでいます。

(3)聖霊による礼拝
 ところで、礼拝する者は霊と真理をもって礼拝しなければならないと、主イエスが強調されました「霊」とは「聖霊」のことです。
 聖霊こそ、御子イエスが語られる御言葉の意味をわたしたち人間に理解させる方です。聖霊は父なる神と御子イエスから出る方であり、聖霊は神様です。しかも、御子イエスは礼拝において、わたしたちと出会われる場合に、聖霊を礼拝する者たちに与えられる方なのです。
 それではそのように礼拝すべき神様は誰でしょうか。父なる神様です。わたしたちの罪を贖い、復活して父なる神の右の座に着いておられる主イエスによって、わたしたちは父なる神様を礼拝するのです。
 主イエスを通してご自身を啓示される父なる神の栄光を仰ぎ、父なる神に祈り、聖霊によって父なる神の御心を知り、聖霊によって主イエスの復活の命を与えられ、父なる神の意志を実行し、父なる神を賛美するのです。これが霊的礼拝の内容です。
 なぜならば、神は創造者であり、人間は神によって創造された者ですから、神様と人間と間には無限の隔たりがあります。しかし、御子イエスは神であり、同時に人間でありますので、神と人間との交わりを可能にする唯一の存在です。御子は神と人間の交わりの結び目、「結節点」です。それゆえ神と人との「仲保者」と呼ばれています。
 御子イエスは「仲保者」として、礼拝を「可能」にするために、人間の罪を贖われたのです。その結果、父なる神は人間の罪を赦し、人間を喜んで受け入れ、人間をご自身との人格的な交わりに招き入れられました。実にこの事実を「信じる」ことにより、人は本当の「礼拝」ができるのです。

(4)大祭司である御子イエスの執り成し
 そのような方として、主イエス・キリストは今、死人の中から復活し、父なる神の許におられます。父なる神の右に坐し、天地万物の支配者として、すべての者に対して恵みに溢れた「主権」を行使しておられます。
 同時に、主イエスは父のみ前に立ち、わたしたちの礼拝を可能にするために、「大祭司」としてわたしたち「一人一人」のために、父に執り成しの祈りをしておられます。
 そのような方として、大祭司である主イエスは「わたしたち一人一人の弁護者」なのです。使徒パウロもこのことを証言しています。
 「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座って、わたしたちのために執り成して下さるのです。」(ローマ8:34)
 それでは、神の御子イエスは「大祭司」として、礼拝をしているわたしたちのために何を祈っていてくださるのでしょうか。大祭司としての御子イエスの祈りが、ヨハネによる福音書17章に記されています。
 「真理によって、彼らを聖なる者としてください。--彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」(ヨハネ17:17,19)
 ここで、「真理によって」とは御子イエスの十字架の死において実現した神の真理によってと言う意味です。つまり、イエスの十字架の死と復活を通して、復活の主イエス・キリストの中に「人間の救い」が実現し、「救われた人間」が主イエスの中に存在しているのです。正に「この霊的現実」によって、主イエスに従う「クリスチャン」が「聖なる者となる」ためです。「清められる」ためです。言い換えれば「御子イエスの性質を映し出す新しい人間」として成長し、その実質を備えるように、大祭司イエスは祈っておられます。
 同時に、クリスチャンが聖化されるのは、主イエスの支配の中で、主イエスの命令を聞き、命令を実行することによってであります。それにしても、わたしたちを導かれる主イエスは、わたしたちのために祈っていてくださるのです。わたしたちが主イエスに従うには、自分で祈ることが必要なのですが、わたしたちの祈りを、イエスの祈りが支えて下さるのです。
 わたしたちは神に罪を赦され、神の救いを受け、主イエスの性質に似る者となるように、既に定められています。それにも拘らずではなく、それゆえに、わたしたちは日々清くなければならないのです。
 要するに、自分の中に今なお巣をつくっている古い自分、この世の罪に染まった自分が存続していますので、それを捨て去り、主イエスの命令を実行することを、神のみ前で決意し、主イエスに従う日々の生活をしなければなりません。
 わたしたちの心の中に臨在し、わたしたちを導いておられる復活の「主イエスの御姿」を、「聖霊」はわたしたちの心に刻みつけて下さいます。同時に、「聖霊」はわたしたちが主イエスに従うことを喜んでくださる「父なる神の喜び」をわたしたちの心に注いで下さいます。
 このようにして、わたしたちは礼拝から、愛の実行の場へと出て行くのですが、「聖霊によって」主イエスの栄光の姿、主イエスの執り成しの祈り、主イエスの導きを「心の目」で常に見詰めて歩むのです。
 それゆえ、使徒ペトロは自分たちが復活の主イエスを自分の目で見て、無上の幸いと喜びを与えられたのと対照的に、クリスチャンが復活の主イエスの姿を自分の目では見なくても、聖霊によって同じ喜びに満たされているのに感激し、クリスチャンを励ましています。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。それはあなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペトロの手紙一1:8~9)
 このように主イエスがわたしたちの心に与えられる聖霊は、常にわたしたちを励まし、促す方です。
 聖霊は、罪に束縛されている自分の思いをわたしたちが捨て、主イエスの御心を自分の思いとすることをわたしたちが神のみ前で本気で決心させる方です。そして聖霊は、わたしたちが直ちに主イエスに従う行動を開始するように、わたしたちをプッシュする方、押し出す方です。この「聖霊の促し」に応答することがクリスチャンの生き方です。このようにわたしたちは霊と真理をもって神を礼拝するのです。



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

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