2017-11-19(Sun)

目標に向かって 2017年11月19日の礼拝メッセージ

目標に向かって
中山弘隆牧師

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
エゼキエル書36章25~27節


 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。
フィリピの信徒への手紙3章12~16節


(1)信仰生活の目標  
 本日はわたしたちの信仰の人生が何に向かって歩んでいるのか、その目標について考えてみたいと思います。
 パウロは自分の生涯の目的はキリストを知ることであり、これ以外には何もないと言っています。
 「そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることの余りの素晴らしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてのものを失いましたが、それらを塵芥と見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(3:8~9)
 キリストの使徒として立てられたパウロは、それ以前には、熱心なユダヤ教の若い律法学者として、キリスト教を撲滅する運動の先頭に立っていました。ところが、パウロの確信が粉砕される時が到来しました。彼はキリストを信ぜず、キリストに猛反対をしていた最中に、キリストはパウロに出会われたのです。人知を超えた神の愛と憐みにより、キリストはパウロを赦し、彼と出会われました。
 因みに、使徒たちは皆、復活の主イエスを見た者たちです。初代教会の公式の見解によりますと、使徒とは皆復活の証人たちです。コリントの信徒への手紙一、15章に記されています。
 「ケファ(ペトロ)に現れ、その後12人に現れたことです。次いで、500人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうち何人かはすでに眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブ(キリストの弟)に現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」とパウロは証言しています(コリント一、15:5~8)。
 尚、使徒たちはどのようにして復活のキリストを見たのでしょうか。肉眼で見たのでしょうか。そうではなく、復活のキリストは使徒たちと出会われたとき、聖霊を授与されたので、使徒たちは聖霊を通してキリストを見たのです。心の目をもって見たのです。
この点についても、パウロは証言しています。
 「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。」(コリント二、4:6)
 この証言は、父なる神、あるいは復活の主キリストご自身が、使徒たちに聖霊を与え、聖霊によって彼らの心を照らされたことが分かります。このようにして、復活の主イエス・キリストは神の栄光と力をもってパウロに呼びかけ、ご自身を示されました。
 今やイエス・キリストの神としての働きとその霊的現実に接して、神に対するこれまでの彼の信仰、救いついての彼の理解、そして信仰者としての彼の敬虔さが根本的に変わりました。それまで、彼は神が人間になることは絶対にないと、旧約聖書とユダヤ教の信仰によって確信していました。その確信に基づいて、パウロはイエスが人間の分際でありながら、罪人に対して自分で罪の赦しを宣言したことは、イエスが自分を神と等しい者であると主張したことになり、神を冒涜する最大の罪を犯したと判断しました。
 しかしイエス・キリストの弟子たちの代表者とも言えるペトロは、神の国を宣教されるイエスに従っている中で、ある時期にイエスに対する信仰を言い表しました。
 イエスが弟子たちに「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(マタイ16:15)と問われたとき、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」(マタイ16:16)と答えたので、イエスは仰せになりました。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:17)
 従って、「イエスが神の御子である」と言う信仰告白が、キリスト教の最初の告白であると、言われています。それにしても、この告白がキリスト教の告白として明確になったのは、神の御子イエスが十字架の死から復活して、ご自身を現わされたからです。その復活のイエスに対する信仰告白が、「主イエス・キリスト」です。それ以来、弟子たちは復活の主イエスから主イエスの救いを宣言する福音を語るように命じられたのです。
 この時期に、主イエス・キリストの救いを宣べ伝えるキリスト教にパウロは猛烈に反対しました。しかし、全く予想していなかったとき、彼は復活のキリストに出会い、自分が迫害していたキリストが神であることが分かりました。同時に自分が最大の罪人であることが分かりました。そのような自分にキリストが現れて下さったことは人智を超えた神の憐れみ、神の無限に深い愛によることを知ったのです。その出来事をパウロは神の救いの啓示と呼んでいます。
 「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。(中略)--しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、云々。」(ガラテヤ1:12~16)とその経緯を証しています。
 パウロはこのとき旧約聖書の信仰は、主イエスを通して初めて完全な信仰となったこと。神が与えられた律法に従う生活は、主イエス・キリストによって初めて成就したことが分かったのです。
 神はご自身を人間に啓示するために、神である御子において人間イエスとなって下さる必要があったこと。人間を罪から救うために、すべての人間の罪を御子イエスが担い、御子イエスの死において神は人間の罪を贖って下さる必要があったことを知りました。
 正にこれは人間に対する神の自己譲与であることを知りました。実に神は御子を与えるほどにわたしたち人間を愛してくださいました。ヨハネによる福音書も証言しています。
 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16~17)
 それゆえ、神の人間に対する愛とは、実に神の独り子であるイエスを与えられたことです。御子イエスの十字架の死による人類の罪の贖いとイエスの復活により、神は罪人である人間を赦し、ご自身との人格的な交わりに入れて下さったことです。ここに人間の救いがあります。同時に、パウロは旧約聖書の長い歴史の中でイスラエル民族に与えられて来た救いの約束が、すべて主イエス・キリストによって成就したことを知ったのです。

(2)キリストの復活の命
 次に、わたしたちがキリストを信じるようになったと言うことは、これまでの生き方から、根本的に新しい生き方へ移行したことです。
 新しい人間とは生まれながらの古い人間と異なり、存在の基盤を自分の中にではなく、キリストの中に与えられている者です。言い換えれば、キリストがわたしたちの中に神としての力をもって働き、わたしたちを導いておられるのです。
 人はクリスチャンになる以前は、多分すべての行動の目的と動機は金儲けや有名になることであったでしょう。但し、クリスチャンになっても、出世し、富を得、有名になることがあるかもしれません。しかし、それらの価値は「神に従う」と言う無限の価値と比べれば、色褪せたものとなります。
 パウロは人生の最大の目的を次のように表明しています。
 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10~11)

 従って、パウロの目的はただ一つであり、キリストを知ること、そしてキリストの復活の命に生かされることです。
 それではキリストの復活の命に生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストに従い、キリストの生き方に倣うことです。それはユダヤ教が教えている旧約聖書の律法ではなく、主イエスが正しく解釈された旧約聖書の律法を実行することです。
 従いまして、福音書に記録されている主イエスの教えは、わたしたちが実行すべき高い理想を語っているのではありません。そうではなく、それらを完全に実行された主イエスの姿がそこに映し出されているのです。
 イエスはそれらを実行されたことにより、真の人間となられた真の神であることをわたしたちに啓示しておられるのです。主イエスの教えには、ご自身が達成されたという事実に基づいて、わたしたちを低い思いと行為から引き揚げ、神の求められる思いと行為を実行させる神の力、イエスの復活の命が秘められているのです。
 この点を悟れば、主イエスの教えはわたしたちを突き放す冷淡な教えではなく、真に親密な関わりを持っている慕わしい教えとなります。なぜなら、主イエスの教えと命令には、主イエスがご自身をわたしたちに与え、わたしたちが主イエスに従い、命令を実行するようにしてくださる神の力とイエスの命が秘められているからです。
 実際に主イエスがわたしたちの中に臨在し、働き、わたしたちを担い、ご自身の歩みをわたしたちの歩みと結び付けられるので、わたしたちは主に従い、主の命令を実行することがでます。そして主の中に、わたしたちの救いがあることを体験します。要するに、主イエスはわたしたちの弱さを担い、わたしたちの中にご自身の生命を働かせ、主の命令を実行するようにしてくださるのです。

(3)この一事を求め続ける
 それゆえ、パウロは自分の生き方を次のように言っています。
 「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(3:13~14)。
 ここでパウロは自分がキリストに捕らえられていると言っています。正にこれが、キリストを求め続ける彼の確かな根拠です。キリストを追い求める歩みの中で、どのような困難や誘惑に出会っても、キリストが自分を捕らえておられるので、最早迷い出てキリストから離れて行くことはないと言う確信です。この確信により、彼は自分がこれまで達成したことは皆忘れ、神が定められたゴールに向かって一目散に歩み続けるのだと言っています。
 英国の有名な神学者でありましたフォーサイスは、主イエスのこの働きを、「わたしたちの魂の中におけるキリスト」と呼びました。キリストはわたしたちに対して、人格的な関わりを保っておられる。彼はわたしたちの状況、必要、愛、恥、罪の中で、わたしたちの救い主である。」と説明しています。
 キリストは常に罪の赦しを以て、わたしたちと出会い、ご自身を示し、ご自身との人格的な交わりを与えられる方、そういう意味で絶対的にわたしたちを受け入れられる、最も親密な方なのです。
 その基盤に立脚し、一方で、わたしたちが自分の罪を知り、自分の悪い思いと行動に気づくとき、キリストの命と自由が与えられている者として、その都度それらを捨て去ることを決断し実行するのです。他方で、わたしたちはキリストの思いと命令を聞くとき、自分には到底実行する力がないと思っても、それを実行し始めるならば不思議にも実行できるのです。もちろん完全にできるのではありませんが、実行でます。これは何と幸いなことでしょうか。すべてはキリストの働きによるのです。
 フォーサイスはキリストが「有りのままのわたしたち」と完全に「連帯化」してくださることを洞察しています。わたしたちが正しい良いことを行い、愛と献身の働きによって神に従っているときだけでなく、罪と困窮と恥の中にあるときも、すべての状況の中で、キリストはわたしたちと連帯しておられると言うのです。
 その連帯によって、キリストはご自身の愛と命と自由をわたしたちの中に働かせられるので、わたしたちは自分の壁を打ち破り、兄弟たち、隣人たちと、互いに愛し合うのです。このように主に従い、主を知るという目的は、わたしたちの全生涯を貫いています。



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2017-11-12(Sun)

聖霊の実を結ぶ 2017年11月12日の礼拝メッセージ

聖霊の実を結ぶ
中山弘隆牧師

 そして今、わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり/あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。彼らは草の生い茂る中に芽生え/水のほとりの柳のように育つ。ある者は「わたしは主のもの」と言い/ある者はヤコブの名を名乗り/またある者は手に「主のもの」と記し/「イスラエル」をその名とする。
イザヤ書44章1~5節


 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
ガラテヤの信徒への手紙5章13~26節


(1)福音の自由
 本日の聖書の箇所でありますガラテヤの信徒への手紙5章13節には、次のように記されています。
 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召されたのです。ただ、この自由を肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
 この聖句は非常に短い言葉ですが、福音主義的な信仰生活のすべてを言い表しています。勿論この自由とは人が自分の欲するままに何をしてもよいという自由ではありません。人が神の御心に従って善い行いをするために、その障害となっている罪の束縛から解放されて、自ら進んで善い行いをすることができるという自由です。
 ここで、信仰者に与えられている自由とは、二つの面があります。一つは「肉に罪を犯す機会を与えないようにする」自由です。肉とはもちろん、肉体ではなく、「生まれながらの人間」を意味しています。人は皆、生まれながらの人間として生きるならば、必然的に自分の力に寄り頼み、自分を誇るのです。その結果、様々な悪い欲望に捕らえられ、神から創造された人間の本性に反する悪を行なうようになります。そういう生き方は死に至る道です。従って、既に与えられている自由を使って、死に至る生き方を捨て去ることによって、正しく生きる自由です。
 もう一つは、それこそ積極的な意味での自由で、愛によって互いに仕え合う自由です。これは人が神のみ前に生きる生き方です。この生き方をする人は主イエスの中に創造された「霊的人間」です。
 宗教改革者マルティン・ルターは「キリスト者は君主であり、同時に隣人に仕える僕である。」と非常に印象深い自由の説明をしています。ここで君主とは、主イエス・キリストの救いと支配の中で、神のみ前に生きるために必要な自由が与えられている人です。実質的にその自由を使って「隣人に仕える」愛の業をする人です。
 ところで、この霊的人間に与えられた自由は主イエス・キリストの十字架の死による「罪の束縛からの解放」による自由と、同時に主イエスの復活によって創造された自由です。それゆえ主イエスを信じる者に与られる自由です。

(2)新しい人間とその主体
 従いまして、この自由は神様が主イエスによる救いを通して与えて下さった自由なので、それは今や神様が自分をどのような新しい人間とされたかを知ることと結びついています。それでは自分に関して何を知るのでしょうか。それは主イエスがわたしたちの罪のために、神の審判に服し、わたしたちのために死んでくださったことは、わたしたちが「主イエスの中」では、既に死んでいると言う霊的現実を知ることです。同時に、主イエスが復活されたことは、「主イエスの中」に、神のみ前に生きる新しい自分が既に与えられているという霊的現実を知ることです。
 しかし、この霊的現実は人間の知恵によって知ることは不可能です。ただ主イエスを信じることによってだけ可能なのです。わたしたちはそのことを福音の御言葉によって知ったので、神に受け入れられ、御前に生きるために、「主イエスを信じた」のです。
 それゆえわたしたちが主イエスにおいて、新しい人間とされたと言うことは、神が御子イエスにおいて、人類の罪を最終的に裁き、裁きの行為を通して、神が決断し、宣言された「神の義と真理」の力によるものであり、最も確かな、最も信頼すべき霊的事実なのです。従って、人智を超えたこの事実を神は福音の言葉を通して、啓示されました。この神の裁き、決断、宣言を人は信じ、受け入れ、それに服従するとき、今や新しい霊的人間として、真の主体性を持つ者として、神のみ前に生きるのです。
 それでは新しい、真の主体性を以て、言い換えれば理解と意志と自己の責任を自覚して行動する人は、自分自身についてどのような判断をするのでしょうか。生まれながらの自分は自分に寄り頼み、自己を誇る高慢な罪人であることに気づくのです。様々な悪い思いと悪い行動をしている罪人であることを自覚するのです。
 なぜなら、神から与えられた本当の自由により、自己を超えて自分を客観的に判断できる「視点」が与えられているからです。常に赦しも以て出会って下さる主イエスを仰げば、自分の隠れた暗い面が顕になるからです。それゆえ、自分の内には何の良いものもないことが分かるのです。これが霊的人間の「自己理解」です。
 他方、「それにも拘らず」、主イエスは常に赦しを通して、わたしたちと出会って下さいます。御言葉を通して御心を示し、主に従い、御心を実行するように命じられます。この主の愛と恵みの中で、わたしたちは感謝し、自発的に主の命令を実行するのです。勿論、わたしたちの愛の業、良き行いはごく僅かで、不十分です。それでも確かに実行できます。
 それは既に与えられている自由を用いることによって実行できるのです。そのように神が主イエスにおいて与えて下さった自由の使用方法が分かります。これが「自己理解」です。
 この体験を通して、主はわたしたちの不十分な愛の業を喜んでくださることを知り、わたしたちは喜びと平安に満たされます。讃美歌17番3節は神を賛美しています。
 「心を尽くし、主に仕えよう。取るに足らぬ 私の愛の業も、身も心も 主は受け入れ、よろこぶ。」と歌っています。
 このように、現実のクリスチャンの姿をトータルな面で自覚すれば、罪人であるにもかかわらず、神は常に先行する赦しを以て、クリスチャンと出会い、クリスチャンを神ご自身との交わりに入れて下さる有難さが身に染みて分かります。それは神の赦しが「絶対的な赦し」であるゆえに、「常に」赦しを以て出会って下さるのです。
 そのような絶対的赦しは、一回限りの主イエスの十字架の死と、復活により、神の義が先ず主イエスの中で、それゆえ「すべての人の存在」の中を貫徹したので、そのことをひたすら信じる者を神は「義とされた」からです。聖書は言っています。
 主イエスが「わたしたちの義となり、贖いとなり、命」となってくださったからです(コリント一、1:30、ヨハネ14:6)。
 次に、それでは霊的人間として、クリスチャンの「主体性の特質」は何でしょうか。それは自分に寄り頼まず、自分を誇らないこと。すべてのことにおいて、神に寄り頼み、神に求め、神に従い、神の命令を喜んで、自ら進んで実行すること。神に栄光を帰し、わたしの思いではなく、神のみ心が実現されることを自分の一番の願いとし、そのように祈ることです。
 この霊的な人の主体性の特徴は神の御子イエスの性質を映し出しているのです。そのような主体が与えられているのです。
 
(3)霊と肉との戦い
 それではクリスチャンとして今日のわたしたちの状況を使徒パウロはどのように説明しているでしょうか。
 「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分がしたいと思うことができないのです。」(ガラテヤ5:17)
 ここで、パウロは霊肉の対立がわたしたちの存在の内部で起こっていると指摘しています。肉とは生まれながらの人間であり、罪に支配されている「肉的人間」です。それに対して、霊とは自分の存在の中心を主イエスの中に移された「霊的人間」、自分の存在の中心に主イエスが臨在しておられる「霊的人間」のことです。復活の主の支配と導きの中にある人間です。それゆえ復活の主イエスが導いておられる人です。また、「心の中に聖霊」が働いている人です。
 ここで、聖霊の働きは、復活の主イエスの思いと命令をわたしたちの主体に理解させ、主イエスの命令を自ら進んで実行しようと決断し、思い切って実行するように「促す」のです。従って、聖霊による理解と促し受けて、主イエスに従っているわたしたちの主体は、聖霊に導かれている主体とも言えます。
 このように「霊的人間」としてのクリスチャンは、生まれながらの人間として生きるか、それとも主イエスに従うか、言い換えれば、聖霊の促しにより、古い自分の思いと生き方を捨て、主イエスに従うかどうかの二者択一を「常に」迫られます。そこに心の葛藤があります。
 それにしても、わたしたちは主によって自由が与えられていますので、主に従う生き方を自ら決断し、喜んで主に従うのです。同時に、主の思いに反する古い自分の生き方を主体的に自ら捨て去るのです。こうしてクリスチャンは日々新しく生きるのです。
 
(4)霊の働きの実
 次に、聖書は霊的人間が自らの主体性をもってこの世の誘惑に打ち勝ち、捨て去るべき、罪の働きを列挙しています。
 「肉の働きは明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、妬み、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」(5:19~21)
 霊的な人はここに例として挙げられているような肉の働きを自分の中に見つけて、主体的に捨て去ることによって日々生きるのです。
 他方、聖書は神の国で永遠に存続する霊の実を列挙しています。
 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(5:22~23)
 ここで注目すべき点は、このような霊の働きによる実は、喜びと平和です。なぜなら神は霊の働きの実を、喜ばれるのです。現実的にわたしたちが結ぶ霊の実は、極めて不完全ですが、神が不完全な愛の実行を受け入れ、喜んで下さることが、わたしたちにとって絶対的な喜びと平和となるのです。
 実に、このような人生を歩む人は、その行為、その思い、その性質によって、主イエスの性質を映し出す者として、神の国において、永遠に生きるのです。
 パウロはテサロニケの信徒への手紙一4:16~19で勧めています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことでも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。」
 「霊の火」とは「聖霊の促し」のことです。聖霊はクリスチャンの心に働き、神の御心を知らせ、御心を実行しなさいと促します。それゆえ、クリスチャンは「主体的に」神の御心を実行します。
 讃美歌(21)の484番の作詞者は、アメリカのアンナ・ウォーナーです。彼女は青年時代に打ち続く困難の中で、自分を強く生かす神の愛を体験して作った歌です。
1. 主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも おそれはあらじ。
(繰り返し)
わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。
2. わが罪のため 栄えを捨てて、天よりくだり 十字架につけり。
3. みくにの門を 開きてわれを 招きたまえり 勇みて昇らん。 
4. わが君イエスよ、われをきよめて、良き働きをなさしめたまえ。
 大塚野百合先生の解説によれば、1876年に、熊本バンドの宣教師たちが、熊本城外の花岡山で福音宣教を誓約した時、皆声高らかにこの讃美歌を歌いました。それ以来この讃美歌は歌われて来ました。



2017-11-05(Sun)

永遠の御国 2017年11月5日聖徒の日礼拝メッセージ

永遠の御国
中山弘隆牧師

 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み/主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
イザヤ書35章8~10節


 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
エフェソの信徒への手紙1章3~14節


(1)天上の聖徒と共に
 本日は永眠者を記念する「聖徒の日」ですので、日本基督教団に属する諸教会は、既に天に召された方々を覚えて礼拝を守っています。
 聖徒とは、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の贖いと主イエス・キリストの恵みの支配の中に入れられ、神の民とされている人たちです。言い換えれば、主イエスによる救いの過程に入れられている人たちのことです。それゆえ聖徒たちは二つに分類されます。
 一つは既に地上の生涯を終え、神に受け入れられ、神のみ許に憩い、神の御手に隠されている人たちです。一つは地上で生活しているわたしたち信仰者です。それにしても、天上にいる聖徒たちと地上で生活している聖徒たちは、救いの完成する天国が最終的な居場所として定められています。この最終的な場所は聖徒たちの本国と呼ばれています。使徒パウロは次のように言っています。
 「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピの信徒への手紙3章20節)。
 それゆえ、天国を本国として与えられている聖徒たちの繋がりを覚え、共に神を賛美することが聖徒の日礼拝の意義です。
 ところで、わたしたちの人生には多くの出会いとまた離別があります。その別れの時にも、主イエスを通して、互いにつながっていることを確認し、主の守りを祈りながら別れます。讃美歌465番一節はこのことを歌っています。
 「神共にいまして 行く道を守り、日毎の糧をもて 常に支えたまえ。また会う日まで、また会う日まで、神の恵み たえせず共にあれ。」
 このようにわたしたち人間の人生は有限です。いつかは地上を去らなければなりません。しかし、地上を去った人たちは、わたしたちと一緒に過ごした日々の思い出とともに、その人自身の存在の意味が、今では地上で過ごした時よりも一層尊いもの、感謝すべきものと感じられ、その存在がわたしたちの慰めと励ましになっています。
 それは天に召された方々の存在の中に主イエスが働き、その方の人生の歩みを一歩一歩と導きかれたゆえに、わたしたちにとってその方の善意と愛の尊さが今になって身に染みて分かるからだと思います。
    
(2)人生の究極目的
 これらのことを考えますと、わたしたちにとって、自分たちの本国は天国であることを十分に理解し、それを喜び、そこに至る人生を一層熱心に歩むことが、人生最大の目標となります。本日の聖書の箇所、エフェソの信徒への手紙1章は、次のように語っています。
 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソ1:4~5)
 実に真理であり、義であり、愛であり、命である全知全能の神が世界と人間を創造されるに際して、永遠の目的を設定されました。今やその目的を実現するために、神は救いの業を前進させておられます。しかもこの広大で遠大な計画とその業が「主イエス・キリストを通して」実現されつつあります。
 それは何か。実に神の御子イエス・キリストによって、全人類が一人の例外もなく、御子イエスに似る者となり、永遠の御国で神の御前で共に生きることです。
 そのため神は永遠の目的を御子イエスによって、御子イエスの中で、実現されるのです。しかもこれらすべては神の「自由なる」決断と実行によるのであり、神はそのことを「喜ばれる」のです。このことを思いますと、人間が地上で生きるのも、救いが完成し、最終決定として永遠の御国に入れられるのも、すべて神の愛と恵みによるのです。わたしたち人間の側の功績は全くありません。自分を誇る理由は何もありません。ただ神に栄光を帰して、神を賛美するのみです。
 神は父・子・聖霊の愛と平和と一致の交わりの中で存在する唯一の神です。すなわち三位一体の神です。その神が世界を創造し、人類を創造されました。しかし人間は高慢と貪力により、神に反抗する罪を犯したため、神から離れ、悲惨な状態に陥ってしまいましたので、神は御子イエスによって人類の罪を贖い、すべての者が神のみ前に生きるようにして下さいました。その根拠は神の御子イエスであります。
 実に御子イエス・キリストは、世界と人類が創造される以前に、「父なる神から生まれられた唯一の人間」です。「神であり同時に人間である」方です。それゆえ御子イエスが、世界と人類の創造者であり、救い主なのです。聖書はこのように言っています。
 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロサイ1:15~16)
 このように天地創造の前に、父なる神から生まれられた人間イエスが、神の許から地上に遣わされました。そこで、最初から「神・人」である「御子イエス」が、「人間としての体と心」を備えるために、「マリア」から誕生されたのです。聖書はこのことを「御子の受肉」と言っています。
 従って、実に御子イエスが父なる神を人間に示し、人間が神の御心を実行して、神のみ前に生きるようにして下さったのです。それは御子イエスが父の御心に従って、地上の人生を歩み、言葉と行動を通して、父なる神を現わされたからです。さらに父から御子イエスに与えられた最大の使命である人類の罪の贖いを、十字架の死によって果たされたからです。
 御子イエスがすべての人とご自身を結び合わせ、すべての人の罪を担い、すべての人に代わって、神の裁きに服されました。その従順によって、人類の罪が贖われたのです。その贖いによって、すべての人は、神のみ前に、罪のない者、神が受け入れてくださった者、神が喜ばれる者となりました。つまり、新しい人間となりました。
 さらに、この霊的な事実を神は御子イエスを死人の中から復活させ、父の主権を御子に与え、御子を神の国の支配者とされたことによって、明らかにされたのです。
 それゆえこの「新しい人間」は御子イエスの中で創造され、イエスの中に保存され、イエスの中に隠されています。しかし、人は誰でも御子イエスを信じるとき、神の中に隠され、保存されている新しい人間として地上で既に生きるのです。このことを聖書は言っています。
 「今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、疵のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」(コロサイ1:22)
 そういう意味で、神はすべての人間を御子イエス・キリストの中に存在する者として選ばれました。それゆえ、エフェソ1章4節で、「キリストにおいてお選びになりました」と言っているのは、正に全人類がキリストの中に存在する者として、神が新しく創造し、救われたという意味です。また、この救いに関してエフェソ1章10節で次のように言っているからです。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。」(エフェソ1:10)
 ここで、「あらゆるもの」とは全人類です。一人の例外もなく、すべての人間が救われるという意味です。キリストを頭として、中心にしてすべての者が結びつき、そこに大いなる調和が実現します。無数の人間の個性の違いという多様性の中で、一人一人がそれぞれの仕方で、御子イエス・キリストの性質を映し出しますので、そこに豊かな調和が出現するのです。最早そこでは人種の違い、また諸国家の対立と抗争はありません。全人類は主イエスの支配の許に入れられ、神の一つの国、一つの民、一つの新しい人間となるのです。
 
(3)復活の希望
 次に、そのような救いの完成は、御子イエスの再臨の時に、すべての人間が復活することによって実現します。それは最も確かな事実です。なぜならば、今わたしたちは生ける復活の御子イエスと日々対面しているからです。復活の御子イエスは御言葉を通して、そして聖霊を通して、ご自身を示されるからです。従って、復活の希望は単なるわたしたちの願望ではなく、神の最も確かな約束に基づいています。
 それでは、復活はどのように実現するのでしょうか。これは正に神の全能の業であり、人間の想像を越えた神秘です。従って使徒たちや初代のクリスチャンは自分たちの考えを次のように伝えています。
 「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から下って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、先ず復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(テサロニケ一、4:16~17)
 わたしたちが復活するとき、霊的な身体が与えられます。決して魂だけの復活ではありません。それは霊的な身体を伴う復活です。御子イエスは復活して今や霊的な身体を持っておられますので、わたしたちも御子イエスのような霊的身体が与えられるのです。このことにより、わたしたちは新しい神の国で、永遠に生きるのです。
 さらに、神はこのとき人類を取り巻く世界と宇宙を、新しい世界へと変貌させられます。神が創造された世界は、主イエスの再臨の日に、新しい霊的な世界に変貌します。聖書はこのことも、「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(ローマ8:21)と言っています。

(4)復活の主イエス・キリストを見る
 最後に、主イエス・キリストの再臨がいつ起こるかと言う点につきましては、父なる神が決定されるのです。その時に、主イエス・キリストつまり御子イエスが再臨され、すべての人間が復活し、霊的身体が与えられ、世界が変貌し、新しく造られた者たちが神の栄光の光を反映させるとき、わたしたちは主イエスを自分の目で見ることができるのです。わたしたちが一番慕っている主イエスを目の当たりに見ることができるのです。これが最大の幸いです。さらにわたしたちはすでに天に召された人たちと再会します。その人たちは既に、主イエスの性質を映し出した新しい人として再会します。その姿はわたしたちが地上で知っていた時よりも優れた人柄です。しかしまた自分たちも同じ姿になっています。このようになり、再会を感謝し、喜び合い、共に神の栄光を賛美するのです。
 「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ1:14)
 讃美歌579番1節、4節は次のように賛美しています。
 「主を仰ぎ見れば 古きわれは、現世と共に 速く去りゆき、
 われならぬわれの あらわれきて、 見ずや天地ぞ あらたまれる。
  ----つゆほど功の あらぬ身をも 潔めて御国の 世嗣となし、
 輝く幕屋に 住ませたもう わが主の愛こそ かぎりなけれ。」
 最後に重要な点があります。それは永遠の御国において、わたしたちは父・子・聖霊の三位一体の神と出会うのですが、わたしたちが見ることのできる方は、御子イエスだけです。なぜならば、わたしたちは神の子たちと呼ばれましても、決してわたしたちは神になるのではありません。そうではなく御子イエスの性質を映し出した人間として、神と共にいるのです。それにしても、わたしたちは復活の身体を与えられ、復活した御子イエスの姿を見るのです。
 御子イエスの人格の中に、父なる神の愛と神性の真理が充満しているのを見ることができるのです。同時に聖霊の働きによる信仰を以てわたしたちはそれを認識することができるのです。
 なお、永遠の御国ではわたしたちの人生は主イエスの性質をそれぞれの仕方で、完全に反映させていますから、わたしたちは「完成している」のです。わたしたちの姿は「最早変わる」ことはありません。しかし永遠は「現在の充満」であり、「常に」主イエスから輝き出る神の栄光を反映させつつ、すべての者が「常に新しく」生きるのです。



2017-10-29(Sun)

信仰による神の義 2017年10月29日宗教改革記念日礼拝メッセージ

信仰による神の義
中山弘隆牧師

 わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間に/わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき/わたしの腕を待ち望む。天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。
イザヤ書51章4~6節


 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
ローマの信徒への手紙3章21~26節


(1)宗教改革の原点
 本日の礼拝はいまからちょうど500年前の1517年10月31日に開始されました宗教改革を記念して、礼拝を守っています。このことは、世界のプロテスタントの教会とクリスチャンにとって、大いなる感謝と喜びです。
 ルターは自分の心の平安を求めて、アウグスティヌス派の修道院において、神に仕える生活を励みました。この期間、友人の修道士や司祭たちの助けを得て、徐々に福音に導かれてきました。中でも特に司祭シュタウピッツはルターの魂の牧会者であり、ルターの心の闇の中に福音の最初の光をもたらした人です。
 司祭シュタウピッツは自分の罪の自責と罪に対する神の裁きに苦悩しているルターに、自分の罪からキリストの功徳に目を向けるように勧め、律法から十字架の贖いに、業から信仰に、スコラ神学から聖書の研究へと、彼を励ましました。
 シュタウピッツはドイツにおけるアウグスティヌス派の修道院の副院長であり、人はキリストの恵みによって救われると言うアウグスティヌスの教理に立っていました。彼の勧めでルターは24歳のとき司祭になり、29歳のとき神学博士の学位を取得し、聖書の講義をする教授の地位が与えられたのです。
 ヴィッテンベルグの修道院の庭にある塔の一室が彼の書斎となっており、そこで1511~1512年にかけてルターはローマの信徒への手紙を研究しました。その中で、1章17節の言葉を熟慮しているとき、彼の心を啓示の光が照らしたのです。
 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」
 ここで「神の義」という言葉を、これまで自分が理解していたのとは全く違う意味で聖書が語っていることに気づきました。なぜなら「信仰を通して神の義が実現する」という神の義は、ルターが考えていたように個々の人間の罪を罰する「神の怒り」を意味しているのではなく、神の御子イエスにおいて実行された全人類の罪の審判であり、その審判を通して確立した神の義を知らせる啓示であり、それゆえ信じる者に無償で神の義が与えられることを知りました。
 ルターは「二種類の義」と題した説教の中で、「自己の善き業の功績による義」と「キリストの義」とを対比しています。その説教の中でキリストの義とは、キリストが「誕生から十字架の死に至るまでの生涯」において、神に対する徹底的な従順の歩みとその集大成である十字架の死の犠牲によって達成された「人間のための義」であると言いました。そして神はキリストを信じる者にキリストの義を無償で与えられることにより、人は神のみ前で正しい者と認められるのであると語っています。
 実にこの神の義を信じ、理解した時、ルターは長年求め続けた魂の平安を遂に見いだしたのです。ルターは神の義をこのように信じたことによって、神ご自身がルターと出会ってくださったことを知りました。神はルターにご自身を示し、神の義を与え、恵みを与え、神の御前に生きるようにしてくださったことを体験したのです。
 従って、聖なる神と出会い、神との人格的な交わりを与えるこの関係は、キリストの贖いによる絶対的な罪の赦しに基づいた不変の関係です。これこそ、救いの根拠です。
 正に、これは魂の救いです。使徒ペトロも教えています。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに、愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたの信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペトロ一、1:8~9)


(2)神の義の啓示
 それでは、本日の聖書の箇所であるローマの信徒への手紙3章21~26節は、神の義について何と言っているでしょうか。
 「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(ローマ3:25)
 ここで「罪を償う供え物」の原文は「ヒラステイリオン」と言うギリシャ語で、その意味は「罪を贖う手段」です。言い換えれば、神のみ前にわたしたちの「罪が取り去られる手段」なのです。従って、ヒステイリオンは明らかに罪に対する神の裁きを意味しています。つまり、これまで神が忍耐して罪を見逃して来られた人間に対する「神の措置を廃止」し、罪に対する最終的裁きを実行し、人間を罪から解放する神の行為であることを意味しています。
 それではどのような方法で神は罪を裁かれたのでしょうか。それは個々の人間を直接裁く方法ではなく、神の最愛の御子イエスを裁くことによってです。
 つまり御子イエスは十字架の死において、全人類と連帯化し、すべての人の罪をご自身で担い、全人類に代わって、ご自身を罪人とし、すべての人に代わって、罪を告白し、神の裁きを受けられました。しかも、「神の裁きの目的」は人類を救うためであることを理解し、死の極みまで父なる神の意志に従順でした。実に、御子の従順により、すべての人間の救いの根拠が実現したのです。
 人類の罪に対する神の最終的裁きにおいて、人間に対する神の義が人間の代表であり代理である御子イエスにおいて貫き通し、「人間を救う」神の義が樹立されたのです。この神の行為と決定は、いかなる者も反論し、抵抗することのできない神の真理と力に満ちた聖なる神的現実です。
 それゆえ「十字架の死と復活」は神の救いの決断と宣言です。
 「今この時に義を示されたのは、ご自身が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ローマ3:26)
 ここで神の義が示されたのは、二つの点から述べられています。第一点は、人類の罪を裁くことにおいて、神はご自身の正しさを主張し、明らかに示されたと言うことです。この点が特に重要です。
 宗教改革の福音理解を現代に適応させたスイスの神学者カール・バルトは「神の義」を福音的信仰がよって立つ「岩盤」であるといっています。ここに、いかなる人間の努力、または反論や抵抗に影響を受けず、人間を救う神の真理と力が示されている。それゆえ神の義の啓示において、人は「生ける神」と出会うと言っています。
 第二点は、神は御子イエスを信じる者を義とされると言うことです。つまり、これは信じる者に神の義を与えるという神の決断とその宣言です。これは、御子イエスの十字架の死と死人からの復活によって神が執行し、決定された決断であるゆえに、全く有効な神的事実です。この点に関してもカール・バルトは、宗教改革の基本原理である「信仰義認」について次のように教えています。
 信仰義認とは、クリスチャンは罪人であっても、あたかも罪人でないかのように神がクリスチャンをご覧になるということではない。そうではなく、神はクリスチャンを本当に正しい者とされることである。なぜなら信仰によって、神は御子イエスの義をクリスチャンに授与されたからである、とバルトは言っています。
 これはどういうことでしょうか。これは正に、神がクリスチャンを受け入れてくださり、クリスチャンは神のみ前で生きることです。しかし、わたしたちクリスチャンは今でも罪人であることは事実です。それにも拘らず罪を赦され、神との人格的交わりの中で、新しく生きることは最も確かな事実であるということです。
 その理由は神が主イエスの十字架と復活を通して、神のみ前に生きる「新しい人」を創造され、新しい人を主イエスの中に隠し、保存されているからです。同時に新しい人の中に、神の命令を実行する人間の自由が与えられているからです。これが信仰義認です。また信仰義認は神との正しい関係の中で生きることであると言えます。
 それゆえ、復活の主はわたしたちに福音の御言葉をもって、日々出会って下さり、「あなたは、わたしの十字架の死の中で、『古い自分』が既に死んでいる。わたしが復活し、あなたと出会ったのは、わたしの中に『あなたの新しい存在』が既に与えられているからだ。それゆえ、最早自分に寄り頼んではならない。古い自分を捨てて、わたしに従い、新しい人間として生きよ。」と仰せになります。
 この主イエスの御言葉を信じ、自分の中に今でも残っている「古い自分に背を」向け、主イエスの中に既に与えられている「新しい自分に向かって」、進んで行くことが、信仰者を「義とする信仰」であるとカール・バルトは教えています。
 従って、宗教改革の旗しるしである「信仰義認」とは、主イエスを信じて、すべてを主イエスに委ね、自分は何もしないでもよいと言うのではありません。主イエスと結ばれて、主イエスの中で古い自分が死んでおり、同時に新しい自分が創造され、主イエスの中に保存されていることを理解し、主イエスの支配と導きの中で、主イエスにどこまでも従う姿勢が、信仰義認なのです。
 それゆえ、使徒パウロは自分の信仰を次のように証しています。
 「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞をえるために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:13~14)
 さらにまた次のように言っています。
 「わたしはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。--その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方のために生きることなのです。」(コリント二、5:14~15)
 ここに信仰者の「自己理解」が言い表されています。わたしたちの新しい存在は主イエスの中に、与えられていることを理解し、主イエスのために生きることです。勿論、主イエスのために生きるとは、主イエスに従い、主イエスの命令を実行することです。それゆえ、新しい人間としてのクリスチャンの「主体性」は、新しい自己理解と主のために生きることを決断し行為する主体です。なぜなら、主の命令を実行する自由が既に与えられているのです。
 しかし新しい自分は主イエスの中に隠されていますから、わたしたちは主イエスと常に出会うことによってのみ新しい人として生きるのです。
 最後にルターは信仰によって「のみ」義とされると言いました。愛と希望の重要性を強調しながらも、義とされるのは、愛によってでも、希望によってでもないと言うのです。この点が信仰義認の特質です。なぜならば、クリスチャンのなす愛と希望の働きは信仰のように完全ではないからです。
 信仰は人間を究極的に救う神の審判の真理と力に直面し、審判を認め、服従する決断であるゆえに、信仰は完全なのです。しかし、その信仰は決して自分の力で信じる信仰ではありません。それは聖霊の働きによる信仰です。
 使徒パウロもこの点を強調しています。
 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされることを知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。」(ガラテヤ2:16)
 ここで「ただ信仰によって」と表現されていますが、原典の言葉では、「キリストを信じる信仰による以外には、人が義とされないことを知って、わたしたちはキリストを信じました。」となっています。
 勿論、主イエスの命令を実行することにより、クリスチャンは神のみ前に新しい人間として「具体的」に生きるのです。それでもクリスチャンの愛はあくまでも不完全です。それゆえ「神の義により頼んで」、最後まで希望を抱いて、主イエスに従っていくことが、クリスチャンが神のみ前で生きることです。
 もちろん、救いの完成はクリスチャンの生涯を越えています。つまり、主エスの再臨の時、すべての人間が復活することによって実現します。とろでその復活とは、主イエスの中で創造され、隠され、保存されているわたしたちの新しい存在が現れることです。これらすべては信仰を通して与えられている神の義によるのです。



2017-10-22(Sun)

真実の悔い改め 2017年10月22日の礼拝メッセージ

真実の悔い改め
中山弘隆牧師

 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
ホセア書11章8~9節


 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ルカによる福音書19章1~10節


(1)失われた人間関係
 人が生きていく上で一番必要な事柄は、人間関係であります。健全な人間関係が損なわれるならば、人の心は歪み、荒れすさみ、生活が乱れ、深刻な状態に陥ります。今日、中学、高校で虐めが多発しています。そのために自殺する生徒がいます。学校や家庭ではこの深刻な問題に対処するため苦慮していますが、問題は健全な人間関係をどのように造り出すかであります。
 聖書の中で語られていますザアカイも、彼の悩みは人間関係でした。「この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」と記されています。
 これはザアカイがどういう人物であったかの極めて簡潔な説明です。しかしこれだけで、彼がどれほど深刻な人間関係の破れを経験していたか十分に分かります。彼は徴税人という職業のため、同胞のユダヤ人から嫌悪の的にされていました。
 しかし、徴税人の仕事は国家の税金徴収を民間人に委託したもので、あくまでもローマ帝国による公認の職業でした。彼らはローマ総督が課す一定の税額以上に徴収し、上納した残りの分を自分たちの所得とすることが認められていました。
 その分野で、ザアカイは大いに手腕を発揮したのです。特にエリコの町は幹線が通っている交通の要所であり、いろいろな物品が集まる場所でしたので、交通税や物品税を多く徴収することができました。そのため彼は一代で財を築き、町一番の金持ちと呼ばれるようになりました。
 しかし選民思想を抱いているユダヤ人からは、同胞を裏切る者だと非難され、また世俗の利益だけを追求している信仰の落伍者のレッテルを張られ、人々の軽蔑の的にされました。
 一方ザアカイという名前は、大変立派な名前で、「義なる者」あるいは「正しい者」という意味です。一般に人の名前は、親の子に対する期待を表しているものですが、ザアカイの場合に彼は親の期待に反する人間になっていました。
 そのような事情で彼はユダヤ人社会から完全に締め出され、非常に閉鎖的な人間になってしまいました。ザアカイは同僚たちと共にいるときや、家族に囲まれているときは、明るく幸せな気分になり、彼の頭脳も良く閃き、大変機知に富んだ話をして皆を楽しませたことでしょう。多分、徴税人たちの間では頭として重んぜられ、家庭では良き父親として愛されていたのではないかと想像できます。
 しかし、人間は一部の人たちに対して善意を抱いていましても、その善意が外部の人たちに対して開かれていない場合には、心は歪み、自由ではないのです。
 それではどうすればよいのでしょうか。まずそれは自分の心が根本的に変わることが必要です。ある牧師は、人間の心の中には一つの底なしの空洞が開いていると語られました。その空洞はどんなものを投げ込んでも絶対に埋めることはできないほど深いというのです。山のような富、健康、名誉、そして多くの知識をその中に投げ込んでも埋めることができない底なしの穴です。その穴が満たされない間はわたしたちの心に本当の自由がないというのです。
 作家の石川達三は、「人間は誰しも、他の人から完全に理解されるということはありえないだろう。誤解されたままで生き、誤解されたままで死んでいく。わたしを知っているのはわたしだけ。わたしは一人きりのわたしなのだ。」と言っています。石川達三は自分の孤独を直視し、自分の孤独を雄々しく背負って、自由に生きようとした人です。しかし、人は真に勇気と自由をもって自分の人生を生きることができるためには、自分の心の中にある空洞が、神によって満たされなければならないのです。

(2)主イエスに見いだされる
 ザアカイの場合、主イエスに見いだされ、彼の家に主イエスが客として泊まられたことによって彼の心の空洞が満たされました。
 主イエスと弟子たちの一行がエリコの町を通られた時、人々は大勢集まって来ました。ザアカイも主イエスがどんな方か見たいと思って、通りに出たのですが、多分彼は小柄な人で、群衆に遮られて見ることができません。そこで咄嗟の機転を利かせて、道端のいちじく桑の木に登って、一行が近づいてくるのを眺めていました。
 その時、彼は主イエスによって見いだされたのです。主イエスはその木の下まで来ると、上を見上げて次のように仰せになりました。
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)
 主イエスは人と出会うとき、その表情と姿を見るだけで、その人の心の中が手に取るようにわかったのです。

 主イエスには人の心を見抜く超人的な能力がありました。旧約聖書の時代の預言者たちにもこのような能力が見られましたが、イエスの能力は彼らのものよりはるかに優っています。それはイエスが完全な神の愛と全く罪のない心を持っておられたからです。イエスは愛の感受性により、人の心の一番奥まで感じ取ることができ、イエスの心の鏡には、偏見による歪みもなく、人の思いがそのまま映し出されるのです。それは自ら何一つ罪を犯されませんでしたが、あらゆる試練と誘惑に出会われたからです。
 ヘブライ人の手紙は次のように言っています。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自身を死から救う力のある方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5:7~8)
 このために、キリストは人の弱さと試練の辛さを思いやることができるからです。さらに、イエス・キリストは人間の罪と弱さをご自分のもののように感じ、それを共に担ってくださる方であるからです。それゆえに、人の心の中にある悲しみ、恐れ、不安のすべてを知り、そしてその人が真の喜びと勇気をもって生きるようになるために、何が必要であるかをご存知なのです。
 言い換えれば、ザアカイの心の中に潜む虚無の淵を神ご自身が満たされるために、主イエスは来られたからです。それは主イエスの中に父なる神がおられ、父なる神の中に主イエスがおられる方として、主イエスはザアカイと出会われたのです。

(3)感謝の献身
 ザアカイは主イエスと話し、御声を聞き、御顔を見つめていますと、神が人間の思いを越えた無限の愛と赦しをもって、自分と出会い、自分のもとに臨在しておられるという霊的現実に接しました。
 そして、ザアカイは主イエスが自分と親しく話されるために、ユダヤ人たちから、「あの人は罪深い男のところに行って宿を取った。」(ルカ19:7)という激しい非難を自ら進んで引き受けてくださったことに感激しました。
 これほどまでに自分のために犠牲を払ってくださる方の有難さが身に染みて分かったのです。そのようにして自分の本当の友となり、自分と運命を共にし、何処までも連帯してくださる主イエスの決意と行動、すなわち神の愛が彼の心と存在を捕らえたのです。さらに、主イエスの連帯の頂点はイエスがザアカイの罪をご自身の上に担ってくださっていることだ、と思いました。
 それゆえ主イエスのザアカイに対する決意と態度を通して、神は自分の罪を赦し、自分の心と存在の中に入って来ておられることがザアカイには信じられたのです。そのときザアカイは心の中に光を受け、その光が彼の心を外部の人たちに向かって開かせたのです。
 彼は立ち上がって、自分の決心を主イエスの前に披歴しました。
 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたなら、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8)
 旧約聖書の律法によりますと、人からだまし取ったものは二倍にして返さなければならないのです。ザアカイはここで、律法の要求する以上に、すなわち四倍にして弁償すると決心しました。
 それだけでなく貧しい人たちに、自分の財産の半分を与えることを決心しました。これは律法には定められていません。彼が自発的にしたのです。自分がこれまで苦労して得たものを、惜しげなく、喜んで人々に与えました。
 今や、ザアカイは決定的に変えられました。彼は神の愛を知って、貧しい人たちの苦しみと悲しみを自分のもののように感じる者となりました。そして彼らを幸せにするため、自分を与えるようになったのです。しかも、これまで自分を罪人呼ばわりし、軽蔑し、嫌っていた人たちに対して、彼は彼らを赦し、熱い愛を抱いたのです。
 これまで外部の人たちには反感と冷淡さを抱いていた閉鎖的なザアカイとは、まったく違ったザアカイです。周囲の人たちが幸せな生活ができ喜んでいる姿を見て、喜ぶザアカイになったのです。
 ザアカイの決意と行動を主イエスはご覧になって、次のように仰せになりました。
 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ:9~10)
 このように仰せになった主イエスはザアカイに対して非常に喜ばれました。主イエスの目には神の喜びが輝いていました。そのとき、ザアカイは自分に向けられているイエスの瞳の中に、これから自分の成るべき姿が映っていることを知りました。
 宗教改革者カルヴァンは神がキリストにおいて、人間の救いのために達成してくださった事柄は、キリストがわたしたちの外側に留まっておられる間は、わたしたちの救いとならない。しかしキリストがわたしたちの中に留まり、働かれるとき、それはわたしたちの救いとなる、と言っています。
 ところで、カルヴァンはそのような信仰生活を「悔い改め」と言う言葉で総括しています。実に、悔い改めこそ旧約のすべての預言者たちが要求した「神のもとへ立ち帰る」歩みなのです。言い換えれば、神の永遠の国に至る「巡礼の旅」なのです。従って悔い改めは二つの側面を持っている、とカルヴァンは教えています。
 一つは、主イエスがわたしたち一人一人に向かって、「わたしはあなたの代わりに十字架について死んだ。このことはあなたたちがわたしの中で、古い自分に死んだことを意味している。それゆえ、あなたは最早自分により頼んではならない。さらにあなたはその悪い思いと悪い行いを捨てなさい。」と仰せられる。
 それゆえ、わたしたちは最早自分により頼まず、同時に自分の悪い思いと行いを捨て去ること、これが悔い改めです。
 もう一つのより積極的な面は、復活のキリストは「わたしが復活し、神の御前に生き、神の国の支配者とされたのは、あなたがたが神を知り、神に祈り、神の命令を実行して、神の愛と恵みを体験し、神の栄光をあらわすためである」と仰せられます。
 それゆえ、わたしたちはこの復活のキリストの御言葉を聞くとき、その命令を実行することが既に可能とされていることを知るのです。そして直ちに実行するのです。そのことにより神に喜ばれるのです。そこに限りない感謝と喜びがあります。そのようにしてクリスチャンはキリストに従い、キリストに従うこと自身が、キリストにある神の救いに至る「保証」であることを知り、神を賛美するのです。
 言い換えれば十字架の死によって、人類の罪を贖い、復活して天地万物の主権者となられた復活の主イエス・キリストが、神としてわたしたちの内に住み、働かれることによって、ご自分が達成された人類の救いをわたしたちの中に前進させておられるのです。
 それゆえ、ザアカイの感謝の献身は、今日のわたしたちにも当てはまります。なぜならば、一人一人の新しい存在とその生き方は主イエスの中に与えられているからです。主イエスの目の中に既に写っている姿に一人一人が成っていくことが、クリスチャンとして生きることだからです。主イエスと出会い、主イエスの御言葉を聞き、主イエスの目の中に映し出されている新しい自分となるために、常に感謝の献身をわたしたちは日々繰り返しながら生きる者たちです。



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