2017-12-17(Sun)

生涯の献げ物 2017年12月17日の礼拝メッセージ

生涯の献げ物
中山弘隆牧師

 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。
ルツ記1章15~19節


 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12章41~44節


(1)本当の献げ物
 福音書には、主イエスを感動させた出会いや出来事が幾つか伝えられていますが、本日の聖書の箇所もその一つです。
 「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。」(12:41)
 聖書の註解書を見ますと、これはエルサレム神殿の光景です。エルサレム神殿は、一番奥に聖所があり、その前に三つの庭がありました。聖所に近い第一の庭には男性だけが入ることができ、その外側の庭には女性だけが入ることができました。さらに、女性の庭の境はイスラエルの民と異邦人とを区別する壁で囲まれており、異邦人が入ることのできる庭は一番外側にありました。
 人々が献金する場合に賽銭箱に金を入れるのですが、賽銭箱は女性の庭の壁の周りに13個設置されており、金属製の「ラッパの形をした箱」であったといわれています。
 イエスはちょうど神殿の庭や回廊で、律法学者や祭司たちのグループと激しい論争の後、疲れて異邦人の庭に行って静かに座っておられたのでしょう。目の前にラッパの形をした賽銭箱があり、群衆はそこに金を投げ入れていました。
 その献金は神殿の費用に充てられていましたが、これは自発的な献金でしたので、人々は思い思いに献げていたのです。中には多額の献金をする人たちもいました。次のように記されています。
 「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」(12:42~43)
 ここで、イエスが、「弟子たちを呼び寄せて言われた」とありますが、これは主イエスが重大な発言をされるときの様子を表しています。例えば、十二人の弟子たちを選ばれたとき、イエスがご自分で望まれた人たちを呼び寄せられたと書いてあります。
 さらにここで「はっきり言っておく」とイエスは仰せられました。この言葉は非常に強調したイエス特有の言い方です。直訳すれば「わたしが真にあなたがたに言う」という言い方です。とにかくこれはイエスの重大な発言であることを告げています。
 このことを考慮しますと、一人のやもめの献金を見て、イエスは非常に感動され「ここに献金する者の本当の姿がある。」と仰せられたイエスの深い思いが分かります。
 先ほど申しましたように、神殿には13個のラッパの形をした金属製の賽銭箱が置かれており、そこに投げ入れられる硬貨がチャリン、チャリンと派手な音を出すので、この庭は騒がしい空間でした。しかしイエスの耳は最も微かな音に波長を合わせて共鳴したのです。
 レプトン銅貨とは当時流通していた最小の貨幣です。レプトン二枚はローマの貨幣に換算しますと1クァドランスであると説明しています。因みに、これはマルコによる福音書がローマで執筆され、ローマにいる信徒のために書かれたということを暗示しています。
 この献金がイエスの目には、「一番多くの献金」であると映りました。「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりも沢山入れた。」と仰せられたのです。その理由をイエスは次のように説明しておられます。
 「皆は有り余る中から入れたが、この人は、貧しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われました。それはどういう意味でしょうか。
 イエスが仰っている意味は、このやもめの献金は神に対する信頼と愛から出たものであるので、神様が喜んで受け入れてくださると言う意味だとわたしは思います。
 神の目には人の心の中の思いがすべて明らかです。献げ物をする場合に、人がどのような動機でするかを神様はご存知です。不本意な気持ちで仕方なくするのか。あるいは売名や自己宣伝のためにするのか。しかしそうではなく、愛する心から献げるのか。その場合、愛する心でそうせずにはおられないという内から湧き出る気持ちで献げるならば、それは本当の献げ物となるのです。
 神の前では、わたしたちの愛のいかなる献げ物も、数えるには余りにも小さ過ぎるということはありません。また神の前では、人間のいかなる生活も人と分ち合う義務から免れることもあり得ません。
 実に、愛の業によって神の国は前進しているのです。初代教会以来のキリスト教の歴史を顧みますとき、貧しさの中からいかに大きな献げ物が為されて来たかは明らかです。それは金銭だけのことではなく、信仰者たちの生涯の献げ物、職業を通して、神の栄光のために働き、思想や芸術の様々な能力、技術を神に献げることにより、キリスト教会は形成されてきたのです。

(2)愛の労苦
 それでは愛の献げ物とはどのような性質を持っているでしょうか。二つのことが挙げられるのではないかと思います。
 第一は、それは犠牲を伴うということです。本当の愛の業は、自分の持ち物を裂いて与えることですから、与えた後しばらくは苦しい状況が続くでしょう。また献げるために自らの手で働かなければなりません。そこには労働の苦労が伴います。
 パウロはテサロニケの信徒への手紙一、1章2~3節で、次のように言っています。
 「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」
 ここで、パウロはテサロニケ教会の人たちの「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」を常に思い起こし、神に感謝しています。非常に印象的なのは、パウロは「愛の業」と言う代わりに、「愛の労苦」と言い換えている点です。このようにわたしたちが人を愛し、神を愛し、教会に仕えるためには、愛の労苦が必要なのです。
 一般的に言えば、労苦を伴わない愛は存在しません。いつでも喜んで、自発的に労苦するのが愛の特質です。さらに犠牲を伴う献げ物をするには、つねに信仰の働きが必要です。なぜなら、信仰の働きによって愛の行為が可能となるからです。
 さらに神様が自分をいかなる時も守り、支え、必要な物を与えてくださるという確かな信仰が必要です。きっとこの貧しいやもめは、自分の生活費全部を献げても、この後は神様が守っていてくださると信じていたに違いありません。

(3)時を知る愛の業
 第二に、愛の献げ物は時に適っている、愛はその時を知っていると言えます。また、愛はそれを行う機会がただ一回しかないことを知って、その時期を決して逃さないと言えます。
 イエスが十字架につけられる時が近づき、ベタニアのシモンの家で、食事の席に着かれた時、一人の女性が高価なナルドの香油の入った壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけました。
 その大胆な行為に驚いた人々は、「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上で売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(マルコ14:4)といって、その女性を非難しました。
 しかし、主イエスは仰せになりました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできる限りのことをした。前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。つまり前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」マルコ(14:7~9)
 このように一つ一つの愛の業は、最も必要な時に行われています。本当の愛の業は、その時を逃しては実行できないのです。

(4)自分自身を献げる
 次にわたしたちのなす愛の業は、神が主イエスにおいて、わたしたちを愛し、わたしたちにご自身を与えてくださったことに対する感謝の応答です。
 使徒パウロはこの点について、自分の心情を言い表しています。
 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(コリント二、5:14~15)
 聖書はわたしたちにいつも主イエスの人間に対する自己譲与の福音を語ります。自己譲与とは、すべての人の罪の贖いのためにイエスが死んでくださったことが一つ、もう一つはイエスがすべての人のために復活し、信じる者の中で働いてくださることです。
 イエスが復活して下さったことによって、わたしたちはイエスに自分を献げることができるのです。この点を見逃すことはできません。それゆえ、福音が真剣に聞かれる所に、自発的な愛の業が沸き起こります。有名な英国の神学者フォーサイスは「恵みの福音」について、この点を強調しています。
 「先ず、神が罪人をいかに愛してくださったかを語れ。次に、この神の愛に対する人間の回答は信仰であることを語れ。そうすれば信仰から愛は自然と成長する。信仰が人間に愛する力を与えるのでなければ、人間は愛することは不可能である。しかし、信じるならば愛を必ず実行することができる」とフォーサイスは教えています。
 従いまして、わたしたちの生活全体は、この「恵みの福音」に対する感謝の応答としてなされるのです。先ず、主イエスがわたしたちの救いのために、ご自身を与えて下さったことに対するわたしたちの応答の第一が信仰です。次に第二の応答が、愛の実践です。さらに第三の応答が、永遠の救いに入れられると言う希望と確信です。人は忍耐を持って信仰の人生を送り、自己の死を受け入れ、死を越えて、復活させられるのです。
 実に信仰と愛と希望によって、わたしたちは主イエスと結ばれ、主イエスによって神の御前に生きるのです。しかも、信仰と愛と希望は主イエスがわたしたちに与えられる聖霊の働きなのです。
 正にイエスが神の御子として、地上の人生を歩み、十字架の死と復活により、今や主となり、神として、救い主として働いておられるのは、福音を聞いて信じる者たちが主イエスと結ばれて、主イエスに従うことによって、主イエスの義と命に生かされるためです。
 このような者たちとして、わたしたちは礼拝において、主イエスと出会い、主イエスに感謝の応答として、自分の存在と生涯全部を主イエスに献げるのです。その献身は礼拝の中でなされます。それは一週間の生活を信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐の時として送るためです。それでは主イエスはどのような方法で、そのようにして下さるのでしょうか。今やイエスは主となられましたので、神として信仰者の中に働かれるという方法です。
 今や復活の主イエスは地上で歩まれたご自分の人生を、主イエスに従う者たちの中で、ご自身が歩まれた古代の状況とは全く異なる新しい状況の中で繰り返されるからです。どうしてそれが可能かと言えば、主イエスは今や「神と」して働いておられるからです。
 それゆえ、使徒パウロは言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)



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2017-12-03(Sun)

誕生の予告 2017年12月3日の礼拝メッセージ

誕生の予告
中山弘隆牧師

 主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書7章10~14節
 

 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
ルカによる福音書1章26~38節


(1)アドベント
 教会歴に従って、本日から主のご降誕の日を迎える準備の期間、すなわちアドベントに入ります。アドベントは英語で、「到来」と言う意味です。そういう意味ではクリスマスも主の到来ですが、教会用語としてのアドベントは救い主の到来を迎える心の準備を整える期間として使用されています。
 自分の人生の中で、どうしてよいか分からない苦しみと悲しみの時期にクリスマスと迎えられた人が、まことに「主、共にいます」という「インマヌエル」の恵みを体験されました。自分の悲惨なすべての状況を祈りによって主イエスに申し上げ、助けを求める日々でありました。そのとき心に人智を超えた平安が与えられ、不安と困難をようやく乗り越えることができたのです。
 周囲の人の助けもあり、危機的な状況を通り過ぎ、今日の自分があることを感謝されました。そのような体験を通して、主イエスの救いと導きは本当に自分を包む力強い霊的現実であり、自分にとって唯一の生きる道であることを確信したと言われる方が多くおられます。
 しかし、このクリスマスの恵みが実現したのは、神の救いの長い歴史の経過の結果です。わたしたちはそのことを知る必要があります。クリスマスは一朝一夕の出来事ではありません。人類の救いに対する神の約束がどのような経過をたどって来たかについて、聖書から聞くことが必要です。
 神様は人間をご自身との交わりの中に招き入れるという永遠の目的を実現するために、人類の歴史の中で働いてこられました。この目的のため最初に選ばれた人がアブラハムです。神はアブラハムと出会い、御言葉をもって救い主の到来を約束されました。それは創世記12:1~3に記されています。
 「アブラハムは祝福の源となり、地上の氏族はアブラハムによって神の祝福を受ける。」
 この御言葉は、アブラハムが自分に現れた神を信じ、神に従う生活を続けるとき、アブラハムを通して神の祝福が諸民族に及ぶという約束でした。しかし、どれほど信仰の熱心な人であっても、自分が聞いた御言葉の深い意味を最初から十分理解することはできません。生涯を通して御言葉に寄り頼みながら真剣に生きているならば、自分を取り巻く歴史の状況が変化していく中で、徐々に神の目的が鮮明になって来るのです。
 アブラハムは信仰の生涯における一つの峠を越えたとき、神様は約束を一層鮮明にされました。それは創世記22:18に記されている神の御言葉です。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって、祝福を受ける。」このように神様の祝福の本当の担い手は、アブラハム自身ではなく、彼からでる一人の子孫であることが明らかになりました。
 旧約聖書学者たちの見解によれは、アブラハムに神の約束が与えられた年代は西暦前1600年頃です。イスラエル民族はヤコブの時代にエジプトに移住し、エジプトで貧民階級の苦しみを体験し、西暦前1300年頃に、モーセの指導の下で、エジプトから脱出し、シナイ半島で神の律法を授与されました。シナイ半島の放浪の期間は苦難の連続でしたが、イスラエルの民は律法に従った生活をすることによって、荒れ野の生活に耐えることができたのです。
 その後、西暦前1250年頃にパレスチナに侵入し、そこに定着し、カリスマ的な指導者が近隣諸国の攻撃からイスラエル社会を守りました。例えば、ギデオンまたサムソンなどです。その後、時代の必要性に迫られてイスラエル社会も他の民族と同様に王を擁立し、ソウルが預言者サムエルによって、油を注がれ、最初の王朝を設立しましたが、ソウルは隣接する国との戦いで戦死し、ダビデがイスラエル民族の王となり、ダビデ王朝が建設されたのです。この時代が西暦前1030年~936年頃です。神様がアブラハムに約束されたパレスチナの地方がダビデ王国の領土となりました。ダビデの後継者ソロモン王のときその国家は繁栄の頂点でした。
 しかし、西暦前936年頃にはダビデ王朝はソロモン王の死後、二つに分裂し、北イスラエル王国とユダ王国になりました。この時代に預言者エリヤが活躍し、さらに預言者アモス、ホセアが活躍しました。
 その後、西暦721年頃に北イスラエル国はアッシリア帝国に滅ぼされました。また、ユダ王国はアッシリアの攻撃に晒されその属国としてかろうじて存続しました。この時代に預言者イザヤ、ミカ、エレミヤが活躍しました。その後、西暦586年にユダ王国がバビロニヤ帝国によって滅び、ユダ王国の有力者は首都バビロンに捕囚の身となり、それ以後ユダヤ民族は国家を持つことが不可能となりました。
 その後、世界の覇権を掌握したのがペルシャ帝国です。ペルシャ帝国は、寛容政策を取り、捕囚のユダヤ人をエルサレムに帰還させたのが西暦538年です。この時代に活躍した預言者は第二イザヤと呼ばれる無名の預言者と、エゼキエルです。また、帰還したユダヤ人に対して、神殿再建を励ました預言者たちもいます。ハガイ、ゼカリヤなどです。そして、イスラエル社会における最後の預言者となったのが、マラキです。彼は西暦前450年ごろに活躍しました。
 マラキ以後はイスラエルに預言者は出現しませんでした。但し、新約聖書の時代に主イエスに洗礼を授け、主イエスが救い主であると直接証言した洗礼者ヨハネは特別であり、新約聖書によれば彼が旧約聖書の最後の預言者です。
 このようにアブラハムに与えられた神の約束は、約束の内容が次第に明確になり、最後に実現するには実に約1600年に及ぶ歴史の展開が必要でありました。神はイスラエルの歴史と人類の歴史を支配し、導き、神の意志に反するときには裁きを実行し、悪い社会と悪い行いを取り払い、同時に人類が新しい歩みを開始するための救済を与え、歴史を前進させて来られたのです。その間に世界の覇権は、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、そしてローマ帝国に移りました。

(2)時が満ちる
 実に神の御言葉は人類の歴史を貫いて、目的実現に向かって展開して行きます。この性格をもっているのが神の「御言葉」です。それゆえ、御言葉の実現には歴史の中で「時が満ちる」ことが必要です。ガラテヤの信徒への手紙4章4節で、パウロは次のように言っています。
 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」
 ここで、パウロは「時」が満ちたと、言っているのは、アブラハムの時代から約1600年を経過した時です。
 このことを考えますと、わたしたちは神の御言葉を聞いて、クリスチャンとして何年かの人生を送る訳ですが、決して自分一個の人生だけで終わるのではありません。そうではなく、時代を貫いて前進して行く神の民の歴史に参加するのです。この意味は非常に大きいです。

(3)恵まれた人
 今や救いの歴史の「時」が満ちて、神の約束が実現するために、処女マリアのところに天使が現れ、神の御子の受胎を知らせました。
 「ダビデ家のヨセフという人のいいなづけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来ていった。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』(ルカ福音書1:27~28)
 ここで、聖書は天使ガブリエルが神からマリアのもとに遣わされた、と言っています。ガブリエルは旧約聖書では、神の面前で仕えている天使と考えられていました。
 ガブリエルがマリアに現れ、神の御言葉を語りましたのは、目に見えない神の言葉と行為をビジョンによって鮮明にするためでした。それは神様が生ける人格として、マリアに出会い、直接御言葉を語っておられる霊的現実を見える形で示しています。
 旧約聖書の中では、天使がしばしば神様と区別しがたい形で、神の言葉を告げています。天使はマリアに恵まれた人として挨拶しました。この挨拶に戸惑うマリアに、一層詳しいメッセージが語られました。
 「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みを頂いた。あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:30~33)
 これは神様がマリアを選ばれて、マリアからイスラエルと全人類の救い主である王が生まれるという知らせです。救い主は神の国の王となられ、その支配は永遠に続く、と告げられました。
 従いまして、これはマリアから偉大な一人の王が生まれるという人間世界の事柄ではありません。そうではなく、神の国の支配者として永遠に王であり続ける方の誕生なのです。マリアから生まれられる方は、人であり、同時に神なのです。その方を預言者たちは終わりの時に神のもとから到来する「メシア」として語っていました。
 このように預言者イザヤは、アブラハム以来、イスラエルに約束されていた救い主の到来を預言しましたが、その内容はダビデ王の後継者では決してありません。あるいはダビデの王国を理想化したような国の到来を預言したのでもありません。そうではなく、神様が世界の万民を直接支配される神の国の王なのです。
 実にそれは神われらと共にいます「インマヌエルなる方」(イザヤ7:14)です。人であり、同時に神である方です。
 マリアは、この神のご計画があまりにも尊く、神の恵みがあまりにも広大であることを知って、恐れました。また、神の恵みを受け、神のご計画に参加するには、自分があまりにも貧しく、弱い人間であることを知って、恐れたのです。
 そして本来、人間にはそのようなことが起こりえない、不可能であると思ったのです。そのような神の恵みは、自分には信じられない、と考えたのです。マリアはこれまで、神を信じ神に従うことを一番大切にして、信仰深い敬虔な人生を歩んできました。しかし、神の御子の受胎だけは、信じることが不可能でした。
 従って、マリアは天使ガブリエルに言いました。
 「どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)
 恐れ、疑うマリアに対して、天使は答えました。
 「聖霊はあなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(ルカ1:35~37)
 ここでは、神ご自身が天使を通してマリアに語られたのです。「神にはできないことは何一つない。」「人間にはできないが神にはできる。」「神は自ら意図されることを、実現することができる。」
 このように、神ご自身がマリアに語られましたので、マリアは御言葉を信じることができました。そして、その信仰を言い表しました。
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)
 自分は何をなすべきかが分からないままで、自分の困惑を静め、躊躇することを止め、不信仰を御言葉によって乗り越え、「神の御言葉は必ず実現する」ことをマリアは信じました。そして、自分のすべてを神に献げたのです。
 まことに、神の御子がマリアから誕生されるという人智を超えた驚くべき恵みは、マリアの信仰的応答により実現したのです。

(4)恵みの内容
 マリアに与えられた神の恵みの実情は、神の御子イエスの十字架の死を目撃する事でした。これほど悲しい辛いことはありません。マリアの胸は悲しみに刺し貫かれました。しかし、十字架こそ人類の罪を贖う犠牲の死であり、その死を全うされたイエスを父なる神は復活させられました。
 正に復活の光がマリアの心を照らしたとき、御子イエスは「インマヌエル」であることが分かり、マリアに限りない喜びが与えられました。この喜びこそ、地上に生を受けるすべての人に与えられるのです。



2017-01-17(Tue)

お知らせ

次週(1月22日)は講壇交換のため、
更新をお休みいたします。

1月29日分より更新しますので
よろしくお願いいたします。



2016-12-19(Mon)

2016年クリスマスのご案内

クリスマスは教会へ
snow.jpg 

クリスマスはイエス・キリストの

ご降誕をお祝いする日です。

礼拝では聖書の言葉をやさしく説き

祝会ではあたたかい食事や美しいコーラス

楽しいプレゼント交換などを行います。

またイヴ礼拝ではキャンドルの灯る聖夜に

讃美歌を声高らかに歌いましょう。

 
メリークリスマスろうそく 


★2016年12月24日(土) 

クリスマスイヴ礼拝:午後6:30~ 

★2016年12月25日(日)
特別礼拝・祝会:午前10:30~



教会においでよ

 
2016-07-10(Sun)

次週掲載お休みのお知らせ

次週(7月17日)は
都合により掲載をお休みいたします。

7月24日の分から掲載する予定ですので
ご了承ください。



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

最寄り駅
東武東上線 鶴瀬駅 西口
東武東上線 ふじみ野駅 西口
よりタクシーで10分
※駐車場完備

三芳教会へのバス利用方法

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三芳教会の地図です
定例集会案内
●主日礼拝
  毎日曜日 10:30~12:00
●教会学校
  毎日曜日 9:15~9:40
●朝の祈祷会
  毎日曜日 9:45~10:10
●キリスト教入門講座
  毎日曜日 9:45~10:10
●マルタマリア会(婦人会)
  毎木曜日 10:30~
●マルタマリア会例会(婦人会)
  毎月第2主日礼拝後

毎木曜日の祈祷会は、2011年5月より、毎日曜日の朝の祈祷会に変更となりました。
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●年間行事予定

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 (2011年1月23日)


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