2017-07-16(Sun)

御言葉の実行 2017年7月16日の礼拝メッセージ

御言葉の実行
中山弘隆牧師

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。
イザヤ書55章8~11節 


 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
マタイによる福音書8章5~13節


(1)聖書の神に対する信仰
 従来の日本社会には、神々を祀る神社や仏に祈願する寺が多く見られますが、それらは聖書の神と根本的に異なっています。
 そのような神や仏は自己の意思と働きを持たず、神や仏としての性質が人間や自然の中に宿っていると思われています。そのような神は人間や動物、木や花、或いは山や川、すべてのものと融合している神々であり、汎神論的な神です。決して人格的な神ではありません。
 それに対して聖書の神は「わたしとあなた」、「我と汝」との対面の中で人間と出会い、交わりを持たれる人格的神です。その交わりの手段が神の御言葉です。さらに、御言葉は人間との交わりの手段だけでなく、実は神ご自身の存在と働きの仕方なのです。
 従いまして、問題は神がご自身を人間に現すために語られる御言葉を人間がどのように聞いたか、そして御言葉に応答して、何を為したかということです。そこに神の啓示と、神の救いが歴史的な出来事となって現れています。
 このような御言葉こそ、世界を創造し、人間を救う神の権威と力を秘めています。預言書イザヤ55章11節では、次のように証されています。
 「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」
 このように御言葉は神の目的を表し、しかもそれを実現する神の力と働きなのです。それゆえ、神が永遠に生きる存在であるのと同じく、御言葉も永遠なのです。
 このことをイザヤ書40章8節は証しています。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
 同様に、「神の言葉それ自身」であります神の御子・主イエスも次のように仰せになりました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)。
 ここで、神の御子イエスは、ご自身を神として語っておられます。それゆえ、イエスの語られる言葉が常に生きて働く神の力なのです。イエスの語られる言葉は何と力強い人智を超えた壮大な展望を持っていることでありましょうか。

(2)イエスの御言葉に対する信仰
 本日の聖書の箇所、マタイによる福音書8章5節によれば、ローマ兵の百人隊長の忠実な部下が中風で、ひどく苦しんでいるので、隊長自身がイエスのもとへ来ました。そして部下が癒されるように懇願しました。イエスは彼の切なる願いを知って、「わたしが行って、いやしてあげよう。」(マタイ8:7)と言われました。
 そのとき百人隊長が言った言葉が、記されています。
 「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)
 ここには、イエスを通して、神が働いておられるという信仰と、イエスの語られる御言葉こそ、生きて働く神の言葉であるという信仰が見事に告白されています。この人はイエスを本当に信じていました。
 百人隊長は言葉の持つ権威と効力を、軍人としての立場から、認識していたものと思われます。彼は中間職として、上の大隊長の命令を受け、自分の部隊では部下に命令を与える立場でありましたから、上官の命令が絶対的な権威であることを日頃から熟知していたのです。しかし、その命令の権威は、軍隊の中にだけ通用する権威です。それに対して、イエスの命令は通用範囲のいかなる制限もありません。あらゆるところに通用する権威です。
 クリスチャンの中には、信仰は心の中の問題であり、信仰と政治とは別問題である、と考えている人がいますが、それは神の働きの領域を自分勝手な考えで制限しているだけです。
 さらに神の働きは、社会体制の区別を越えて有効です。資本主義社会であろうと、または社会主義的社会であろうと、或いは民主主義的な現代社会であろうと、国王が独裁的な主権者である古代や中世の社会であろうとも、神の求められる正義と公平と憐みが具体的に実行されるならば、そこに神の働きが現れているのです。
 問題はただ一つ、神の働きはイエスに対する信仰を通して現れるという事実です。なぜならば、主イエスの到来が旧約聖書で約束されていた神の救いの実現であり、神の究極な啓示であるからです。従って、ヘブライ人への手紙はその冒頭で言っています。
 「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1~2)
 このように神は旧約聖書の時代に語られた多くの神の言葉の集大成として、そして御子イエスを通して、究極的な神の言葉を語られたのです。それゆえ、イエスを信じることが、旧約聖書の神を信じることなのです。逆に言えば、旧約聖書の神を本当に信じているかどうかの試金石はイエスを信じるかどうかなのです。
 実に、隊長は神の究極的な言葉であるイエスを信じました。イエスはここで隊長の告白に接して、次のように仰せられました。
 「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。」(マタイ8:10~11)
 ここでイエスはイエスの御言葉に対する信仰によってのみ、イスラエルの民であれ、異邦人であれ、人は誰であっても神の国に入ると、仰せられました。言い換えれば、人はだれでもイエスに対する信仰によって救われると言われたのです。
 しかしここで注意が必要です。神の力によって病気が癒されると言うことは、体だけのことではなく身も心も魂も全部救われると言うことなのです。それゆえ、イエスの言葉に対する信仰を言い表した百人隊長に、イエスは仰せになりました。
 「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」(マタイ8:13)
 ここで、「あなたが信じた通りになるように。」と言うギリシャ語の原文は、「あなたが信じたよう通りに、なれ。」と言う命令形なのです。
隊長はこのイエスの命令を信じたのです。
 わたしたちはどうでしょうか。きっと、皆様は信じておられるでしょう。正に、イエスの命令を信じることが、生ける神と出会い、神を信じることなのです。
 この点をヨハネによる福音書はもっと強調しています。ヨハネ4章50節で次のようにイエスは仰せになりました。
 「『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」
 ここで、「あなたの息子は生きる」とイエスが言われた言葉は特別の表現の仕方です。「生きる」という言葉はギリシャ語の文法で「動詞の現在形」です。しかし、それは普通の現在形の意味ではなく、特別の意味を持っています。つまり、イエスがこの言葉を口から発せられると同時に、「あなたの息子は生きるのだ」と言う意味です。言い換えれば、イエスの発言と同時に、その言葉を通して、神の力が働くので、「あなたの息子はまさに今生きる」と仰せになったのです。
 このとき百人隊長は、息子に対して発せられたイエスの御言葉を信じました。それゆえ、イエスは彼に仰せになっています。「帰りなさい。あなたが信じた通りになるように。」
 彼はこの御言葉を頂いて、帰って行きました。言い換えれば、御言葉に従って、行動したのです。信じるとはイエスの御前から生活の場に帰って行くことが必要なのです。そうすればイエスの御言葉の威力と働きが体験できるのです。家にたどり着いたとき、イエスが御言葉を発せられた「ちょうどその時、僕の病気は癒された」と言う事実が判明しました。これは正に驚きです。イエスの御言葉に対して、わたしたちもこの隊長と同じように行動することが重要です。それではわたしたちはそのようにしているでしょうか。
 誰でもイエスの御言葉を聞いて、御言葉は必ず実現すると信じて行動するならば、その人は神の力を体験し、そして知ることができます。

(3)クリスチャンに対するイエスの命令の意味
 最後に、クリスチャンに対するイエスの命令の意味について、聖書から学びたいと思います。主イエスの命令は単なる命令ではなく、その中に命令を実行することのできる力を持っています。この点が、イエスの命令の特徴です。
 ところで、クリスチャンの場合に、主イエスの命令とは何でありましょうか。使徒パウロは主イエスの律法は、「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言う一句に集約されると教えました(ガラテヤ5:14)。また使徒ヨハネは、イエスの命令を次のように要約しています。
 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:12)
 それゆえ、わたしがあなたがたを愛したように、隣人を愛しなさい、あなたがたは互いに愛し合いなさい、という主イエスの命令は、その命令と同時に、実行を可能とする「神の愛」が、「わたしたちの中」に働きます。このことを信じて実行することがわたしたちの生き方です。
 ところで、イエスの命令である神の愛の実行は、教会の中だけでなく、一般社会の中でも、実行する必要があります。その場合には、社会が必要としている神が命じられた道徳律を満たすことが重要なのです。この点を軽視しては、家庭や社会の中で、神の愛を実行することはできません。クリスチャンが教会の中でクリスチャンらしい振る舞いをしていましても、社会で通用しないのであれば、その信仰は未熟です。信仰は善良で、親切で、人に寛容であり、人の誤りを赦し、正直で、責任を果たし、社会でも人から信頼される人間を造り出します。

 しかし、神の愛がクリスチャンに働く場合、それ以上のことが実行でるし、実行しなければなりません。その意味で主イエスは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは天の国に入ることはできない。」(マタイ5:20)と仰せられました。
 ファリサイ派や律法学者が代表しているユダヤ教では、自分の能力と努力によって律法の命じる業を行い、それを自己の功績としました。そして人は自分の功績によって神の救いを得られると信じています。また愛の対象を「自分たちの仲間」に限定しました。さらに貪欲は罪ではないと主張し、富を得ることを人生最大の目標としました。

 それに対して、主イエスはクリスチャンが神の御心に従い、神の栄光を現そうという一心で、善い業を行いなさいと命じられます。また主イエスは「敵を愛しなさい。神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせておられる」と仰せられます。さらに、「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。あなたたがは、神と富とに仕えることはできない。」と言われます。
 因みにマタイによる福音書の「天の国」とは、他の福音書では「神の国」です。さらに、パウロの手紙では「復活の主イエスが支配される国」です。コロサイの信徒への手紙はこの点を明瞭にしています。
 「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13~14)
 それゆえ、復活の主イエスが支配される神の国に移されたクリスチャンは神に従い、隣人を愛する「自由」が与えられているのです。今や主イエスの支配は御言葉と聖霊とを通して、この世界の中に特にキリスト教会の中に、そしてクリスチャンの中に働いています。このように主イエスを通して働く御言葉の力は何と壮大なことでしょうか。
 しかしクリスチャンが自分に与えられている自由を使用して、イエスの命令を実行するためには、主イエスの命令を「自分の心」で直接聞くことが必要なのです。つまり、わたしたちと日々出会われる復活の主イエスを、わたしたちは「聖霊によって」見つめて、御言葉を信じ、実践することがクリスチャンの生き方です。



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2017-07-09(Sun)

誘惑に勝利する 2017年7月9日の礼拝メッセージ

誘惑に勝利する
中山弘隆牧師

 イスラエルの人々、その共同体全体は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュに滞在した。ミリアムはそこで死に、その地に埋葬された。さて、そこには共同体に飲ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。民はモーセに抗弁して言った。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ。なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。なぜ、我々をエジプトから導き上らせて、こんなひどい所に引き入れたのです。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえもないではありませんか。」モーセとアロンが会衆から離れて臨在の幕屋の入り口に行き、そこにひれ伏すと、主の栄光が彼らに向かって現れた。主はモーセに仰せになった。「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」
民数記20章1~8節
 

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
マタイによる福音書4章1~11節


(1)誘惑する者とは
 わたしたちの人生には様々な試練と誘惑があります。初心を貫いて最後まで努力することは非常に難しいことです。その理由は人には誘惑が多いからです。目に見える誘惑には良く抵抗することができましても、目に見えない誘惑には非常に弱いからです。
 それゆえ、絶えず目を覚ましていて、誘惑に打ち勝つのでなければ人生の目的を達成することはできません。信仰生活においても同様です。むしろ信仰生活は特にそうであると言えます。
 それでは誘惑に勝利するためにはどうすればよいでしょうか。その唯一の方法は、誘惑に完全に勝利された主イエスのもとから離れないでいるということです。また、自分が日々出会う事柄に対処しなければならない場合、自分の思いではなく、主イエスの思いが行われますようにと言う一貫した態度を持つことが必要です。そして主イエスに真剣に祈ること、これが勝利するため有効な手段です。
 実に救い主としてのイエスの第一の使命は、人間としてわたしたちと同じ弱さを持ち、同じ誘惑を経験し、しかもその誘惑に勝利してくださることでした。しかし、このことを口で説明することは簡単ですが、現実の人生の歩みの中でそれを達成することは他のいかなることよりも難しいのです。まことに至難の業です。

(2)救い主の使命
 次に神の御子イエスがこの世に来られた目的は、罪のために神から離れてさ迷い、行き倒れの悲惨な状態の中にある人間を神のもとへ連れ戻すことでありました。人間を神のもとに立ち帰らせることでした。そこで、この使命を果たすために、御子イエスは神の御心に従ってどのような仕方で取り組むべきかを熟慮する必要があったのです。イエスの行動の基本方針をじっくりと考える必要があったのです。そのためイエスは一人で荒れ野に行かれました。そこはだれも住んでいない全く孤独の世界です。
 エルサレムと死海との間には、長さ57キロメートル、幅24キロメートルの荒れ野が広がっています。それは高原地帯で、黄色い砂地と石灰岩でできています。一面に小石が転がっており、ごつごつとした岩肌が至る所に露出しています。そうした高原が死海まで続き、そこから一気に380メートルも下降する恐ろしい絶壁になっています。
 イエスはこの恐ろしい淋しい世界の中で、ただ一人自分自身と対面し、神の使命を果たすために自分の進むべき道について熟慮されたのです。わたしたちも自分の人生の曲がり角に立った時、自分一人になってすべてのことよく考える必要があります。
 普段は仕事や雑用に追われて見失っている自分を見いだし、自分のすべての問題を神の御前に置くためには、一人にならなければならないのです。孤独に耐え、自分一人でよく考える機会を持たなければなりません。そのようにして自分の人生を直視するならば、自分に対する神の意志や計画を知らされるようになります。

(3)イエスの受けられた試練
 本日の聖書の箇所では、次のように記されています。
 「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』」(マタイ4:1~3)
 ここでは「空腹を覚えられた」となっていますが、それは「飢えられた」すなわち餓死の危険に直面されたという意味です。
 また聖書では「誘惑する」という言葉は「ペイラゾー」と言いますが、この言葉は「テストをする」という意味もあります。人が神に用いられ、役に立つようになるために「鍛える」という意味もあります。金属が純粋になるため精錬されなければならないように、人も試されなければなりません。神がアブラハムを試されたのも、彼が神に対して忠実な者となるためでした。
 神の与えられる試みは、人を悪くするためではなく、良くするためです。弱くするためではなく、一層強く、清くするためです。試みとは人間に対する刑罰ではなく、それは神が御用のために用いようとする者に与えられる試練なのです。ここに人が神の目的に沿う者となるためには、試練を受けなければならないという崇高な真理があります。
 そこで、悪魔の誘惑は第一にパンの問題でした。今イエスは40日間の断食によって痩せ衰え、飢えのただ中で苦しんでおられたのですから、パンを得ることは最も切実な問題です。
 できることなら石をパンに変えて食べたいとの思いがイエスの脳裏に浮かんできたことでしょう。その機会を逃さず悪魔はイエスの耳に囁きました。
 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(4:3)
 「お前が神の子である」というからには、この石がパンとなるように命じて見よ、と悪魔はイエスを誘惑したのです。なぜならば、イエスは神を「ご自分の父」として知り、父との人格的な交わりの中で今まで歩んでこられた方でありますので、ご自分が「神の子である」という明確な自覚を持っておられたのです。
 特に、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた時、ルカによる福音書によりますと、次のように記されています。
 「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(ルカ3:21~22)
 この声は父なる神が直接にイエスに語りかけられたのです。イエスは普段から御自分が神の御子であるとの自覚を持っておられましたが、父の御声を聞いて、それは不動の確信となりました。
 そこで、悪魔はイエスが御子であるからには何でもできる筈である。それゆえこの石に命じて、パンに変えよと誘惑したのです。しかし、そのように考えることは御子の性質に反します。なぜならば父に対してどこまでも従順であることが御子の本質であるからです。
 イエスは父なる神が全能であることを信じておられましたが、その全能とは父なる神が自ら欲せられることは何でもできるという信仰です。従ってイエスは父なる神が石をパンに変えるように欲しておられないことを十分知っておられましたので、悪魔の要求を拒否されたのです。
 それゆえ、イエスは聖書に「『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と言って、悪魔の誘惑を退けられました。これは申命記8章3節の言葉すなわち「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」の引用です。
 要するにイエスが仰せになった意味は、だれでも神の言葉を聞くとき「内的な生きる力」が与えられると言う「御言葉に対する信仰」です。同時に摂理によって、神様はわたしたちが自分で働き糧を得る道を必ず開いてくださるという「神の摂理に対する信仰」です。
 神の摂理とは、現在この世界の中に働いている神の全能の支配のことです。神様は人間が計画し、実行しているすべての事柄を、人智を超えた知恵と力を持って支配し、ご自身の思いと目的を実現される方です。しかも、神は恵み深い方でありますから、一人一人の人生を配慮し、わたしたちが働いて生きる道を開いてくださいます。この信仰が聖書の信仰です。
 さらに悪魔はイエスに挑戦しました。
 悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、もちろんこれもイエスの心の中でそのように思わせたのですが、神殿の屋根の端に立たせ、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言い、同時に、詩編91篇11~12節の聖句を引用しました。
 「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。」
 これはイエスが大いなる奇跡を行うならば、すべての人間はイエスを神から遣わされたメシアであるときっと信じるだろう、と悪魔は誘惑しました。正にこの点は信仰の問題であり、イエスにとって重大な意味を持っています。
 実を言えば、イエスは神の国の宣教をしておられた時、常にこの誘惑にさらされていました。なぜならイエスがメシアであることを証明する天からの「しるし」をユダヤ人はイエスに求めました。イエスは心の深い嘆きをもって、次のように仰せになっています。
 「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」(マルコ8:12)
 なぜならば人がイエスを信じるということは、イエスの言葉、行動それ自体を見て、信じることが本当の信仰なのです。イエスの言動それ自体が信仰を要求している神の事実であると思って信じるのが、本当の信仰なのです。
 言い換えれば、信仰とはイエスを通して父なる神が人間のもとに臨在し、働き、イエスによってご自身を啓示しておられることを信じることであるからです。

 「更に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」(マタイ4:8~9)
 ここで、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せたというのは、国々の繁栄と富を実際に目で見えるようにしたのではなく、イエスの心に映るようにしたのでしょう。それでも実にそれは偉大な感動的光景であったに違いありません。
 外見的にはすべての人々がその国の権力者と富に服従しているように見えます。もし救い主がそのような絶大な権力を持つならば、すべての人々に神を信じさせることが容易にできるように思えます。事実、ユダヤ人はそのような政治的権力と軍事力を持った救い主の出現を待望していたのです。もしイエスがそのような救い主になりたいと思うならば、悪魔は「わたしを拝みなさい、そうすれば世のすべての富と権力を与える」と誘惑したのです。
 さらに、現代の諸国家の状況は悪魔の誘惑に捕らえられていると思われます。現代のグローバルな世界は、資本と製品と人間が自由に移動できるように公平なルールを多国間の協定により定め、経済的規模を拡大させようとしています。その結果、総生産量は飛躍的に拡大しますが、世界の何処にでも貧富の格差が拡大しています。悪魔はこの世界の権力と繁栄があたかも自分のものであるかのように見せかけ、人間を騙しています。悪魔はイエスに世界の富と権力を示して、わたしを拝むなら、すべてをあなたに与えようと約束しました。このときイエスは悪魔の本質を見抜かれたのです。この悪魔の挑戦に対して、イエスは人間が礼拝すべき方は主権者である唯一の神であると仰せになって悪魔の誘惑を退けられました。
 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(4:8)と仰せになりました。これは出エジプト記20章1~6節までの要約です。
 その結果、御子イエスの道は必然的に人類の罪を贖うための十字架の死に至る道となりました。人類の罪を裁かれる父の意図が成就することによって、人間は救われるのだとイエスは確信し、人類に代わって神の裁きをご自分の身に引き受けられたのです。
 このイエスの従順こそ、御子の栄光であり、人間を救う神の力です。それゆえ父なる神は御子イエスを死人の中から復活させ、天地の万物の主権者である「主イエス・キリスト」とされました。
 今や主イエスは神の力をもって世界と万人を支配し、罪と闇の支配から解放されるのです。主イエスの支配とは、人間が神の意志に従い、隣人を愛し、正義と公平と憐みを実行することによって、諸国家やその社会を人々が共に生きる共同体とすることです。



2017-07-02(Sun)

万事が益となる 2017年7月2日の礼拝メッセージ

万事が益となる
中山弘隆牧師

 それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ/もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて/必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。わが主はあなたたちに/災いのパンと苦しみの水を与えられた。あなたを導かれる方は/もはや隠れておられることなく/あなたの目は常に/あなたを導かれる方を見る。あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。
イザヤ書30章18~21節


 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
ローマの信徒への手紙8章28~30節


(1)産みの苦しみ
 人は誰でも、健康で、生活が保障される安泰な人生を歩むことが幸福であると考えていますが、それは極めて非現実的な考え方です。必ずいつか困難な問題や状況に突き当たり、失望することになってしまいます。他方、予想していなかった困難や災いが自分の身に降りかかっても、絶望せず、苦難の先にある希望を見つめ、現在の苦しみを「産みの苦しみ」として受け取ることのでき人、そして困難に耐え、創造的な働きのできる人もいます。そのような人々は生まれながら優れた素質と能力を持っている少数の人たちです。
 しかし、そのような特殊な人ではなく、神の恵みに生かされる人は、誰でも人生を創造的に逞しく生きることができます。なぜならば、この世界と人間は皆、神によって創造された被造物であるという信仰の視点を立てばよいのです。そうすればイエス・キリストの救いの中で、「万物」は産みの苦しみをしていることが分かるのです。
 使徒パウロは本日の聖書の箇所であるローマの信徒への手紙でこのように言っています。
 「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:22)
 人間は苦労の果てに皆死んでしまう。自分の利益を獲得するために、人と争い、力でその目的を達成しても、所詮すべては過ぎ去り、すべては滅びに至るという運命を思うとき、人は皆虚無に陥ります。確かにこの自己矛盾は今日の人間の深刻な問題です。神から離れた人間と世界が抱えている大きな自己矛盾と言えます。
 従って、今日最も深刻な問題は、日本が敗戦から70年を経て、経済的に発展し、米国との軍事同盟を強化して、世界の覇権を掌握しようと野心を燃やし、軍事大国になろうとしていることです。それを安倍政権は積極的な平和主義といっています。
 このような最近の傾向を見ますと、日本が明治以来始めた侵略戦争が近隣諸国の多くの人の生命と財産を奪い、また自国を破滅に至らせた道義的責任を少しも認識せず、また国家に破滅をもたらした戦争体験から何も学んでいないという点が、一番深刻な問題ではないでしょうか。同時に、世界と万民に通用する基本的人権、国家に対する国民の主権、諸国家の共存による平和の尊重、思想と結社の自由を保障している戦後の憲法を改正して、日本独特の理念に基づく憲法を造ろうとしていることです。そして国家の安全を守るために、何よりも同盟や軍備の拡張に頼っていることが、日本の将来に対する大きな危機であると言えます。
 なぜならば安全を守るために、武力に頼る国家は、必ず滅亡に至るからです。主イエスは「剣を取るものは、剣で滅びる。」(マタイ26:52)と仰せになっています。このことを今日の日本は真剣に考えなければなりません。それでもこのような危機的状況の中で、なお希望を与える道は、それを産みの苦しみとして見る視点です。パウロは先ほど引用しました聖書の箇所の一節前で言っています。
 「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」(ローマ8:21)
 ここで神の子たちの栄光に輝く自由とは、人間と世界が陥っている虚無と滅びから解放され、人が共に生きる自由が与えられることです。人は誰でも主イエスを信じ、主イエスと結ばれることによって、神の恵みと主イエス・キリストの支配のもとにあるのです。その結果、神の命令を実行する自由が与えられています。さらにすべての人々は神の救いが完成する終わりの日に、「復活の主イエスの姿」に似る者へ「変貌する」と神様が約束して下さっています。
 それは正に神の救いが完成する永遠の国であり、そこではすべての人間が救われます。さらに人間だけでなく、被造物全体も神の恵みの輝きを反映する世界へと変貌します。これは何というスケールの大きい、遠大な視野に立った人生観、世界観でありましょうか。これこそ聖書が生きとし生ける者に与える人生に対する見方です。
 今や主イエス・キリストが支配される「神の国」は人類の歴史の中に突入しています。死人の中から復活された主イエス・キリストが人類の歴史の流れの方向を導いておられます。それゆえ、人類の歴史の中で起こる一切の事柄は「産みの苦しみである」とパウロは断言することができるのです。
 従って、わたしたちもパウロのように、今日の危機的な時代を産みの苦しみとして積極的に捕らえ、神が人間と国家に求められる本当の正義と人間の責任を明確にして、発言し、行動し、神の御前に生きる者となりますように、真剣に神に祈ることが必要です。
 
(2)クリスチャンの笑い
 次に、宗教改革者マルティン・ルターはクリスチャンが悪魔の攻撃を受けて、悪戦苦闘している最中でも、なお自由と快活さをもって明るく笑うことができると、言っています。それはクリスチャンが復活のキリストの代理人であるからだ、と言うのです。
 わたしたちは今なお闇の力に激しく襲われますが、それでもやっぱりキリストの最終的な勝利をわたしたちの態度と言葉で表すならば、そのことによってわたしたちは復活のキリストを証しているのだと、ルターは臆せず公言しています。
 要するに、クリスチャンはすでに地上で生活しながら、天上における最終的な勝利の先取りとして、今共に喜ぶことができる。従って、われわれは共に愛し合い、共に喜び、共に笑い、共に歌おうではないかと、ルターは言うのです。

(3)神に知られている人生
 次に、クリスチャンはこのようにキリストの最終的勝利を信じるならば、万事が益となると確信できます。使徒パウロはローマの信徒への手紙8章28節で次のように言っています。
 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
 実に、これが自分の人生に対するクリスチャン特有の見方です。 しかし万事が益となるという意味は、決して万事が自分の思い通りになるというのではありません。「万事を益」としてくださる方はわたしたちの人生を究極目標に向かって導いておられる神様だけです。
 その神の目から見て、万事が益となるように働くのです。従って、神様は究極目標を達成するための方法と段階を決められました。この点について聖書は29、30節で語っています。
 「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものとしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(8:29~30)
 先ず神は「目標」を定められました。これは人間に対する神の永遠の目的です。すなわち、人間を「御子の姿に似た者」とすることです。もちろん、この目的は人間を愛する神の本質に基づく目的です。しかもそれは無償の愛によるものであり、神の絶対的な自由によって定められた目的です。これは真に有難い目的です。
 そのため、神は父・子・聖霊の交わりの中に永遠に存在しておられる「子なる神」を、「真の人間」としてこの世界に遣わしてくださいました。それゆえ、御子イエス・キリストは真の神であり、真の人間です。
 神は人間が主イエスにおいて、ご自身の性質に似る者にしようと欲し、計画し、目的実現の為に働いておられるのです。
 それゆえ、御子・イエスキリストの地上における生涯は、父なる神が御子イエスの中で働き、イエスの言葉と行動がそのままで神の言葉と行動となりました。つまり、神は御自身をイエスにおいて啓示されました。従ってわたしたち人間は御子イエスを見ることによって、神を見ることができるのです。さらに、イエスの生涯の頂点であり、その完成である十字架の犠牲の死は、「人類の罪の贖い」でありました。
 神様は人間を救うために、人類の罪をイエスに担わせ、人類に代わってイエスを裁かれました。裁きにおいて神の義が貫徹すること自体が人間の救いとなるためです。イエスはこの意味を完全に理解し、死の極みまで父なる神への従順を全うされました。
 その結果、わたしたちはイエスの中で、自分の罪とその束縛から解放されたのです。同時に、神はわたしたちのために、御前に生きる「新しい人間」をイエスの中に創造されました。これが「人間の救い」です。
 この「神の決定」と「新しい人間の創造」を、神は御子イエスを死人の中から復活させ、神の右に座らせ、天地万物の主権者とされたことによって、宣言されました。
 今や、復活の主イエス・キリストは救い主として、「教会の主」であり、「世界と人類の主」として働いておられます。人間を神の御子イエスに似た性質を持つ者とする神の目的は、今や主イエス・キリストの中で既に成就したのです。
 それゆえ、復活の主イエスは、すべての人を救いに与らせるために、人々を教会に集められるのです。次に、神はその計画表を示されました。
 先ず、第一段階は未だわたしたちが神を知らないでいるときに、神はわたしたちを呼び出してくださいます。
 それは教会の礼拝において、聖書が読まれ、祈りが献げられ、牧師が聖書の御言葉に基づき、聖霊の働きによって説教するとき、復活の主イエスが礼拝に参加している人たちの所に臨在し、出会っておられるのです。そして主イエスは礼拝をしている会衆に聖霊を与えられます。
 聖霊によって主イエスの命と自由を与えて下さいます。さらに聖霊の働きによって信仰が与えられるのです。ここで、神は信仰を通してわたしたちの罪を赦して、神との人格的な交わりに入れてくださいます。これは神との正しい関係に入れられることであり、「信仰義認」と呼ばれています。
 それに続く、第二段階は、クリスチャンが信仰義認に基づいて、教会に連なり、信仰生活を送り、段々と主イエスの性質を映し出す者へと変えられることです。この信仰生活を「聖化」と言います。
 それはわたしたちが御言葉を聞き、御言葉を実行しようと決意し、実行に着手するとき、不思議にも実行できるのです。確かに完全でなく、それでも部分的に実行できます。このことが聖化なのです。
 そのように御言葉を聞き、理解し、自分を主イエスに献げ、決断し、実行するすべての「信仰生活」が、「聖霊の働き」です。それが「聖化の過程」を歩むことです。
 しかし聖化はあくまでも部分的であり、未完成です。それにも拘らず、神の救いが完成する終わりの日に主イエスの性質に完全に似る者へと変貌するのです。この希望と確信も「聖霊の働き」です。
 従ってわたしたちには留意すべき点が二つあります。
 一つの点は主イエスに従うか、それともこの世の考え方や生き方に従うかの二者択一を、自分の人生の様々な状況の中で決断し、実行することです。これが第一点です。
 もう一つの点は、主イエスの歩まれた道は、「ただ一度限り」で繰り返すことのできない生涯です。それは「永遠の意味」を持っています。それゆえ神は主イエスの地上の歩みと十字架と復活を、人類の他の歴史の流れから切り離し、それを「神の言葉」にされました。それゆえ、主イエスの地上における一回限りの歩みは、今や常に生きて働く神の言葉となり、人を「生かす霊的現実」なのです。
 従いまして、主イエスに従う者は、地上での主イエスの御足の跡を見つめて、同時に復活の主に従うのです。
 なぜならば、「復活の主イエス」はクリスチャンが直面している現代の状況の中で、クリスチャンの中に働いておられるからです。従って、主の歩まれた足跡に従うとは、現代の環境に取り巻かれているクリスチャンの中で、働いておられる復活の主イエスに従うことに他なりません。



2017-06-25(Sun)

イエス・キリストの名によって 2017年6月25日の礼拝メッセージ

イエス・キリストの名によって
中山弘隆牧師

 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。
エゼキエル書33章10~12節


 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
使徒言行録3章1~10節


(1)生ける主イエス・キリスト
 キリストの使徒たちはペンテコステの日から、聖霊の力を受けて、キリストの救いを知らせる福音を確信に満ちて宣教しました。
 本日の聖書の箇所では使徒ペトロが、足の不自由な一人の障害者を主イエス・キリストの御名によって癒したと記されています。実に、この癒しはイエスの御名によってなされた驚くべき奇跡です。
 しかしこれは単なる癒しの奇跡ではなく、主イエスによる救いを証する奇跡なのです。この出来事はキリストの福音がすべての人を救う神の力であることの証しとして起こりました。
 「すると、生まれながらの足の不自由な男が運ばれてきた。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。」(使徒言行録3:2~3)
 この人は自分の人生を懸命に生きようと努力した時期もありましたが、生まれながら足が不自由なため、自活の道は見つかりませんでした。大人になっても人に施しを乞うて命をつないでいる自分の姿を見るにつけ、何と惨めな人間であろうかと感じていたのです。
 そこに自分の人生に本当の意味を発見し、活力に溢れている人間が現れました。彼らは以前から主イエスの弟子であり、今や主イエスの復活の証人となったペトロとヨハネです。彼らは主イエスと出会う以前には、自分たちも全く弱い人間であったことを良く知っていました。しかし、今や主イエスによって霊的な新しい命に生かされ、その力強さを身にひしひしと感じていました。
 それゆえ、大胆に、率直に、自分のすべてを開け放して、この人と出会おうとしました。その時の様子が3:3で示されています。
 「ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしを見なさい』と言った。」
 このように彼らは有りのままの姿で、彼の前に立ちました。そして彼の目を見つめ、心の奥まで共感できるような出会いをしました。これは何という印象的な出会いであったことでしょうか。そこでペトロは口を開き、言いました。
 「わたしには金や銀はないが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」(3:6)
 確かにこの場合、この人がペトロとヨハネに期待したものは僅かばかりの金でした。しかし本当は金銀を求めていたのでなく、もし自分が癒され、逞しく生きることができれば、自分は幸いに成れるのだが、と言う思いがまだ彼の心のどこかに残っていたのです。
 「わたしにあるものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。」と言うペトロの言葉を聞いて、これはどういう意味かと驚き怪しみながら、しばらくペトロの顔を見つめていました。
 するとペトロは自分にとって一番大切なもの、否自分の命よりも大切にしているものをあげようと正直に言っていることが分かったのです。そこでなお一心にペトロを見つめていますと、主イエスがペトロを生かしておられることが分かり、今ペトロの中に働いておられる主イエスが哀れな自分を癒してくださると感じたのです。
 そのときペトロはぐんぐん迫ってくる気迫を持って、彼の手を取りました。温かい大きな手で、彼が立ち上がるのを助けようとしました。このとき、彼は主イエスご自身がこの場に臨在し、彼に決断を促しておられるように思ったのです。その瞬間、彼は自分で歩けるような気がし、思い切って歩こうと決心したのです。するとどうでしょうか。忽ち彼は歩けました。これは全く不思議なことです。
 わたしたちはここで、ペトロが「ナザレの人イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。」と言っていることに注意する必要があります。それは何かといえば、聖書の特徴的な人間観です。すなわち人の名前は、その人自身と不可分離に結びついており、その人の性質と能力はその名前の中に本来的に備わっているという見方です。
 従いまして、「ナザレの人イエス・キリストの名によって」とは「生けるイエス・キリスト」の「霊的な現実に直面して」と言う意味です。なぜならば、イエス・キリストは今や死人の中から復活し、天地万物の支配者となり、神の力をもって働いておられるからです。
 ペトロは自分たちが主イエス・キリストの復活の証人であると、言っています。これは癒しの奇跡が起こったすぐ後で、ペトロが神殿に入って語った説教の中で、ユダヤ人に対して説明しています。
 「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちはこのことの証人です。あなたがたが見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それはその名を信じる信仰によるものです。」(3:15~16)
 従いまして、ペトロが「イエスの名」と言うとき、単なるイエスと言う名前ではなく、復活し、主となり、生きて働いておられるイエス・キリストご自身を指しています。
 さらに、「イエスの名を信じる信仰」とは復活の主イエスと出会い、その生ける人格に直面することであり、目には見えない現実を信じることです。言い換えれば、そこに聖霊が働いているのです。聖霊による信仰とは実に生きて働く信仰です。
 自分は主イエスを信じていると思っているだけの怠惰な信仰ではありません。そうではなく生ける主イエスと人格的に直面し、主イエスの御言葉と恵みに応答する信仰です。この人は「ナザレの人イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。」と言うペトロの命令を聞いたとき、ペトロではなく主イエスご自身が、自分に向かって「立ち上がり、歩きなさい。」と命じておられるのだと信じました。その瞬間に癒されたのです。
 このようにして、生まれながら足に障害を持っていた彼は主イエスの使徒たちとの出会いを通して、主イエスご自身が自分に語りかけ、自分を追い求め、自分に直面しておられるのを経験しました。その出来事の中で、この人は主イエスご自身が自分を受け入れ、抱擁し、包み込んで、主イエスの命と力を与えてくださるので、自分は新しく生ることができると信じました。これが応答する信仰です。
 この霊的な現実、すなわち神様が主イエスによって、わたしを知り、わたしを愛していてくださるということ、これこそ他の何ものにも優る恵みであると確信しました。そのようにしてこの人は、自分の人生の本当の意味を、神の恵みの中に発見したのです。
 さらに、主イエスを通して神様が自分と共におられ、自分の人生を導いてくださるならば、どのような結果に終わろうともそれが一番よい人生だと思えました。ここに心から感謝の念が沸き起こり、彼は神を賛美しながら、神殿の境内を歩き回っていたのです。
 そして喜びに溢れて神を賛美するうちに、今後は神の愛に応えて生きようと決意しました。その時、彼は心身ともに自立して生きることができるようになったのです。

(2)聖霊の励ましと
 次に、主イエスによる救いについての福音を聞いて、復活の主イエスに出会い、主イエスを信じるとき、人は聖霊が与えられます。
 聖霊は父・子・聖霊の三位一体の神ですが、聖霊は父なる神と主イエスから出て、主イエスを信じる者に与えられるのです。その聖霊はわたしたちに復活の主イエス・キリストの働きと思いを知らせてくださる方です。
 ところでわたしたちは聖霊をどのように考えているのでしょうか。聖霊は単なる神の力ではありません。あるいは霊的な能力、カリスマではありません。聖霊についてわたしたちはもっと聖書的に理解をすることが必要です。
 復活の主イエスが福音の御言葉を通してわたしたちに語りかけ、わたしたちと出会っておられるその霊的な現実を、わたしたちに認識させてくださる方が聖霊なのです。ここに聖霊の働きの本領があります。
 復活の主イエスはわたしたちに出会われるときに、わたしに従って来なさいと命令されます。と言うのは、復活の主イエスは目に見えない方ですが、神の力をもってわたしたちを導いておられる方ですから、わたしたちに命令されるのです。主イエスに命令されることによって、わたしたちは主イエスを具体的に生ける人格として体験します。しかも復活の主イエスはわたしたちと出会われる場合に、わたしたちの外側におられるだけではなく、わたしたちの存在と人格の中に入って、働いておられるのです。
 この霊的な二つの面を聖霊がわたしたちに知らせてくださるのです。さらに、聖霊はわたしたちを促し、わたしたちが主イエスの命令を実行して、具体的に主イエスに従うように、励まされるのです。わたしたちが主イエスの義と生命の働く新しい生き方をするときに、聖霊の促しが必要なのです。その聖霊の促しを無視するならば聖霊は悲しまれます。さらに無視し続けるならば、わたしたちの心の中にある聖霊の働きは中止されます。
 使徒パウロはエフェソの信徒への手紙4:30で次のように教えています。「神の聖霊を悲しませてはいけません。」さらに、テサロニケの信徒への手紙一、5:19で、「“霊”の火を消してはいけません。」と言っています。ここで「霊」とは聖霊のことです。これは主イエスを信じることによってわたしたちの心の中に与えられている聖霊の促し、励ましを無視し続けてはいけない、と言う意味です。
 正に、主イエスに従う人生とはこれまで罪と死に至る人生を歩んでいた者が、主イエスを信じて、主イエスに従うことを通して、義と生命に至る人生を歩むことです。ところでその根拠はどこにあるのでしょうか。
 その根拠は、神様が御子イエス・キリストによってわたしたちのために実現してくださった罪の贖いです。それによって神は義と永遠の命に生きる新しい人間を創造されました。神に従う新しい人間を主イエス・キリストの中で創造されました。これが根拠です。
 これはまた神との和解とも言われています。コロサイの信徒への手紙は、罪人に対する神の和解の福音を次のように語っています。
 「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、ご自身の前に聖なる者、疵(きず)のない者、とがめるところのない者としていくださいました。」(コロサイ1:21~22)
 ここで神様はわたしたち罪人を主イエスの中で、主イエスの性質を映し出した聖なる者、神の御心を行う新しい人間とされたと言っています。このように神様は人間に対する神の究極目標を、主イエスの中で、すでに達成されたのです。

(3)主イエスの命令
 それゆえ、また復活の主イエスはわたしたちの中に働いて、わたしたちを導いてくださっているのですが、わたしたちと日々出会い、わたしたちに向かって、罪人である古い人間の思いと業を捨て、新しい人間として、主イエスの思いを知り、主イエスの思いを実行しなさいと命令されるのです。
 ペトロの語るナザレの人イエス・キリストの名によって、立ち上がって歩めと言う言葉を信じた人が、その通りに行い、生まれながらの病が癒されたように、わたしたちは主イエスと出会い、命に溢れた霊的現実を信じて、主イエスの命令を直ちに実行することが主イエスに従う生活です。
 復活の主イエス・キリストは今や神として働き、御言葉を通してわたしたちと出会い、ご自身を示し、ご自身を通して父なる神を示し、わたしたちを神との人格的な交わりに入れてくださる方です。しかも、わたしたちの中に働き、わたしたちを救いの完成へと導いておられる方です。
 同時に、聖霊は主イエスと共に働き、わたしたちを主イエスの救いに与らせ、わたしたちを主に従わせられる方であり、それゆえ聖霊はわたしたちを「聖化する霊」と呼ばれています。



2017-06-18(Sun)

父・子・聖霊の神 2017年6月18日 三位一体主日礼拝メッセージ

父・子・聖霊の神
中山弘隆牧師

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記6章4~9節


 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
ヨハネによる福音書14章6~10節


(1)聖書の神と神の言葉
 わたしたちは本日、「三位一体の神」を賛美し、祈るために定められた「三位一体主日礼拝」を守っています。三位一体の神とは、唯一の神が御自身の内部に持っておられる父・子・聖霊の交わりを通して、わたしたち人間と深く関わり、わたしたちを救いに導いておられる神様です。
 このことを神様は人類の救いの歴史を通して啓示されました。本日はこの点を特に覚えたいと思います。先ず、神は唯一の神様であることを、本日の聖書の箇所である申命記6章は強調しています。
 「イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5)
 わたしたちは日常生活の中で、思い煩うことの多い者ですが、新緑の森を渡って吹いてくる微風を体に受け、心身がリフレッシュされるとき、野辺に咲く小さな花、或いははるばる南洋から飛来し、巣作りのために川や、田んぼを飛び交うツバメの姿を見ると、思い煩っている自分の愚かさに気づきます。そして自分が生かされているということが何物にも代えがたい幸いであるとつくづく思います。
 従って、人間だれしも自分を生かされる神を知ろうと欲し、神を探求します。しかし、人間が神を知り得る唯一の方法は、神ご自身が「神として」、人間と深く関わり、人間が神の御前に生きるようにしてくださること以外にはありえないのです。この点に聖書の神が唯一の神である所以があります。
 初めに、神様は人間に対するご自身の恵み深い意志により、イスラエルの民を交わりの相手として「選び」、民が神を理解するように教え、導き、訓練を与えて来られました。
 この神様のイニシャティブによって、「結ばれた関係」の中で、イスラエルの民は唯一の真の神を、「われらの父」と呼びました。しかし、神とのこの関係によって、イスラエルが神の身分になると言うのでは決してありません。そうではなく、彼らが神の配慮と訓練の中で、神に従い、神の命令である律法を忠実に実行することによって、神の御前に生きる人間となること、これがイスラエルを選ばれた「神の目的」でした。
 この目的によって、神様はイスラエルの歴史の中で、預言者たちを召し、彼らを通して神の言葉を語られました。また神は預言者を神の代理と定め、イスラエルと全人類に対する神の支配を代行させられたのです。それゆえ、神はエレミヤに仰せになりました。
 「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、或いは建て、植えるために。」(エレミヤ1:9~10)
 それゆえ、唯一の主権者である神との人格的関係に入れられた預言者たちの特質は神に対する「従順」です。
 神はエレミヤに対して直接に御言葉を語り、「御言葉と共に聖霊」を与えられたので、エレミヤは神の言葉を自分の知性で理解し、人間の言葉で、神の意志と命令を語ることができました。
 またキリスト教の初期には、聖霊によって、異言を語るクリスチャンが多くいました。彼らは聖霊によって、主イエスを告白し、神を賛美していたのです。しかし彼らの言葉は不明瞭で、何を言っているのか他の人には分かりませんでした。なぜなら、そこには信仰による認識がなかったからです。

(2)究極的な神の言葉
 イエスは父なる神を知り、ご自身の言葉で、父の意志を語り、行動されました。それは父に対する御子の従順をもって、語り、行動されたのです。罪人に対する神の赦しを語り、病人を癒されました。神はその時、イエスを通して働かれたことが、一目瞭然となり、現場でその出来事を目撃した人たちは皆驚き、イエスの人格の秘密の前に立たされたのです。「イエスご自身」が神の言葉であると言う人智を超えた霊的現実を前にして、驚いたのです。
 しかし、その現実が躓きとなる点は、イエスが神の御子であり、真の神であるゆえに、人間となってこの世界に父のもとから遣わされた方であると言うことです。その結果、この世的な権威は一切持たず、貧しく、日々の生活の苦しみを経験された方ですから、ユダヤ教の指導者たちは、イエスを信ぜず、安息日に病人を癒したことによって、神の律法を破った最悪の罪人であると断罪しました。
 しかし、イエスによって神に赦され、真の神を知らされたサマリアの女性はイエスに向って告白しました。
 「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」(ヨハネ4:19)
 このように、旧約聖書の信仰の伝統の中に生きている人たちは、イエスを先ず預言者と理解しました。しかし、良く知れば知るほど、イエスと預言者たちの相違は明瞭になります。預言者たちの場合には、自分が神から知られていることを自覚していましたが、同時に自分は神を完全には知っていないこともよく自覚していました。 それとは対照的に、イエスは神を完全に知っておられたのです。イエスはユダヤ教の指導者たちにこのように仰せられました。
 「わたしに栄光を与えて下さるのはわたしの父であって、あなたがたはその方を『我々の神だ』と言っている。あなたがたはその方を知らないが、わたしは知っている。」(ヨハネ8:54~55)
 さらに、イエスは自分が神の御子(独り子)であることを自覚しておられました。この点が非常に重要です。イエスの自覚はヨハネによる福音書の随所に見られます。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(6:57)「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(16:28)
 実にイエスの自覚はイエスの人格の中心で働いている神秘ですが、正にイエスが神であることを示しています。同時にイエスは父によって、人間世界に遣わされた者として、正に人間であることを示しています。その結果、イエスは父との直接的な交わりの中で、語り、行動されました。これはイエス以外のいかなる人間にも見られない全く特異な点です。
 イエスの人格の深い秘密は、イエスが聖霊によって処女マリアから生まれ、人間としての知性と意志とを持たれたのですが、イエスの人格は誕生以前の永遠の御子の人格であるという点です。さらに、永遠の御子は「受肉する前に」すでにご自身のうちに人間性を持っておられたのです。この深い神秘について、イエスはご自身を「人の子」と呼ばれました。それは「神的な人間」と言う意味です。
 ヨハネ福音書は冒頭で「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1~3)。と言っています。
 このように「神の言葉」は世界と人類に対する神の「自己伝達」です。それゆえ、御子イエスは神の自己伝達として真の神・真の人であります。すなわち、神と人間との「仲保者」なのです。
 勿論、幼子イエスは成長と共に知性が発達し、成長に伴って、父なる神を知るようになられました。しかし、幼い時からすでに、「父に全く依存し、父に求め、父に従う」という「御子の従順」により、イエスは父なる神を完全に知られたのです。
 この点がイエスの人格の神秘です。「子としての従順」による認識です。同時に、イエスの場合は、「直接父を見る」ことによる認識です。これは人智を超えた認識であり、正に聖霊による認識です。
 「はっきり言っておく。父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父のなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」(ヨハネ5:19~20)
 従いまして、御子としての特質により、イエスと父との関係は、父・子・聖霊の「三位一体の神」の「現実」を示しています。
 この状況こそ、父が子を愛し、ご自身を子に与え、ご自身のすべてのことを子に示されることです。他方、子は父を愛し、父の栄光を求め、自分の栄光を求めず、父に従い、父の意志を実行されることでした。ここに父と子との愛の関係が働いています。言い換えれば、聖霊が子を愛する父の愛として、父から子に向かって移動し、他方、聖霊は父を愛する子の愛として、子から父に帰るのです。ここに、父・子・聖霊の「三位一体の神」の存在と働きがあります。
 そこに働いている意志は父から出て、子の意志として働き、他方また父と子に全く従順であり、自らの栄光を求めず、御子の栄光を求める聖霊の意志と働きなのです。このようにして、父と子と聖霊の中で、「一つの意志と一つの働き」があります。正に父・子・聖霊の交わりと働きこそ、一つの神の存在と働きである所以です。
 本日の聖書の箇所であるヨハネによる福音書14章10節で、イエスは次のように仰せになりました。
 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしが言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行なっておられるのである。」
 これは父と子の関係と交わりについての証しです。父と子とは互いに相手の内に内住し、互いに相手を完全に知っていると、仰せになっています。つまり、イエスの言葉と行為、意思と性質は「そのまま」で、父の言葉と行為、意思と性質を現しているのです。それゆえイエスは仰せになりました。
 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14:9)
 父なる神はイエス以外のいかなる人間も「見る」ことのできない神です。これが神の「特性」です。その神がイエスにおいて、人間にご自身を「完全」に啓示されているのです。それゆえわたしたちは人間として知らなければならない「範囲内」において、イエスによって父なる神を「完全に知る」ことができるのです。他方、またわたしたちはイエスが知らせて下さる以上には、神を知ろうと欲しないのです。この点も信仰者の特質である神に対する従順です。
 さらに、人間に対する父なる神の創造的な意志は徹底的に父に従われたイエスの従順によって、実現しました。その結果、人間を神の御前に生かす永遠の命がイエスの中に働いたのです。否、イエス自身が「永遠の命」となられたのです。
 なおこの永遠の命は、イエスが、父の意志に徹底的に従い、ご自身を人間に与え、ご自身が代理となって、人類の罪のために死なれたことによって「完成」しました。
 「人間を神の御前に生かす」父の主権の目的は、人間の罪に対する裁きを通して執行され、裁きに対して徹底的に従順であったイエスの死において成就したのです。
 この現実をヨハネによる福音書はイエスにおいて真理が現れた、と言います。「真理」とは神がご自身の性格と目的に一致した方法で、人間に対して行動される、人間の問題を解決されるときに現れます。その結果、イエスが「人間の救いそれ自体」となられたのです。
 それゆえ、「イエスは恵みと真理とに満ちていた。」(1:14)「イエスにおいて恵みと真理とが現れた。」(1:17)と聖書は証言しています。言い換えれば、神を知り、神に従う従順な「新しい人間」が、「イエス」によって、「イエスの中」に、創造されたのです。
 それゆえわたしたちは「主イエスにあって」生きるのです。イエスの中にある「新しい人間」として、主イエスを「信じ」、主イエスに喜んで「従う」のです。さらに、このようにさせる方が聖霊です。

(3)わたしは道である
 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」(14:6)
 イエスは今や、十字架の死によって、人類の罪と神に敵対する闇の力に勝利し、人類を罪と闇の力から解放されました。その結果、神の主権を委任された復活の主イエスはわたしたちを支配し、導き、わたしたちを父のもとに連れ出されるのです。救いの究極目標である永遠の国に導くために、神様はわたしたちをご自身との交わりの中で、日々新たに生かされるのです。神は正に活ける神様です。



教会案内
〒354-0044
埼玉県入間郡三芳町北永井959-3
TEL・FAX:049-258-3766

牧 師:中山弘隆

創立日:1972年2月19日

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